日々発見

日々新しい事に挑戦して・・・

2015 年 ヨーロッパへの旅 33 シュヴェリーンからウィスマールへ 

2015-12-27 01:03:43 | 2015年 ヨーロッパへの旅

9月21日(月)

Schwerin→Wismar
シュヴェリーンからウィスマールへ

ホテル・クエレの朝食も、特別豪華ではないが、
野菜も、果物も新鮮でおいしかった。

今日は世界遺産の街、元祖ハンザ都市のウィスマールへ。
シュベリーンからウィスマールまで電車で35分だが、
1時間に1本しかないので、これを逃すと大変。
10:45に間に合うように、早めにチェックアウトした。

ウィスマールはバルト海に面した小さな都市で、
2013年12月現在の人口は4,2万人、
1905年は約2、2万人だったので、100年間で2倍になったとのこと。

日本は一体この100年で何倍になったのだろう・・・

ハンザ同盟とは、通商、公益上の利益保護を
目的として結成された組織で、
王侯貴族の支配を受けない自由都市のネットワークを言い、
13世紀、バルト海の海賊から船と町を守るため、
リューベック、ロストック、ウィスマールの三つの都市が協定を
結んだことが、後のハンザ同盟の礎になったと言われている。


 
ウィスマールまでの車窓風景。

 

ウィスマール駅は驚くほど、小さな小さな駅だった。




駅から町の中心マルクト広場に向かう水路沿いの道、
橋の袂に不思議な像が・・・


 

何か「謂れ」があるのかもしれないが、観光客らしき人達が
必ず、豚のお腹をなでて、写真を撮っていたので、見習った。?


 すぐ傍の古い教会から、パイプオルガンの音が流れて来たので
覗いてみたら、入口に「2ユーロの寄付お願い」と書いてあり、
係りの人が「英語のパンフレットか。」と聞くので、
「ジャパニーズ」と答えると「おぅ、ヤーパン。」と言い、
日本語の説明書が1枚入ったA4判のファイルを見せて下さった。

そのパンフレットには、「1945年4月15日に爆撃を受け
ハンザ同盟の大教会聖マリエン、聖ゲオルゲンと並ぶこの教会は
確かに戦火を免れはしたが、近日中に行われる再修理の為に
かなりの資金を必要としています。」と書かれていた。
(この4ヵ月後、日本の広島、長崎にも原爆が投下されたのだ。)

1403年に建設が始まって以来、塔の沈下現象の為
ドームが崩れ落ちたり、爆薬庫の爆発によって街全体が破壊、
更に1703年のハリケーンによって 、あるいは第二次世界大戦によって、
中世の美しい多くの建物が絶滅、その後、
いろいろな再建が試みられているが、まだまだ道程は遠いという。

教会の前の道路には建物の破片も敷石として使われていた。

ここはドイツで4番目に大きな身廊を持つ教会で、
船乗りや漁師達の信仰を集めていたそうだ。


さて、マルクト広場に着くとそこは100m四方の広さで、
市庁舎や美しいレンガ造りの建物が並び、スウェーデン国旗を揚げた
「アルター・シュヴェーデ」は1380年に建てられたこの地最古の建物で
現在はレストランになっているそうだ。



旧市街はこじんまりとしていて、のんびりと散歩しながら楽しめた。

マルクト広場の右手前に見えるのは 
青銅製の屋根が付いた美しい給水塔で、
かつて、ビール醸造が盛んだったため、大量の水が必要で、
この給水塔や水路が造られたそうだ。

中央後側に見えるのは14世紀に建てられたマリエン教会で、
戦争で破壊され、この塔だけが残されているとのこと。

 美しい後期ゴシック様式の水門や、レンガのゴシック建築物は有名で
2002年に「シュトラールズントとウィスマールの歴史地区」として
世界遺産に登録されたとのこと。
今も、あちこちで家の改修や道路の工事が進んでいた。

(後期ゴシック様式の水門)

あっという間に2時半。
ガイドブックに載っていたお薦め、「魚屋が営むレストラン」に行くと、
たくさんのお客様で、私達は何をどうしたらよいか分からず、
とにかく本に書かれていたエビの燻製、
鮭の燻製、サラダとビールと水を頼んだ。



 

 他のお客様達を見ると、何やらおいしそうな魚のフライや、
マッシュポテト、茹でたジャガイモなどが大きなお皿に盛ってあるのに、
私達は何だかかわいそうだった。

しかも・・・エビの燻製は期待外れ。
「ここに来たら、絶対食べるべき」と言うほどの物でもなかった。

寂しい気持ちで外に出ると、船のレストランが5~6艘、
同じような食べ物を売っており、何人か傍のベンチに
腰かけおいしそうに食べていた。
「ああ、もっとちゃんと見てからにすれば良かった。」とは思ったものの、
「寒い戸外での食事も辛いかもしれない、
暖かくて良かった。」と自分を慰めた。

雨が降り出し、寒くてたまらないので
予定より一台早く電車に乗ろうと急いで駅に戻ったのだが、
尋ねた人が私達の思っていた電車ではない
「コトブス行き」の電車を指差し、
シュヴェリーンで乗り換えればよい、と言うので、
乗り込んで待っていると、出発時間になっても動かず、
「遅延か。」と問うと「いや。」と断定する。

結局、違うホームから電車は出て行き、私達の乗っていた電車は、
その後の電車だったので、途中駅のシュヴェリーンで
一時間も待つはめになった。

ドイツ語の話せない日本人と、英語の話せないドイツ人、
親切心はよく分かったが、残念だった・・・

この辺りは旧東ドイツなので、観光客も少なく、
観光地化していない分、とっても のどかだが、
やはり旧西ドイツ辺りとはかなり違うようだ。

ようやくハンブルグに帰り着き、
夕飯は先日のイタリアンレストランに入った。

野菜スープ、シーフードサラダ、シーフードスパゲッティ、白ワイン、
コーヒー、全部二人で一皿ずつ。
ところが、先日は「やはりイタリアン!」と思ったが、今日のシーフードは
全て塩辛く、とてもまずくて、泣く泣く残してしまった。

さて、いつもより帰りが遅くなった。
今まで昼間の内は気が付かなかったホテルまでの道、
途中にある広場にいかがわしい人達がたくさんたむろしていた。

とても怖い雰囲気の中、何をされる訳でもないのに、
二人で手をつないで、走るように急いだ。
すぐに穏やかな住宅街の中に入り、
そのギャップの大きさに驚いたが、
世界中、大都市には、裏通りに潜む闇があるのかもしれない。

昼間見れば、こんなに穏やかなきれいな公園なのに・・・・ 

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2015 年 ヨーロッパへの旅 32 シュヴェリーン 2 

2015-12-20 13:40:39 | 2015年 ヨーロッパへの旅

9月20日(日(前頁からの続き)

おいしいお菓子をいただき、ちょっと元気が出たところで、
街の中心マルクト広場まで数分歩くと、市庁舎や大聖堂がある。

大聖堂Domは1270年から建て始め、約150年後の1426年に完成。
内部の高さは29mに及び、
現在はプロテスタントのルーテル教会になっているそうだ。

大聖堂入口の左側に細い218段の螺旋階段があり、それを上ると 
塔の上から湖と森に囲まれた町を一望出来るということだったが、
人一人が通れるぐらいの狭さを見ただけで戦闘意欲を失った。

もっとも、もう教会が閉まる時間でもあったので、
上に行きたくても無理だったが、閉まった門の外から、
小さな男の子が私にドイツ語で、自分の髪の毛を触りながら、
傍にいる犬を指差し、何かしきりに言っていた。

西洋人形のようなかわいい坊やの横にいたお父さんが、
「『この犬は僕と同じ髪の色で、○○って言うんだ。』と言っているんです。」
(ドイツ語の名前だったが、犬の名は忘れてしまった。)

この近くの住民で、お散歩に来たらしい。
私が「東京から来た。」と言うと、彼は坊やに「とっても遠くの
大きな町から来たんだよ。」と言い、私が「いつか来てね。」と言うと
坊やは「うん、お父さんと車で行くからね。」と言った。
かわいくて、かわいくて、門扉の格子から手を出してしっかりと握手。

ステキな父子とワンちゃんの写真を撮り忘れて、本当に残念だった。

さて、ここから歩いて更に数分、私達の今夜の宿は
旧市街の中にあり、すぐ傍に16世紀の頃に建てられた家もあった。

先程、荷物を預けたGasthof Zur gutten Quelleも
古い建物だったが、ニ階の私達の部屋は広くて清潔で、
冷蔵庫も付いたステキなホテルだった。

ニ階にたった5つの部屋しかなく、周りも静かで良かったが、
エレベーターを見かけなかったので、
大きなトランクを持ち込むのはちょっと大変かもしれない。

夕食は下のレストランで。
近所の人達なのか、入れ替わり立ち替わり、
空席がないほど賑わっていた。

夫は魚、私は豚、どれも本当に美味しく、特にサラダのドレッシングは
今までにヨーロッパでいただいたどのドレッシングより美味しかった。
(夫と私、二人だけの評価だが・・・。)

それにしても、どのテーブルにも必ずポテトが5つ、籠に入れてあるが、
何だか硬そうで、しかもお腹もいっぱいで、手を付けることはなかった。

夫は「これはお土産で、家に帰ってから茹でて食べなさい、
ということだよ。」と笑いながら言ったが、店の人に確認をすれば、
真相が分かったのに、確かめもせず、残念だった。



そうそう、これは余談だが、
ドイツに来て一番退屈なのはテレビ放送だった。

ユーロ・スポーツは、丁度ラグビーのワールドカップの最中で、
ラグビーファンには申し訳ないが、
ほとんどサッカーやテニスの放映はなく、
言葉が全く通じないので、何を見てもつまらなかった。

イタリアのミラノでは、USオープンでイタリアの女性が
1位、2位を獲得したせいか、テニス番組の放映が多く、
前回のドバイ・カップまで放映していた。
私の大好きなフェデェラーがジョコビッチを下した試合を
見られたし、サッカー番組も多かったので、夜も結構楽しめた。

さて、明日はウィスマールへ移動する・・・・

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2015 年 ヨーロッパへの旅 31 ハンブルグからシュヴェリーン 

2015-12-19 15:40:04 | 2015年 ヨーロッパへの旅

9月20日(日)

Hamburg →Schwerin
ハンブルグ→シュヴェリーン

今日はこのままハンブルグのホテルに荷物を預かってもらい、
ハンブルグセンター駅から電車でシュヴェリーンまで出かける。

電車は日曜日のせいか、かなり混雑していた。
一等車に乗っていたアラブ系のイタリア人に
車掌が何度も二等車に移るように言うが、
5~6人連れの家族らしい人達は、どうしても動かず、
他の車両は混んでいて座れない、と言い張り、
とうとう、一等料金を払えと言われて、仕方なく移動して行った。
見ていたら、全員座れたようで私は何となく安心した。

ハンブルグから1時間20分後、シュヴェリーン駅に着いたが、
小さな駅の案内所の女性は多分50代だろうか、
全く英語が分からず????だった。

地図を頼りに、迷いながら
今夜の宿Gasthof Zur guten Quell
(ガストホフ ツア グーテン クエレ)を見つけたが、
小さなレストランのドアしかなく、恐る恐る、客で混んでいる中に
入って行くと「特にレセプションはないが、ここだ。」と言われ、
とりあえず、荷物を預けて、シュヴェリーン城を目指した。

ほとんど観光客しか歩いておらず、
のどかでロマンティックな雰囲気が漂っていた。
お城が近付くにつれ、その美しさに「わぁ、ステキ!
すご~~~~い、美しい~~~。」としか言葉が出てこなかった。

赤信号で止まっていたら、後から来た自転車が私の横に止まり、
突然「あなたの洋服ステキね。」と声を掛けられた。

私は寒くて仕方がなかったので、薄いダウンジャケットの上に
七分袖のコートを着ていたから、とっても変だったはず。

この御夫妻はドイツのコプレンツから来たと言われた。
ライン下りの終点になっているので、
私達も過去に二度行ったことがあり、
ライン下りと、そして数年後にはライン昇りもした、
ということなど、しばらく立ち話をした。

夫のお陰でいろいろな町に連れて行ってもらい、
ほんの一瞬の出会いにも、大きな幸せを感じる。
本当にありがたいことだ。

この辺りは幾つもの湖や池が連なった特殊な土地で、
二つの湖の間にまたがるように聳えているこの城は、
16~17世紀にネオ・ルネッサンス様式を基調に建てられ、
その後、19世紀に改築され、今日の姿になったそうだが、
今もあちこち工事中だった。

入場料、大人6ユーロ、シニア4ユーロ、
一階のマイセン陶器のコレクションを一回りして、
次に豪華な調度品で飾られた「王の謁見の間」に。

壁の隅々まですばらしい彫刻が施され、
ヴェルサイユ宮殿にも劣らぬ美しさだった。

残念ながら、撮影禁止だったので、絵ハガキで御想像を・・・・。

  

時々城の中から見える湖の美しさも格別で、
城内の見学が終わって庭園に出ると、
あまりの美しさに、言葉にならないため息ばかり・・・・ 

しばらく歩くと、湖畔にとても大きな額縁が建っており、
その額の後側に家族、グループ、
恋人?達が立って、写真を撮っていた。

私も4組ぐらいの人達を写してあげたが、
皆、湖の景色に負けない位美しい笑顔だった。

次に、大聖堂に行く前にCafe・Pragで一休み。
シュヴェリーン最古のカフェレストランで、
1755年にクレフト家がケーキ屋付きカフェを開店し、
木組み建築の当時の建物は、1908年に焼失したらしいが、
その後、再建されたこの店もいつも賑わっているらしい。

私達が入った時も、日曜日のせいかもしれないが、
席を探すのに手間取った。 

名前は分からないが、とってもおいしいケーキだった。
カプチーノ二杯と、ケーキ1個で 7,1ユーロ。
夫はずいぶん安いね、と言っていた。

隣の大きなテーブルには3世代の御家族が
小さなお孫さんを中心に集まっていらっしゃった。

土地の年輩の人達はほとんど英語を話さないが、
笑顔を向けると、ステキな笑顔を返してくれる。
何となく、いい気持ちだった。

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2015 年 ヨーロッパへの旅 30 ハンブルグ

2015-12-15 14:24:33 | 2015年 ヨーロッパへの旅

9月19日(土)

Hamburg
ハンブルグ

目覚めた時は晴れていたが、朝食を取っている間に
かなりの雨が降り出し、外は寒そうだった。

昨日、チェックインした時に、クラークが
「このところずっと雨続きなので、今日の晴は珍しい、
明日も雨かもしれないから、今日の内にあちこち見た方がいい。」と
アドバイスをしてくれたが、今朝、顔を合わせた時に、
「ねっ、言った通りだったでしょう。」と顔をほころばせた。

この街の歴史は9世紀初頭に始まり、カール大帝が
街の基礎を築いたと言われている。
エルベ川に設けた港を中心に商業都市として発展した。

ここへ来て、港湾巡りをしないのはハンブルグに来た意味がない、
というくだりをガイドブックで読んで、年間13,300の船が
行きかうハンブルグ港へ向った。

たくさんの遊覧船が並ぶ船着き場で、
どの船に乗るのかウロウロ探した。
ドイツはどこへ行っても案内標識に英語が少ないが、
ここでは全てドイツ語ばかり。
あちこちで聞き、その結果、英語の説明のある船は
毎日12:00に一回だけで、
後は全てドイツ語のガイドしかない、ということだった。

切符売り場のおじさんに「英語が聞きたければ、
明日の12時に来なさい。」と言われたが、私などは英語だって
ほとんど分からない訳だから、どっちでも良い。
船に乗って、ステキな景色が見られればそれで十分だった。

ところが・・・・コンテナを運び入れる埠頭、船のドック、豪華客船、
運搬船の数々・・・・すばらしい景色はごく一部だった。



多分、ドイツ語を聞いている人達は笑ったり、感心したり、
頷いているので、とても為になっているのだろうが、
私達はワインとウインナ、トマトスープとカプチーノ、
パン等の軽食をおいしくいただき、1時間を過ごしただけだった。

下船して、電車で3駅戻り、市庁舎(Rathaus)へ。

1886年から1897年にかけて造られた
ネオ・ルネッサンス様式の建物で、部屋数が647室もあり、
バッキンガム宮殿より6室も多いことが、市民の自慢で、
現在は州議会の議事堂として使われているそうだ。

 112mの尖塔を何とか入れようとしたが、
かなり離れた場所まで行っても、
正面からの写真は撮れなかった。

ドイツの市庁舎の傍ではよく見かける光景だが、
今日も、寒い中、2組の結婚式の人達が、
撮影の為あちこちでポーズを取っていた。
日本では考えられない。


次にしばらく歩いて「聖ヤコビ教会」に 行った。
14世紀から15世紀にかけて造られた教会で、
オルガン製作者やオルガン奏者 にとっての巡礼地と言われるほど、
世界的に有名なパイプオルガンを持ち、
その演奏会が定期的に開かれているそうだ。


また、内部には中世の価値ある美術品がかなりあるらしいが、
残念ながら、10時から5時までの見学時間を少し過ぎていた。
 

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2015 年 ヨーロッパへの旅 29 イタリアからドイツへ

2015-12-14 00:31:28 | 2015年 ヨーロッパへの旅


9月18日(金)

Milan→Hamburg
ミラノからハンブルグへ

6時起床。
朝食を取る時間もなく、タクシーでミラノアルペンサ空港へ。
9:30、ドイツ、ハンブルグ空港着。

飛行機の中で、隣に座っていた若い男性が話しかけてきて、
日本や、日本語の響きが大好きで、
日本語を習いたいと思っているが、とても難しい、と言われた。
ハンブルグ大学の2年生とのこと。

昔は日本のことが好きだ、と話しかけてくる人はおろか、
日本のことも知らない、という人がほとんどだったが、
ここ数年、日本人だと分かると笑顔で褒めてくれる人が多い。

日本人は勤勉で礼儀正しく、食べ物は安全でおいしい、
日本の街は美しく、ゴミのポイ捨てをする人がいないのはなぜなのか、
特に若い人達は、日本のアニメはすばらしい・・・等々。

ちょっと面映ゆいが、日本人として、本当にうれしいし、
自分自身もその名に恥じない行動をしなければならないと思う。

さて、前述の彼は、ハンブルグ空港に降りると、バゲッジクレインから
私達の荷物を降ろして、タクシー乗り場を探して下さり、
「何かあったらいつでも連絡を下さい。」と言って、
電話番号まで書き残して下さった。感謝!感謝!

Le Boutique By Centro Comfort
ル ブティック バイ セントロコンフォート

タクシーで、何やら、ずいぶん長い名前のホテルに着くと、
隣のビルは改装工事の為か大きな音が響き、
防護幕が張ってあった。

2時30分がチェックイン時刻なので、
荷物をフロントに預け、しばらく、駅周辺の下見に出かけた。

ハンブルグはドイツ第2の都市。
何となく、都会のゴミゴミとした感じの駅前で、
駅構内も広いが、垢抜けた感じはしなかった。

ヨーロッパではお馴染みの八百屋さんがあり、
私の大好きなブドウは日本よりもはるかに安い。
でも、全体的にはやはり日本の物の方が美しく新鮮そうに見えた。

夕方、駅前のイタリアンレストランに入り、 
 早めの夕飯をいただいた。





イタリアンはどこへ行っても当たり外れがないので何となく頼み易い。

ホテルに帰ると、工事は終わったのか、騒音もなく、部屋に入ると
白を基調にした内装や家具はすごくモダンで美しかった。

夫が長年行ってみたいと言っていた北ドイツ、
正式にはハンザ同盟の自由ハンザ都市ハンブルグ、
明日からの観光が楽しみだ。
 

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2015 年 ヨーロッパへの旅 28 イタリア(ミラノ-2)

2015-12-12 15:09:47 | 2015年 ヨーロッパへの旅


9月17日(木)

Milan
ミラノ

9:20、今日は「スカラ座」「ドゥオーモ」
レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を
見るために観光バスに乗った。

このチケットは事前予約が必要で、「最後の晩餐」の会場には、
一度に30人、15分だけしか中に入れないというので、
日本で事前予約をして臨んだ。

ガイドのトヨタさんはイタリア在住20年のすてきな女性で、
我々日本人7人の担当。

40人乗りのバスに、幾つかの国の人達が、
それぞれのグループのガイドの元に、
イヤホーンで案内を聞きながら観光名所を回る。

スカラ座内部の見学はとても興味深かった。
ホールまでの階段には初演からのポスターが全て貼られており、
これはかの有名なプッチーニのオペラ トゥーランドットの物。

 舞台の上で用意をしている人達を見ることが出来、

昔の貴族達が幕間に優雅に集まって談笑したであろう待合室に遊び、

 代々の歌姫達の肖像画、作曲家や指揮者の銅像、
舞台で付けたジュエリー類、
書きたい事、載せたい写真は山ほどあるが、割愛・・・

でも、そっと使わせてもらったトイレは、ここに披露・・・

1776年2月25日に初代のスカラ座は火事で焼失し、
現在のスカラ座は2年後の1778年に建てられた二代目。
その当時の様子が描かれた絵画があり、
今とほとんど変わっておらず、車寄せの造りもそのままだった。

もちろん手直しはされているのだろうが、
230年以上昔の建物とは思えない現在のスカラ座。

ここからバスは市内を回り、ドゥオーモ(ミラノ大聖堂)の見学に向かった。 

2012年にもここへ来たことがある。
(上のドゥオーモをクリックしてね。その時の記事が出てきます。)

幸運にも、我々旅行者は滅多に出会うチャンスのない
ミサが行われていた。

ドゥオーモに向かって左側のアーケードは、
中の建物が以前より明るく感じたので、不思議に思っていたら、
昨年、プラダがエキスポを機に、資金を提供して磨いたそうだ。

そして、前回は全く知らなかったが、牡牛のモザイクがあり、
その股間部分の窪みに踵を載せてぐるっと回転すると
願いが叶うという言い伝えがあるというので、今回、私も回ってみた。

もしかしたら・・・・ジャンボ宝くじでも買いに行こうかな。

 

その後、サンタ・マリア・デッレ・グラッツェ教会にある
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「最後の晩餐」を見るために移動。

この教会は世界遺産に登録されている建物で、ここに
彼が1495年から1497年にかけて描いた
「最後の晩餐」が展示されている。

いつもは閉まっているという教会の扉が、この日は開いていて、
「えっ、こんなこともあるんですね、ラッキーですから、
さっと見て来て下さい。」とガイドさんが言われた。

今晩、ここでコンサートが開かれる為、用意の最中だったらしい。
何だか、得した気分!

それから、順番を待つ間、この絵に付いて
トヨダさんから詳しい説明を受けた。

彼女のお話は聖書の内容を 細部まで知らなければ
絶対に説明出来ないのではないかと思い、
そのことを伺ったら、やはり、クリスチャンだと言われた。

「ここでは、クリスチャンにならなければ、生活が出来ないのです。」
日本における宗教とは全く違う、宗教その物が生活なのだ・・・

 度重なる修復の結果、その時代、その時代の修復師達の考えによって、
上から塗り重ねられた物を、丁寧に剥し去り、現代の科学を駆使して、
塗料の種類を特定し、何年もかかる作業の結果、
今日の作品になったという。

戦争の爆撃によって周囲は全て崩れ去ったが、
この絵だけが奇跡的に残された。
数年の間、軍用のシートだけを覆い被せてあったので、
これも劣化の原因の一つになったり、また、教会その物が
牛舎、豚舎に使われたりし、その糞や息、汗などで
かなり作品が損なわれたこともあるという。

本物は撮影禁止で、撮れなかったので、ポスターで我慢!

夫は30年前と、その後にも一度訪れたことがあり、
その頃の絵と、周囲の環境の変化にひどく驚いていたら、
トヨタさんもその通り、その通りと頷いていらっしゃった。

立派な建物の中で、厳重に温度、湿度など管理されていれば、
500年前の天才の遺産が後世の人達に残される。
私達にとって、これからの人達にとって幸せなことだ。

9:20~13:30まで、なかなか興味深い、楽しい4時間だった。
 

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2015 年 ヨーロッパへの旅 27 イタリア(ミラノ)

2015-12-07 00:16:19 | 2015年 ヨーロッパへの旅


9月16日(水) 

Milan
ミラノ

昨夜、10時半、ヘロヘロになりながらベッドに入った私、
10時間後、一度も目覚めることなく朝を迎えた。
今日はミラノエキスポに出かける日。
今回のテーマは「地球に食料を、生命にエネルギーを」

人混みが大の苦手な私は、
日本で開かれる万博にも出かけたことがない。
全くこんな遠方まで万博を見に来るなんて思ってもみなかった。

Rさん親子が数年後にドバイで開かれる万博の為に
是非行きたいと言われ、それでは私達も、ということで、
日本でチケットを取っていたのだが、Oさんはお仕事で、
Rさんは御友人が急逝されたという御連絡が入り、
私達が一足早く来ることになったのだ。 

万博会場に着くと、まだ早いのか、入口には人が少なかった。

 

 

中央に広い通りがあり、両側に各国のパビリオンが並んでいる。

私達はまず日本のパビリオンに。



真正面に各地方の酒樽が並び、両側には釘を使わない木組みの壁が。
パビリオンに入ろうとしたら、2時間待ちだと言われた。



「でも、先週は5時間待ちだったから、今日はラッキーですよ。」とのこと。

仕方なく、パビリオンは後回しにして、
日本酒の利き酒コーナーやレストラン棟に。

3~4日交替で各地方の酒造所から出品しているそうだ。
利き酒をして、アンケートを書いた人には
小さな瓶に入った日本酒と小さな枡が配られていた。
もちろん夫は

レストランも大盛況で、お蕎麦や、カレー、寿司等々
よく売れているようだった。

昼食、夫は天ぷらそば、私はお寿司をいただいたが、
残念ながら、お寿司はまずかった。

私はたまたま夫のお蕎麦に付いていたわさびを分けてもらって、
生臭みを消すことが出来たが、知らない人はお気の毒。

毎日これだけ多くの来客をもてなすのは大変だろうとは思うが、
「これが日本のお寿司?」と思われるのが心外で、
日本人スタッフにそのことを告げると、
ほとんど冷凍物で、輸送に時間がかかり、
しかもこの辺りの近海で取れる魚も使っている、
しかし、日本人以外の寿司職人が作る寿司とは全く違うので、
これでもすごく評判はいいのです、と言われた。

それにしても、わさびだけは付けてほしい、と言うと、
こちらでは わさびが苦手な方がいるので、
用意はしているが、あえて付けていないのです、とのこと。

これは大きな間違えで、数年前、ノルウェーのオスローに行った時、
ベトナム人ばかりが働いている寿司コーナーで、
現地の人が小さなおまんじゅうぐらいの大きさで、
2cm×1cmほどの円錐形のわさびを二つも注文して、
おいしそうに食べているのを見て驚いたことがある。
お寿司も決してまずくなかった。

「寿司の食べ方」のパンフレットが付けてあるのだから、
わさびの説明も入れて欲しい、と一応アドバイスをした。

「日本の寿司」の看板の上に胡坐をかいていると、
いつの間にか、ベトナムや中国のお寿司の方がおいしい
ということになっては、悲しい・・・・
きっと「うるさいおばさんだ。」と思われたに違いない。

さて、食事が終わってまたパビリオンの入口に行ってみると、
相変わらず2時間待ち。
しかも見学に50分はかかると言うので、
先にUAEのパビリオンに向かったが、ここでも長蛇の列、
結局、1時間20分並んで、ようやく中に入ることが出来た。

ここでもビデオ鑑賞を含め、約50分の見学時間が必要だった。
大きなスクリーンに昔の砂嵐の中の生活の厳しさが映し出され、
現在の超近代的な街並み、未来に向かっての食糧計画、
その映像は、言葉の分からない私にも十分理解出来た。


 
展示室には、同じスクリーンに昔と現在の写真が映っていて
角度を少し変えるとそれが交互に見えるのでびっくり!

  

イタリア人にとって未知の国と思われる国々のパビリオンは、
かなり混んでいたが、アメリカ、ドイツ、フランス等の国々は
皆よく知っているせいか、空いていた。

たくさんあるレストランの一つで軽食を取り、
また、日本館を目指したが、相変わらず長蛇の列は続き、
2時間と見学時間の50分を考えると、残念ながら、
あきらめざるを得ず、他のパビリオンを見ながら10時頃
会場を後にした。
 

後日談だが、10月末にこの万博は終了した。
日本館は最後の日には9時間待ちだったという。 

日本館は金賞に選ばれたというニュースを聞き、
返す返すも2時間待たなかったのが残念で仕方がなかった。



この日、会場内で着物を着た女性を見かけ、
しばらく立ち話をしたが、わざわざ日本から用意して来られたとのこと。
私は着物を海外に持って行こうなどと考えたこともないが、
会場内での注目度は抜群だったようだ。

小柄な女性はローマ在住で、御主人が「こばやしはじめ」さんと言い、
バイオリンやヴィオラの制作をなさっているとのこと。
着物の女性は楽器を見に来られたらしい。
海外で活躍されている方のお話を伺えただけでも本当に良かった。

そして、数日前、彼女からメールをいただいた。

今日の夕方、空がとても綺麗だったので、お写真送ります♪
ベランダからの景色です。

居ながらにして、ローマの晩秋の空が拝めるなんて、何という幸せ!

コメント (4)
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