日々発見

日々新しい事に挑戦して・・・

2015 年 ヨーロッパへの旅 40 ハノーヴァー→帰国

2016-01-26 23:36:47 | 2015年 ヨーロッパへの旅

9月27日(日)

モーニングコールで目が覚めた。

6:00、まだ外は真っ暗、急いで身支度をして、7:00レストランに。
ほとんど人がおらず、とっても静かで、
さらに驚いたことに、ビュッフェの内容が日替わりになっていた。

こんなに静かで落ち着いて食事が出来るなら、もう少し居たいなぁ・・・

とは言え、もう二度と来ることはないだろう・・・

ハノーヴァー空港からフライトタイム35分で
オランダ・アムステルダムへ到着。

さて、成田行きの搭乗時、私は係員の中に、ある方のお顔を探していた。

あっ・・・・もしかしたら・・・・と、お顔をじっと見て
「覚えていらっしゃいますか、
3年前にあなたに助けていただいたのですが。」
と言うと、あっというお顔で「はい、よく覚えています。」と
とてもうれしそうにおっしゃった。
その時の記事は下記をクリックして下さいね。

http://blog.goo.ne.jp/masuehikashino/d/20130114

 御親切にしていただいたことは、何年経っても忘れない。

今回の旅は、ラシェッドさん御家族からの
思いがけないプレゼントで、今までに行ったことのない所、
経験をしたことのない事柄ばかりで感謝と感激の毎日だった。

そして、出発前に何日もパソコンの前でBooking.comを検索し、
サンモリッツやイタリア、北ドイツの
安くてお得な宿を懸命に探してくれた夫にも感謝、感謝、感謝。

私達の最後のヨーロッパ旅行は、たくさんの出会いがあり、
 本当にすばらしい思い出になった。

そして、ノロノロといつまでも上がらないブログを
飽きずにお訪ねいただいた皆様にも感謝、感謝。
ありがとうございました。

コメント (4)
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2015 年 ヨーロッパへの旅 39 ハノーヴァー⇔ツェレ

2016-01-25 21:11:49 | 2015年 ヨーロッパへの旅

9月27日(日)

今日はいよいよ最終日、ツェレ観光。

ゆっくり支度を整えてレストランに行くと、
また昨日の8人組が楽しそうに、騒々しく食事をとっていた。

11:55、ハノーヴァーから電車で40分、



駅から歩いて15分、町の中心部に入ると歓声と共にカメラを構えた。

ここツェレは「北ドイツの真珠」と呼ばれており、
第二次大戦の時にも爆撃されていないので、
15~17世紀の街並みがそのまま残されている。
木組みの家が 500軒もあるという。

今まで回った都市にもそれぞれ木組みの家があり、
その都度、感激していたが、ここは桁外れ。

 観光馬車も街並みにピッタリ!

他の有名な観光地から離れた場所にあるせいか、
観光客も少なく、しかも、日曜日のせいか、
たくさんの子供達が親と一緒に教会の前で歌ったり、踊ったり、
「炊き出し」のような雰囲気の食事をしていたり、とても楽しそうだった。

市教会の74,5mの高さの塔の展望室からは街並みや
ツェレ城を一望できるということだが、私達は今回は登らなかった。

 

教会の中には1687年に作られたバロックオルガンがあり、
装飾のすばらしさも際立っていた。

ツェレ城はハンザ同盟都市リューベックの領主の居城として
1292年に建てられ、
その後、増改築でルネッサンス様式やバロック様式が加わり
バロック様式の劇場では、現在でも様々な催しが開かれているという。

中庭に回ると、青年達がプラスチックの大きなゴミ箱のような物を
ドラムのように叩き、大勢の観客から拍手喝さいを浴びていた。
今日はきっと何かのお祭りの日なのだろう。

のどかで、広い庭には小川が流れ、たくさんの鳥達が泳ぎ、
餌をやる人達の周りに群がっていた。

日本の私達の住んでいる家の近くは坂が多く、
上り下りが激しいので、
自転車を自由に乗りこなすのはかなりきつい。

しかしながら、この地では目で見る限り坂がなく、
自転車専用道路も広く、電車にも自転車専用車両があり、
このお城から駅までの道も、緑の絨毯を横に見ながら、
たくさんの自転車が走って行くのが見え、とてもうらやましく思った。

    

明日の帰国に合わせ、4時前にはホテルに戻り、
昼寝をして、また、一昨日のドイツ料理店に出かけた。

1634年創業・・・



さて今夜は、サラダとメインディッシュ一皿ずつと、
ミドルサイズのビール1本。
二人分、これだけで十分、お腹一杯の量だった。 

ここでもまた4人の日本人にお会いした。
こちらに会社の取引先があるので、2~3年に一回、
御挨拶を兼ねて回っていらっしゃるとのこと。

いろいろな方達がいらっしゃるのだと思った。

 

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2015 年 ヨーロッパへの旅 38 ハノーヴァー⇔ハーメルン

2016-01-19 19:28:58 | 2015年 ヨーロッパへの旅

9月26日(土)

ハノーヴァー⇔ハーメルン
Hannover⇔Hameln

昨日歩き過ぎたせいか、今朝は体が重かった。
早速、ベッドの上で朝の体操。

私は家でも旅行先でも、
必ずテニスボールを二個ベッドサイドに用意している。
首の後から背骨の両側にかけて、徐々に体を揺すりながら、
ボールを下へ動かし、腰、お尻のほっぺ、
最後に膝の裏側にボールを挟み
100回ほど、かかとを腿に打ち付けるつもりで叩き続ける。

これを続けると、ふくらはぎの張りや、
膝の痛みがいつの間にか治るのである。
今日もこれで体が軽くなって、スムーズに動けるようになった。

朝食に行くと、さすが4つ星ホテル。
品数も多く、レストランの雰囲気も良かったのだが、
大勢の人で混み合っていた。

席を決めて食事を始めたら、隣に、グループ旅行なのか、
8人の男性がやって来た。

あまり聞いたことのない言葉で、どこの国の人か分からないが、
大声で話し、笑い、けたたましい。

日本人が懸命に叫んでも、なかなかあのような声は出ないだろう。
声帯、体格の差があるのだろうか。
それとも教育の差?国民性?
我々はそそくさと食事を終えて、部屋に戻った。

今までの星なしレストランでは、団体客がおらず、
大体2~3人の家族連れで、食堂に入る時に「Good morning!」と
声をかけて入るので、皆顔馴染みになり、和気あいあいとしていた。

ハンブルグのホテルでは、突然、英国の老婦人に「おめでとう!
フットボールのワールドカップで南アフリカに勝ったね。」と声を掛けられ、
ポカンとしていたら、笑われてしまった。
帰国後に、五郎丸選手が一躍時の人になっていることが分かったが、
数日間顔を合わせていると、どちらからともなく、
自然に会話が始まるのはやはり小さなホテルだ。


さて、11:25 ハノーヴァー駅から
Sバーンのブレーメン行き電車に乗った。
ハーメルン駅まで約40分。
乗客は少なく、のんびりと車窓の景色を眺めていると、
たくさんの風力発電施設が見えた。

ドイツ政府は原子力発電を止め、徐々に自然エネルギーへの
変換へ移行するという発表をした。

 日本は4年前、東北地震の時に
あれだけの被害を受けたにもかかわらず、
又、再稼働することを発表した。

地球温暖化の問題もあり、化石燃料にばかり頼る訳にもいかないが、
いずれ、出来るだけ近い未来に、ドイツのような道を選んでほしいと思う。

さて、ある駅に着いた時、近くにいた男の子が、
「ブレーメン?」と私達に聞いた。
「えっ?」とホームを見たが、駅の名が見えない。
私達も少々慌てたが、
この電車はブレーメン止まりだと知っていたので、
すぐに冷静にそのことを告げた。

 その男の子は、安心したように、
私達の隣の席に座って、挨拶を交わした。
アルゼンチンから1年間ドイツに勉強に来ている17歳の高校生で、
彼もハーメルンに行くとのこと。

そして、駅で別れた。

ハーメルンの駅は近代的な建物だった。
駅から歩いて旧市街地まで約15分、案内所兼土産物店に入って行くと、
笛吹き男の扮装をした人が、笛を吹きながら入って来た。

昔、グリム兄弟によって、13世紀のハーメルンで起きた
実話を基に書かれた童話「ハーメルンの笛吹き男」、
大発生したネズミを、笛の音でおびき出し退治した男に、
町の人がその報酬を支払わなかった為に、
怒った男が子供達を(130人?)連れ去ったという話で、
街のあちこちに、この話に因んだ場所があった。

この看板が目印のレストラン「ネズミ捕り男の家」。
ここでは「ネズミのしっぽ料理」と称する豚肉の炒め物が名物だとか。

笛吹き男の像

ここは「舞踏禁制通り」と名付けられ、
笛を吹きながら子供達を連れ去った男のせいで、
今でもここで音楽や踊りは禁止されているそうだ。

道路の敷石の所々にこんなネズミの銅板が・・・・

あちこちに「ウトルフト」と呼ばれる「張り出し窓」のある
美しい建物があった。
これは昔、スイスのザンクトガレンで見た物と同じではないだろうか。
日本で言う「ウダツが揚がる」と同じように、
出世した、成功をした人の証明ではないだろうかと思った。

 

旧市街地を歩いている内に、小さな町なので、
当たり前と言えば当たり前の話だが、
又、偶然に電車で会った高校生と再会した。

一緒に昼食を誘い、食事をする内、
現在、ドイツに住むおばさんの家にお世話になっていること、
アルゼンチンでは小学校から英語教育を受けているが、
話せる人は少なく、話せるようになるには
英語の専門学校に行かなければならない。

自分は7年間その学校で英語を学び、
今はドイツ語を勉強しているが、
ドイツ語は文法がすごく難しいのと、
英語と混乱してしまうので、道を歩いている時も、
看板や標識を見ながら覚えている、と言っていた。
 

17歳とは思えないほどしっかりしていて、とても好もしかった。
「私達が元気で動ける内に 、日本にもいらっしゃい。」
と夫が言うと「是非行きたい。」と目を輝かせていた。

食後、彼の申し出で、5時に駅で待ち合わせ、
一緒にハノーヴァーまで帰る約束をし、別れた。

アム・マルクト広場に行くと、教会と「結婚式の家」があり、

「結婚式の家」の壁には大きな鐘がたくさんぶら下がっていた。
式のある時には、この鐘が鳴り響くのだろうか・・・・聴いてみたい・・・

 

大聖堂の中のステンドグラスもこの町独特の絵柄・・・ 

 

ここでも、コーラス隊の人達の練習風景を見ることが出来た。

ふと目を移すと、先程の彼が入ってきて、
胸で十字を切っているのが見えた。
また・・・・日本語なら「あら、御縁がありますね。」というところだ。

三人でいる所に 一人の男性が来て、
「この塔の一番上から見る景色はすばらしいよ。
荷物を預かってあげるから、是非登ってみるといい。」と
声を掛けてくれた。 

この教会の係の人らしい。
1ユーロの寄付をして、荷物を階段下の部屋に預け、
登り始めると、どんどん上に行くにしたがって階段の幅が細くなり、
途中からめまいで動けなくなってきた。

二人は先へ先へと行ってしまい、こわごわ薄暗い中を
小さな灯りだけを頼りに、ようやく尖塔近くに着くと、
ここだけはガラス窓があり、大きな鐘が下がっていた。
(教会の写真をよく見ると、中ほどにあるらしい。)

 そして、ヨロヨロしながら下の景色の写真を撮っていたら、

彼が張り紙を見ながら、
「ここに4時までと書いてある。すぐに降りなければ・・・」と言うので、
あわてて降り始めた途端、パッと全ての明かりが消え、
真っ暗やみの中、手すりにしがみ付きながら、後向きに一歩一歩降りた。

「あのおじさんは私達のことを忘れてしまったのかしら。」
大きな声で呼んだが、聞こえないらしく、返事はなかった。
高所恐怖症に加え、閉所恐怖症も加わって、
気持ちがド~~ンと重くなった。

彼が「あっ、ちょっと待って。」と言いながら
スマートホーンで私の足元を照らしてくれて、少し心が落ち着き、
かなり下まで降りて来た所で、パッと照明がついた。
 夫が「おじさんが思い出したんだね。」と笑った。

その係員のおじさんはとっても良い方で、この教会の英文の説明書
5×6cmの小さな冊子や、ステキな花の写真を下さり、
「遠い所から来てくれてありがとう。」と言いながら、
しっかり握手をしてくれて、お別れした。

もう見るべき物もなく、時間は早かったが、三人で駅に戻り、
4時半位の電車でハノーヴァーまで戻った。
彼はここから地下鉄で一つ目のおばさんの家に戻ると言っていたが、
別れがたそうに、一緒に駅の外までついて来て、しばらく立ち話をした。

実は、私は今朝、駅のホームで、アルゼンチンサッカーチームの
ユニホームを着た彼を見かけていた。
そのことを言うと、とてもうれしそうに、
ステキな笑顔で「そうだったの・・・」と言った。 
もちろん、大のファンだそうだ。

今日もすばらしい出会いがあり、とても楽しい一日だった。

追記 (1月25日)

長文になってしまったので、割愛をしようと思っていたが、
10年後の自分の為に、やはり、ここに入れることを決心・・・・
この夜の食事について述べようと思う。

今夜はホテルの隣の小さなタイ料理のレストランに決定。
私はタイ料理をほとんど食べたことがないが、
通りがかりに覗くと、いつも満席なので、きっとおいしいに違いない。

このレストランにも「張り出し窓」が・・・・。

なるべく辛くない物を、と頼んだが、とても辛く、
夫は唐辛子その物を食べてしまい、目をむき出して

胸を叩きながら白ワインと水をガブガブ飲んでいた。

しばらくして、すごい汗をかきながら「おお、死ぬかと思った、
赤いパプリカかと思ったら・・・。」と言い、係の女性に言うと、
かわいい顔で「唐辛子は1本だけですよ。」と言って笑った。

メニューには2本の唐辛子の絵があったが、控えてくれたそうだ。

不思議なことに、サラダを頼んだのに、これもホットプレートに
並べて置かれ、これもすごく辛かった。

それに、初めに香草は苦手と言っておいたので、
ほんの少しだけのつもりだったのだろうが、
小さく刻んだコリアンダーをつまみ出すのに手間取り、悲しかった。

店の人達は優しく、笑顔がかわいらしくて満点だったが、
私はココナツミルクの入った最初のスープだけで満杯。
辛い物の好きな夫も、結局、最後までがんばることは出来ず、
かなり残してしまった。

この日も、現地の人達は大勢でタイ料理を楽しんでいたから、
好きな人が多いのだろう。

デザートの可愛いカフェ・オーレが救いだった。

 

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2015 年 ヨーロッパへの旅 37 ハンブルグ→ハノーヴァー

2016-01-13 16:50:19 | 2015年 ヨーロッパへの旅

9月25日(金)

ハンブルグ→ハノーヴァー
Hamburg→Hannover

朝の目覚めは久しぶりにすっきりした気分だった。
ここ数日、油っぽい食事の取り過ぎで、
胃に負担をかけ過ぎていたのだろう。

昨夜、サッカーのブンデスリーガのテレビ中継を楽しみにしていた夫は、
余程疲れたのか、あるいは、ハーフボトルのワインに酔っぱらったのか、
サッカ-が始まった途端にウトウト寝始めた。

「おもしろいわよ。」といくら言っても起きない。

「ねぇ、昨日はどこへ行ったんだったかしら。」
「ねぇ、今日はどこへ行くの。」
毎日のように聞く私に、「え~~~っ、一体・・・お前さんの脳みそは
腐ってるんじゃないの、しっかりしてくれよ。」と言う夫。 

何から何まで、計画から毎日の道案内、夕食のことまで、全て夫任せ。
私はただ付いて行くだけの人なので、我が家のセバスチャンは、
老骨に鞭を打ち、ヘトヘトになっているのかもしれない。

(セバスチャンとは、昔見たアニメの「アルプスの少女」の
登場人物の一人で、クララの家の使用人のこと。) 

結局、サッカーが終わって、私が寝支度を始めた頃、
夫は目覚め、明日の支度をし、10:45に就寝。

 

さて、10:20、いよいよ最後の行程、
ハノーヴァーに向かうIC電車に乗る為にホームへ降りた。

予約番号の列車はどの辺りに着くのか探したが、表示がない。
ホームにいる人に聞いても誰も分からない。
電車が入って来たら、窓を見ながら走り、
とりあえず乗ってから探すのだという。

駅員らしい人がいたので尋ねたら、
「もう電車が来たから、すぐに乗ってから探しなさい。」と言われ、
あわてて乗ると、狭い通路の上でたくさんの旅行者が
大きな荷物をぶつけながら、前車両に行きたい人、後車両へ行きたい人、
ギュウギュウと「押しくらまんじゅう」状態。

 駅に着いてから、よくよく電車を見て分かった。

 

大きな車体にたった10cmの表示、
しかも、ホームには何の案内もない。
日本の親切な案内表示をドイツ人が視察に来たら、
少しは変わるかもしれない。 

ハノーヴァーに着くと、今夜の宿、グランドパラスホテルは
駅から7~8分の4つ星のホテルだった。

えっ、こんなステキなホテル、久しぶり!
昨日のホテルの3倍位の大きな部屋、
バスタブ付きのこれも3,5倍位のバスルーム。

夫が「人生最後のヨーロッパだから、
ここだけはちょっと贅沢に・・・」と言った。

チェックイン後、早速、旧市街地の散策に出かけたが、
案内所でもらった地図がかなりいい加減なイラストだったせいで、
絵の通りに歩いていたら、どんどん遠回りする羽目になり、
なかなか目的地にたどり着けなかった。

途中、通りがかりの人に道を確かめながら、ようやく新庁舎に着いたが、
(新)とは言ってもかなり古そうに見えた。
やはり調べてみたら、1913年6月20日に開庁、
もう100年以上前のことだった。

新庁舎の中では学生達が何かの催しをしているようで、
大勢で、賑やかな様子だった。

裏庭に回ると、湖に面しているのか、市民の憩いの場になっており、
先生と、幼稚園児や小学生達もたくさん遊んでいた。

そこからしばらく歩くと14世紀に建てられたマルクト教会があり、
この美しい教会の中に入って行くと、美しい女性の讃美歌が聞こえて来た。

本番に備えて練習をしているのか、
誰かに注意を受けながら 何度か繰り返し歌っていた。
建物の音響効果もあるのか、澄み切ったソプラノの歌声は
天使のようで、我々はしばらくそこから動けなかったが、残念ながら、
譜面に隠れたお顔は最後まで見ることは出来なかった。

しばらくして、ようやく駅前まで戻り、今夜の食事処を探したが、
駅の中や近くにはなかなか思うようなレストランがなく、
私はとても疲れていたので、サンドウィッチでも買って、
とにかくホテルに早く戻りたいと訴えた。

しかし、夫はどうしてもおいしいビールと、
ドイツ料理を食べたいと言い、さらに歩き回った。

途中、疲れた私に紳士?が声をかけてくれたので、
お隣に座らせてもらったが、
お店のことは何も知らないらしく、黙ったままだった。

結局、あきらめて、ホテルの近くまで戻って来たら、
おやっ、と目を引くレストランがあり、16△△?年から
と書いてあったので、300年も続いているならと、この店に入ることにした。

大正解!
何もかも、夫の抱いていたイメージ通りだったようだ。
スープ、サラダ、メインディッシュ、全て二人で半分ずつ。
味は少し塩辛めだったが、とてもおいしかった。





馴染み客が多いらしく、観光客はほとんどいなかった。
 私達が食事を終りかけた頃、三人の日本人らしい男性が入って来た。

特に話をしなくても、身なりや仕草でどこかの会社の駐在員と
出張社員かな、と推測した。

席を立つ時「こんばんは。」と挨拶すると、驚いた様子だったが、
バッチリ夫の推理は当たっていた。

自動車関連の方達だったが、私達の聞いた日本車や、
日本製品の評判を話すと、
「我々もその中に入っていると良いんですが・・・・。」と言われた。

静かに、ゆったりと落ち着いて話している彼等を見て、
夫が「やっぱり日本人はいいね。」と言った。


今日はすごく疲れた。
万歩計を見ると16,848歩。

私はセバスチャンに言った。
「明日から、地図は見るだけにして、目的地は現地の人に聞こうね。」 

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2015 年 ヨーロッパへの旅 36 ハンブルグ⇔ブレーメン

2016-01-11 17:16:51 | 2015年 ヨーロッパへの旅

9月24日(木)

ハンブルグ⇔ブレーメン
Hamburg⇔Bremen

10:46 IC電車でハンブルグからブレーメンまで約1時間。
「ブレーメンの音楽隊」は誰でも知っているグリム童話の一つ。

ブレーメンと聞くだけで何となくワクワクしてしまう。

細かい所は忘れてしまったが、ブレーメンを目指し
旅を始めたロバ、犬、猫、鶏が、途中で泥棒を捕まえた話だが、
ブレーメンに着いたかどうかは書かれていないらしい。

ブレーメンはドイツ国内では10番目に大きな都市で、
人口55万人、第二次世界大戦で大きな被害を受けたが、
今は見事に街並みが復元され、ドイツ観光街道の一つの
メルヘン街道の終着点になっているとのこと。

ブレーメンの駅も赤レンガ造りでなかなか趣のある駅だった。

マルクト広場までの道にはかわいいオブジェが置かれ、
ワクワク感はさらに高まる。


旧市街の中心にある市庁舎は
1405年から1409年にかけて建てられた。
その後、何度かの手直しの後、
一番新しい改修は2003年だったとのこと。

第二次世界大戦の爆撃で市の60%が灰と化した時、
市民達が市庁舎の外壁を囲いによって覆い、
戦火から守り抜いたというが、どのような囲いだったのだろう。


そして、その市庁舎の前に立っている「ローラント像」は中世叙事詩に
登場する伝説の騎士で、都市の自立・独立の象徴とされているが、
1366年に商業によって力を付けた商人らと対立した大司教が
その頃まだ木造だったローラント像を焼き払った。



                        (聖ペトリ大聖堂)

二度と焼かれないように、1404年に現在の石の像に再建されたが、
このローラント像が聖ペトリ大聖堂の方角をまっすぐ見据えているのは、
大司教の権力に対抗する都市の権利を表現するためで、
ローラント像が持っている盾には
「我、民に示したるは自由なり」と書かれているそうだ。

なるほど、この市庁舎とローラント像が世界遺産に登録されているのは
そのような意味があるのかと、ローラント像の前で写真を撮っていたら、
御夫婦らしい人から声を掛けられた。

ドイツ語なので、初めは分からなかったが、身振り手振りで
「写真を撮ってあげよう。」と言われているようだったので、
喜んでお願いをし、私達もお互いに撮り合った。

 奥様が「英語は昔学校で習ったスクールイングリッシュで、
何も話せない。」と言われ、御主人は英語を思い出すように考えながら、
片言で、「自分達はドルトムントから来た。」と言われた。

私は「ああ、ドルトムントのサッカーチームには香川がいる。」と言うと、
うれしそうに「そうだ!シンジ、カガ~ワ」と答えた。

夫も入ってしばらく話していたが「是非、ドイツ語の勉強をしなさい。
でもドイツ語は難しいから、英語の方がよりやさしい。」とおっしゃった。
旅先でのちょっとした人の触れ合いがとってもうれしい。

次に、人だかりのしている方に歩いて行くと、
何人かの人達が集まってロバの足を代わる代わる触りながら、
写真を撮ってもらっていた。

あっこれだ!お馴染みの音楽隊の像だ。
私もロバの足に触ってポーズを取ると、
一人の女性が大きな声で、両手を前に突き出し、
私に何か言っている。
私が首を傾げると、両手でロバの両足を握れ、
と言っているようなので、そのようにすると、「OK!」と叫んだ。

周りにいた人達が皆笑っていた。

一体、誰が始めたのだろう、
このロバの足を触れば願い事が叶う などということを。
お陰で、このロバの足はピカピカに光っていた。

そして、すぐ近くのマンホールの傍にもガイドさんらしい人と、
数人のドイツ人が立って下を覗いていた。

これも名所の一つで、
マンホールの真ん中付近に細長い口が開いており、
この中にお金を入れると動物達の鳴き声が聞こえる。

これは直径50cm、深さ90cmの地下埋め込み式の募金箱で、
光電管が作用して、4回続ければロバ、犬、猫、鶏の
全ての鳴き声が聞こえるようになっているので、
それを聞きたさに何度か入れる人もいるのだろう、
毎年、15,000ユーロ(およそ日本円で152~3万)を超す
金額が集まり、地元の慈善団体に渡されているそうだ。

もちろん、私達も確かめる為に少しだけ募金した。


ここから数分、市庁舎の南西に100mほどの中世を再現した通りがある。
1930年代にコーヒー王ゼリウスが町興しの為
御自分の全財産をつぎ込んで建設した
中世風の建物が並ぶベトヒャー通りである。

 

この小さな通りの中に美術館やガラス細工の工房、レストラン、カフェ、
なかなか面白い店が並んでいたが、その中でもひときわ目を引くのは、
屋根と屋根の間に架かる30個のマイセン磁器の仕掛け時計で、
12時から6時まで、1時間ごとに時計横の壁が動きだし、
大航海時代をテーマにした板絵がクルクルと現れるということだが、
残念ながら仕掛けも音も聞くことは出来なかった。


 

 次に・・・・ドイツはいろいろな都市にラーツケラーと呼ばれる
市庁舎の地下レストランがあるが、ここブレーメンのラーツケラーは
1405年創業という歴史と、膨大なワインの保有数で有名らしい。

夕食の時間にはまだ早いが、ちょっと一休み。
薄暗い中に入って行くと、かなり中は広く、個室もあり、
個室の開いたドアーから見える金髪女性の横顔はとても美しかった。

私達はドイツ風のスープと夫はワイン、私はカプチーノ、これだけで満腹。
お味は・・・・まぁまぁ。
日本人の舌とは少し違うかもしれない。

まだまだ書きたいことはたくさんあるが、割愛。
暗くならない内にハンブルグへ戻り着いた。

夕飯、イタリアンも中華も飽きた。
駅のフードコーナーに、経営者がどこの国の人か分からないが 、
寿司コーナーがあり、スタンドで食べている人がいつも数人いる。
「今日は脂っこいのはもういやだから、
お寿司にしようか。」と夫が言った。

ショーケースを覗くと、驚くほど高い。
まあまあの物を選ぶと2,400円位。
二箱はとても買えない。
もしまずかったら、悔しい。

一箱頼むと、みそ汁もカップに入れてくれた。
そして、お寿司の箱の上にその熱いみそ汁を載せて、
紙袋に入れてくれた。

あわてて出して、みそ汁だけ手に持った。
店員に教えてあげようとしたら、夫に止められた。
「余計なことを言う必要はない。」と。

ありがとうもなく、とても失礼な感じで渡されたから・・・。
日本人が買うのは、ちょっと嫌だったのかしら。

さて、今夜の食事はホテルの部屋で。
お寿司は決してまずくなかった。
しかし、2,400円も出せば、かなりおいしいお寿司が食べられる。
日本人で良かった!

ニ種のサンドウィッチはとてもおいしく、グッドチョイス!

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2015 年 ヨーロッパへの旅 35 ハンブルグ⇔リューベック

2016-01-08 00:42:34 | 2015年 ヨーロッパへの旅

9月23日(水)

ハンブルグ⇔リューベック
Hambrug⇔Lubeck

昨夕は駅の近くの中華店に入ったが、
日本の1,5倍ほどの量があることを知らず頼んだ為に、
残さず食べなければと頑張った結果、
寝苦しくて、眠りが浅く、何度も目覚めて後悔した。

ちょっと頭が重かったが、それでも朝食を取らなくては・・・
9時半過ぎにレストランに行ったら、もう誰もいなかった。

11:08 ハンブルグからリューベックに向けて電車に乗り、約45分。
リューベックの中央駅はすばらしい外観だった。

そして、構内には八百屋さんも?

リューベックはハンザ同盟の中心都市で、人口20万人ほど。
昨日行ったリューネブルグは7万人なので、約3倍の人口だ。

1143年に建設された古都で、中世の建物が残る旧市街地全体が
世界遺産に登録されており、観光客の数も昨日よりずっと多く感じた。

駅から歩いて7~8分、
二つのとんがり屋根の「ホルステン門」が見えて来た。
旧市街地の西の入口で、
50マルク紙幣のデザインにも使われていたので、
ドイツで一番有名な門だとか。

15世紀後半に町の防衛の為に建てられたこの門は、
あまりに頑丈過ぎて、壁の厚さだけで3,5mもあるそうで、
その重さの為に、一部が地面に埋まり、
よく見ると少し傾いていた。

日本なら、地震が怖いのだが・・・

門の上に、ラテン語で「内に結束を 外に平和を」と書かれているそうだ。

次に市街地の中心にある市庁舎へ。

1159年に建てられたのが最初で、14世紀にかけて増築され、
リューベック特有の黒レンガ造りで、左側の白いルネッサンス様式の
アーケード部分は16世紀にさらに増築された物とか。
各時代の様々な建築様式が混ざり合い、ユニークな形をしている。

白い建物の上にある緑色の尖塔、その下の壁には風を通すための
二つの大きな穴が開けてあり、
本当に見応えのある立派な建物だったが、
残念ながら、工事中の為、その穴は写真ではよく見えない。


次にマリエン教会に立ち寄った。



1250年から100年もかけて建てられた教会で、
ドイツで三番目に大きく、レンガゴシック様式の教会としては
世界最大の高さがあり、
パイプオルガンも機械仕掛けとしては世界最大。
かつてこの教会のオルガ二ストだったブクスフーデという人の
レッスンを受ける為に、あの偉大な作曲家のバッハが
通い詰めたという話もあるそうだ。

残念ながら、音は聴けなかったが、
世界最大のパイプオルガンに会えてラッキーだった。


 
賑やかな目抜き通りに戻り、リューベックが生んだ三人の
ノーベル賞受賞者の博物館に寄ったが、
ドイツ語と英語ばかりでほとんど分からず、さっと素通り。

ただ、偉大な政治家ヴィリー・ブラントの博物館では
ワイマール共和国からドイツ再統一に至るまでの活躍と、
ノーベル平和賞受賞者としての彼に敬意を表して覗いてきた。

       
でも、結局あまりよく分からず、博物館の中庭や近くの花屋、
そして、近くを流れる水路の美しさの方が記憶に残った。
・・・花というより、御婦人の半袖姿に目が釘付け・・・

毎日8,000~10,000歩、我々夫婦はよく歩いている。
日本ではテニスに出かけない限り、なかなか歩かないが、
ここでは とにかく歩かなければ目的地に行けない。 

これだけ歩いていてもなかなか痩せないのは、食べているせいか・・・
昼は市庁舎の前にあるカフェでケーキ1個とカプチーノ、
夜は又、昨日の中華店に行った。

昨夜の経験から、今夜はワンタンスープ、
空芯采の炒め物、焼きそば、各1皿ずつを二人で分けた。

  

これでも少し多過ぎるが、
サイズはこれしかなく、さらにご飯が一杯付いてきた。

昨日はお断りしたのだが、おかずが全て塩辛いので、
ご飯と混ぜることで丁度良い味になるということが分かった。
だから、頼まなくても必ずご飯が付いてくるのだ。

眼鏡をかけた、英語の話せる若い従業員の男性が、
昨夜も今日も私達の面倒を見て下さった。
昨夜の様子を見ていたせいか、
今夜はいろいろアドバイスをして下さったが、
彼は香港から来ている中国人で、
日本が大好きで、富士山にも行ったことがあり、
また、行く予定だから、メールアドレスを下さい、と言われた。

ここでも、日本に憧れる若者にお会いしたが、
ひと昔前には全くなかったことで、ここまで日本を高めてくれた
多くの方々に感謝し、また、自分自身も襟を正さなくてはと深く思った。 

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2015 年 ヨーロッパへの旅 34 ハンブルグ⇔リューネブルグへ 

2016-01-04 15:46:02 | 2015年 ヨーロッパへの旅

9月22日(月)

Hamburg⇔Luneburg
ハンブルグ⇔リューネブルグ



ハンブルグのホテルLe Boutique By Centro Comfortに
               (ル ブティック バイ セントロコンフォート) 
スーツケースを預けて、20日はシュヴェリーン、
21日はウィスマールで遊び、
また、ハンブルグに戻ってきて、今日はリューネブルグまで出かける。

朝、のんびり食事をとり、テレビでペテルブルグテニスオープンを見ながら
ゆっくり支度をし、11:30、Sバーンの電車に乗り、
途中、ハーブルグで乗り換え、リューネブルグを目指した。

 さて、リューネブルグの駅から旧市街の入口まで歩いて15分。
道の両側にはたくさんの木々があったが、
特にこの白い実の付いた木に魅かれた。

名前も分からないし、日本でもあまり見かけないような気がする。
どなたか御存知なら教えてほしい。 

(早速、きのぴさんからいただいたコメントを基に調べてみた。)
確信はないが、ナンキンハゼのような気がする。
ブログって、すごい!きのぴさんありがとう。

旧市街に足を踏み入れると、木造の古いクレーンが目に入った。
この一帯はかつて港だった所で、
このクレーンで商品の積み荷や荷上げを行ったという。
現存するこのクレーンは1797年に造られた物で、
最初のクレーンは1382年に造られたとのこと。

このクレーンの対岸にはすばらしい建物が並び、
その美しさは、まるでおとぎの国に来たようだった。
幸運にも戦火を免れた為に旧市街の街並みがよく保存されているからだ。

ここリューネブルグは岩塩の産地で、10世紀頃から掘り出しが始まり、
「白い黄金」として中世のハンザ同盟の富を生み出し、
非常に裕福な街になったそうだ。

しっかりとしたレンガ造りの美しい建物は聖ニコライ教会で、

寄付箱に2ユーロずつ入れて中に進むと、

立派な祭壇や ステンドグラスが見られた。
この教会は15世紀頃に建てられ、船乗りの為の教会だったという。

いつもヨーロッパに行くと街々に教会があり、
私達は必ず入って見る。
もちろん詳しいことは分からないが、
美しいステンドグラスや、祭壇の絵画などは
全く文字が読めなかった当時の人達に、神父や牧師が
「キリストの教え」を読み説き聞かせるための教科書だったのだろう。

教会を出て数分、立派な美しい市庁舎があった。
13世紀から建設が始まり、街の発展と共に増改築が重ねられ、
いろいろな建築様式が混在しているという。

中に、13世紀の薄暗い木造の部屋があるというので、
是非見たかったのだが、「テレビの撮影があるので、
建物に近づかないでほしい。」とガードマン風の人に言われ、
すぐ傍のケーキ屋さんで一休みすることにした。

パン生地に溶かした砂糖をかけたようなこのお菓子は
あまりおいしいとは思わなかったが、

ココナツ生地を固めに焼いたこのお菓子は、アールグレイの
紅茶とよく合って、とってもおいしかった。


さて、ここから「アム・ザンデ広場」を目指した。

ここは幅40m、長さ275mの細長い広場で、
かつてのハンザ商人の館が立ち並び、
いろいろ趣向を凝らした美しい家並みが続いていた。

下の黒レンガ造りの建物は、
昔は、酒場や宿泊所などを兼ねたビールの醸造所で、
現在は商工業局として利用されているとのこと。

ステキな建物をキョロキョロと見回している時、
日本人らしい二人の女性を見かけた。
声を掛けると、八王子の多摩センターと鎌倉にお住まいの方で、
シルバーウィークと有給休暇を使って、
8日間の北ドイツ旅行を楽しまれているとのこと。

うん?シルバーウィークって何?
「春のゴールデンウィークに対して、秋のシルバーウィーク・・・」
初めて聞いた言葉に驚いた。

お二人も、ドイツ語ばかりであちこちトラブル続きの珍道中だ
と笑っておっしゃった。

大勢の観光客はほとんどドイツ人で、数人の韓国人や日本人は
見かけたが、中国人のグループには全く会わなかった。

さて、4人で給水塔に登ることにした。

一人4ユーロと言われて、係員に「シニア券はないか。」と聞くと、
「いいえ、ここに来る人は皆シニアだからね。」と言って笑った。
シュヴェリーンではシニア券があったのに、残念!

給水塔の上から見る街並みは赤い甍(いらか)の波でとても美しかった。

昔、レンガを焼く時にベンガラ
(インドのベンガルで産した所から名づけられた)を入れた。
防食効果があり、成分が酸化鉄なので、
その酸化作用でレンガが赤くなり、それが今も受け継がれているらしい。
現在は、もしかしたら化学的な薬が使われているのかもしれない。

そして、真正面に見える聖ヨハニス教会、塔の高さは106m、
ここでは寄付1ユーロずつ。

中にはすばらしい装飾の数々があり、
中世のキリスト教の絶大な力に、今更ながら驚かされた。

 夕方、5:28にハンブルグ行の電車に乗り、約30分後到着。

駅の近くの中華店で夕飯をいただいた。
(この店には結局翌日も入ることになり、
香港の青年と出会うことになるが、今日は割愛!) 

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2015 年 ヨーロッパへの旅 33 シュヴェリーンからウィスマールへ 

2015-12-27 01:03:43 | 2015年 ヨーロッパへの旅

9月21日(月)

Schwerin→Wismar
シュヴェリーンからウィスマールへ

ホテル・クエレの朝食も、特別豪華ではないが、
野菜も、果物も新鮮でおいしかった。

今日は世界遺産の街、元祖ハンザ都市のウィスマールへ。
シュベリーンからウィスマールまで電車で35分だが、
1時間に1本しかないので、これを逃すと大変。
10:45に間に合うように、早めにチェックアウトした。

ウィスマールはバルト海に面した小さな都市で、
2013年12月現在の人口は4,2万人、
1905年は約2、2万人だったので、100年間で2倍になったとのこと。

日本は一体この100年で何倍になったのだろう・・・

ハンザ同盟とは、通商、公益上の利益保護を
目的として結成された組織で、
王侯貴族の支配を受けない自由都市のネットワークを言い、
13世紀、バルト海の海賊から船と町を守るため、
リューベック、ロストック、ウィスマールの三つの都市が協定を
結んだことが、後のハンザ同盟の礎になったと言われている。


 
ウィスマールまでの車窓風景。

 

ウィスマール駅は驚くほど、小さな小さな駅だった。




駅から町の中心マルクト広場に向かう水路沿いの道、
橋の袂に不思議な像が・・・


 

何か「謂れ」があるのかもしれないが、観光客らしき人達が
必ず、豚のお腹をなでて、写真を撮っていたので、見習った。?


 すぐ傍の古い教会から、パイプオルガンの音が流れて来たので
覗いてみたら、入口に「2ユーロの寄付お願い」と書いてあり、
係りの人が「英語のパンフレットか。」と聞くので、
「ジャパニーズ」と答えると「おぅ、ヤーパン。」と言い、
日本語の説明書が1枚入ったA4判のファイルを見せて下さった。

そのパンフレットには、「1945年4月15日に爆撃を受け
ハンザ同盟の大教会聖マリエン、聖ゲオルゲンと並ぶこの教会は
確かに戦火を免れはしたが、近日中に行われる再修理の為に
かなりの資金を必要としています。」と書かれていた。
(この4ヵ月後、日本の広島、長崎にも原爆が投下されたのだ。)

1403年に建設が始まって以来、塔の沈下現象の為
ドームが崩れ落ちたり、爆薬庫の爆発によって街全体が破壊、
更に1703年のハリケーンによって 、あるいは第二次世界大戦によって、
中世の美しい多くの建物が絶滅、その後、
いろいろな再建が試みられているが、まだまだ道程は遠いという。

教会の前の道路には建物の破片も敷石として使われていた。

ここはドイツで4番目に大きな身廊を持つ教会で、
船乗りや漁師達の信仰を集めていたそうだ。


さて、マルクト広場に着くとそこは100m四方の広さで、
市庁舎や美しいレンガ造りの建物が並び、スウェーデン国旗を揚げた
「アルター・シュヴェーデ」は1380年に建てられたこの地最古の建物で
現在はレストランになっているそうだ。



旧市街はこじんまりとしていて、のんびりと散歩しながら楽しめた。

マルクト広場の右手前に見えるのは 
青銅製の屋根が付いた美しい給水塔で、
かつて、ビール醸造が盛んだったため、大量の水が必要で、
この給水塔や水路が造られたそうだ。

中央後側に見えるのは14世紀に建てられたマリエン教会で、
戦争で破壊され、この塔だけが残されているとのこと。

 美しい後期ゴシック様式の水門や、レンガのゴシック建築物は有名で
2002年に「シュトラールズントとウィスマールの歴史地区」として
世界遺産に登録されたとのこと。
今も、あちこちで家の改修や道路の工事が進んでいた。

(後期ゴシック様式の水門)

あっという間に2時半。
ガイドブックに載っていたお薦め、「魚屋が営むレストラン」に行くと、
たくさんのお客様で、私達は何をどうしたらよいか分からず、
とにかく本に書かれていたエビの燻製、
鮭の燻製、サラダとビールと水を頼んだ。



 

 他のお客様達を見ると、何やらおいしそうな魚のフライや、
マッシュポテト、茹でたジャガイモなどが大きなお皿に盛ってあるのに、
私達は何だかかわいそうだった。

しかも・・・エビの燻製は期待外れ。
「ここに来たら、絶対食べるべき」と言うほどの物でもなかった。

寂しい気持ちで外に出ると、船のレストランが5~6艘、
同じような食べ物を売っており、何人か傍のベンチに
腰かけおいしそうに食べていた。
「ああ、もっとちゃんと見てからにすれば良かった。」とは思ったものの、
「寒い戸外での食事も辛いかもしれない、
暖かくて良かった。」と自分を慰めた。

雨が降り出し、寒くてたまらないので
予定より一台早く電車に乗ろうと急いで駅に戻ったのだが、
尋ねた人が私達の思っていた電車ではない
「コトブス行き」の電車を指差し、
シュヴェリーンで乗り換えればよい、と言うので、
乗り込んで待っていると、出発時間になっても動かず、
「遅延か。」と問うと「いや。」と断定する。

結局、違うホームから電車は出て行き、私達の乗っていた電車は、
その後の電車だったので、途中駅のシュヴェリーンで
一時間も待つはめになった。

ドイツ語の話せない日本人と、英語の話せないドイツ人、
親切心はよく分かったが、残念だった・・・

この辺りは旧東ドイツなので、観光客も少なく、
観光地化していない分、とっても のどかだが、
やはり旧西ドイツ辺りとはかなり違うようだ。

ようやくハンブルグに帰り着き、
夕飯は先日のイタリアンレストランに入った。

野菜スープ、シーフードサラダ、シーフードスパゲッティ、白ワイン、
コーヒー、全部二人で一皿ずつ。
ところが、先日は「やはりイタリアン!」と思ったが、今日のシーフードは
全て塩辛く、とてもまずくて、泣く泣く残してしまった。

さて、いつもより帰りが遅くなった。
今まで昼間の内は気が付かなかったホテルまでの道、
途中にある広場にいかがわしい人達がたくさんたむろしていた。

とても怖い雰囲気の中、何をされる訳でもないのに、
二人で手をつないで、走るように急いだ。
すぐに穏やかな住宅街の中に入り、
そのギャップの大きさに驚いたが、
世界中、大都市には、裏通りに潜む闇があるのかもしれない。

昼間見れば、こんなに穏やかなきれいな公園なのに・・・・ 

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2015 年 ヨーロッパへの旅 32 シュヴェリーン 2 

2015-12-20 13:40:39 | 2015年 ヨーロッパへの旅

9月20日(日(前頁からの続き)

おいしいお菓子をいただき、ちょっと元気が出たところで、
街の中心マルクト広場まで数分歩くと、市庁舎や大聖堂がある。

大聖堂Domは1270年から建て始め、約150年後の1426年に完成。
内部の高さは29mに及び、
現在はプロテスタントのルーテル教会になっているそうだ。

大聖堂入口の左側に細い218段の螺旋階段があり、それを上ると 
塔の上から湖と森に囲まれた町を一望出来るということだったが、
人一人が通れるぐらいの狭さを見ただけで戦闘意欲を失った。

もっとも、もう教会が閉まる時間でもあったので、
上に行きたくても無理だったが、閉まった門の外から、
小さな男の子が私にドイツ語で、自分の髪の毛を触りながら、
傍にいる犬を指差し、何かしきりに言っていた。

西洋人形のようなかわいい坊やの横にいたお父さんが、
「『この犬は僕と同じ髪の色で、○○って言うんだ。』と言っているんです。」
(ドイツ語の名前だったが、犬の名は忘れてしまった。)

この近くの住民で、お散歩に来たらしい。
私が「東京から来た。」と言うと、彼は坊やに「とっても遠くの
大きな町から来たんだよ。」と言い、私が「いつか来てね。」と言うと
坊やは「うん、お父さんと車で行くからね。」と言った。
かわいくて、かわいくて、門扉の格子から手を出してしっかりと握手。

ステキな父子とワンちゃんの写真を撮り忘れて、本当に残念だった。

さて、ここから歩いて更に数分、私達の今夜の宿は
旧市街の中にあり、すぐ傍に16世紀の頃に建てられた家もあった。

先程、荷物を預けたGasthof Zur gutten Quelleも
古い建物だったが、ニ階の私達の部屋は広くて清潔で、
冷蔵庫も付いたステキなホテルだった。

ニ階にたった5つの部屋しかなく、周りも静かで良かったが、
エレベーターを見かけなかったので、
大きなトランクを持ち込むのはちょっと大変かもしれない。

夕食は下のレストランで。
近所の人達なのか、入れ替わり立ち替わり、
空席がないほど賑わっていた。

夫は魚、私は豚、どれも本当に美味しく、特にサラダのドレッシングは
今までにヨーロッパでいただいたどのドレッシングより美味しかった。
(夫と私、二人だけの評価だが・・・。)

それにしても、どのテーブルにも必ずポテトが5つ、籠に入れてあるが、
何だか硬そうで、しかもお腹もいっぱいで、手を付けることはなかった。

夫は「これはお土産で、家に帰ってから茹でて食べなさい、
ということだよ。」と笑いながら言ったが、店の人に確認をすれば、
真相が分かったのに、確かめもせず、残念だった。



そうそう、これは余談だが、
ドイツに来て一番退屈なのはテレビ放送だった。

ユーロ・スポーツは、丁度ラグビーのワールドカップの最中で、
ラグビーファンには申し訳ないが、
ほとんどサッカーやテニスの放映はなく、
言葉が全く通じないので、何を見てもつまらなかった。

イタリアのミラノでは、USオープンでイタリアの女性が
1位、2位を獲得したせいか、テニス番組の放映が多く、
前回のドバイ・カップまで放映していた。
私の大好きなフェデェラーがジョコビッチを下した試合を
見られたし、サッカー番組も多かったので、夜も結構楽しめた。

さて、明日はウィスマールへ移動する・・・・

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2015 年 ヨーロッパへの旅 31 ハンブルグからシュヴェリーン 

2015-12-19 15:40:04 | 2015年 ヨーロッパへの旅

9月20日(日)

Hamburg →Schwerin
ハンブルグ→シュヴェリーン

今日はこのままハンブルグのホテルに荷物を預かってもらい、
ハンブルグセンター駅から電車でシュヴェリーンまで出かける。

電車は日曜日のせいか、かなり混雑していた。
一等車に乗っていたアラブ系のイタリア人に
車掌が何度も二等車に移るように言うが、
5~6人連れの家族らしい人達は、どうしても動かず、
他の車両は混んでいて座れない、と言い張り、
とうとう、一等料金を払えと言われて、仕方なく移動して行った。
見ていたら、全員座れたようで私は何となく安心した。

ハンブルグから1時間20分後、シュヴェリーン駅に着いたが、
小さな駅の案内所の女性は多分50代だろうか、
全く英語が分からず????だった。

地図を頼りに、迷いながら
今夜の宿Gasthof Zur guten Quell
(ガストホフ ツア グーテン クエレ)を見つけたが、
小さなレストランのドアしかなく、恐る恐る、客で混んでいる中に
入って行くと「特にレセプションはないが、ここだ。」と言われ、
とりあえず、荷物を預けて、シュヴェリーン城を目指した。

ほとんど観光客しか歩いておらず、
のどかでロマンティックな雰囲気が漂っていた。
お城が近付くにつれ、その美しさに「わぁ、ステキ!
すご~~~~い、美しい~~~。」としか言葉が出てこなかった。

赤信号で止まっていたら、後から来た自転車が私の横に止まり、
突然「あなたの洋服ステキね。」と声を掛けられた。

私は寒くて仕方がなかったので、薄いダウンジャケットの上に
七分袖のコートを着ていたから、とっても変だったはず。

この御夫妻はドイツのコプレンツから来たと言われた。
ライン下りの終点になっているので、
私達も過去に二度行ったことがあり、
ライン下りと、そして数年後にはライン昇りもした、
ということなど、しばらく立ち話をした。

夫のお陰でいろいろな町に連れて行ってもらい、
ほんの一瞬の出会いにも、大きな幸せを感じる。
本当にありがたいことだ。

この辺りは幾つもの湖や池が連なった特殊な土地で、
二つの湖の間にまたがるように聳えているこの城は、
16~17世紀にネオ・ルネッサンス様式を基調に建てられ、
その後、19世紀に改築され、今日の姿になったそうだが、
今もあちこち工事中だった。

入場料、大人6ユーロ、シニア4ユーロ、
一階のマイセン陶器のコレクションを一回りして、
次に豪華な調度品で飾られた「王の謁見の間」に。

壁の隅々まですばらしい彫刻が施され、
ヴェルサイユ宮殿にも劣らぬ美しさだった。

残念ながら、撮影禁止だったので、絵ハガキで御想像を・・・・。

  

時々城の中から見える湖の美しさも格別で、
城内の見学が終わって庭園に出ると、
あまりの美しさに、言葉にならないため息ばかり・・・・ 

しばらく歩くと、湖畔にとても大きな額縁が建っており、
その額の後側に家族、グループ、
恋人?達が立って、写真を撮っていた。

私も4組ぐらいの人達を写してあげたが、
皆、湖の景色に負けない位美しい笑顔だった。

次に、大聖堂に行く前にCafe・Pragで一休み。
シュヴェリーン最古のカフェレストランで、
1755年にクレフト家がケーキ屋付きカフェを開店し、
木組み建築の当時の建物は、1908年に焼失したらしいが、
その後、再建されたこの店もいつも賑わっているらしい。

私達が入った時も、日曜日のせいかもしれないが、
席を探すのに手間取った。 

名前は分からないが、とってもおいしいケーキだった。
カプチーノ二杯と、ケーキ1個で 7,1ユーロ。
夫はずいぶん安いね、と言っていた。

隣の大きなテーブルには3世代の御家族が
小さなお孫さんを中心に集まっていらっしゃった。

土地の年輩の人達はほとんど英語を話さないが、
笑顔を向けると、ステキな笑顔を返してくれる。
何となく、いい気持ちだった。

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