日々発見

日々新しい事に挑戦して・・・

2012年 ヨーロッパへの旅 21 ミュンヘン からパリへ

2012-11-30 18:44:02 | 2012年 ヨーロッパへの旅

9月12日 (水)

楽しかったミュンヘンを後に、10:35発のエアー・フランス航空でパリに。
12:15シャルル・ドゴール空港着。
タクシーでさらに40分、サン・ラザール駅の前、グランドホテルに到着。

3つ星と書かれたこのホテルは、かなり古いらしく、
部屋も小さかったが、アメリカや日本の人達が多く投宿していた。





洋介さんはルフトハンザ航空で夕方パリに向かい、
日本から来る光さん、諒さんと落ち合い、
7時ごろホテルへ到着予定。

彼等が来るまでに、
明後日からロアール地方のドライブ旅行に出かけるため、
パリ・モンパルナスの駅まで
TGV(日本で言う新幹線)チケットを買いに出かけた。



駅を出て真前のモンパルナスタワーを見て驚いた。
パリには高い建物がなく、日本やニュウヨークなどと違って、
非常に穏やかな景観になっているが、このビルは高さ210m、
59階建てで主な用途はオフィスだという。

竣工時にはヨーロッパ一高いビルで、
現在でもフランスで一番高いビルとなっているが、
激しい景観論争を巻き起こし、
以後パリ市内にこれを超える高層建築は建てられていないらしい。



1972年の竣工から2年後には
パリ都心部での超高層ビル建設は禁止された。

冗談半分で、
「トゥール・モンパルナス最上階からの眺めはパリで一番美しい。
なぜなら、
パリで唯一トゥール・モンパルナスが見えない場所だからだ。」
とも言われているそうだが、交通の便がいいので、
このオフィスで働いている人達は
禁止になる前に入れて幸せかもしれない。


それから、もう1つ驚いたことがあった。
駅前には銃を持った軍人や、警察官がたくさんおり、
今までのフランスとは違う、厳しい状況が推察された。




あちこち歩き回って、ようやく、5人分のチケットを手に入れたが、
これもいろいろ調べてもらって、やはり半額近い値段だった。

観光客が多いせいか、
週末にはいろいろな安いプランがあるらしい。

夫は大役を果たし、ホテルの傍のスーパーマーケットで
今夜の食糧を買い込んだが、
7時を過ぎても学生達から連絡が入らず、
何度も何度もメールを出したが無しの礫(つぶて)。

結局、三人が現れたのは8時過ぎだった。
再会を祝して乾杯!

聞けば、携帯電話を海外で使うとすごい料金になるらしい。
昨年、洋介さんは7万円掛かったとの事。
だから、三人とも日本に置いてきたのだそうだ。
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2012年 ヨーロッパへの旅 20 ミュンヘン (その2)

2012-11-29 15:18:19 | 2012年 ヨーロッパへの旅

9月11日 続き

あっという間にカラクリ時計は終わりを告げ、人々が散った。

昔、夫が仕事で出張した時に行ったという王様のビール工場に、
一度連れて行ってもらったことがある。

全くお酒の飲めない私だが、
卒業旅行に来ていた金沢大学の三人の女性や
早稲田大学の事務局の若い男性が合流してきて、
楽しくて楽しくて、5時間ほどここに居続けた。



あの時のあの店にもう一度行きたい、
と思っていた「ホーフブロイハウス」を探した。

カラクリ時計から5~6分歩いて・・・あった、あった・・・
周りはラーメン屋などが出来、
かなり変化していたが、中に入るとあの時のままだった。

1589年に バイエルン公・ヴィルヘルム5世の命により
ブルワリーとして開設され、
当初は茶色のエールビールだけが醸造されていたという。


何かの本で読んだような気がする・・・、
ここは王立のビール工場だったが、
一般民衆から王様だけがおいしいビールを飲むのはけしからん、
という暴動が起きて、
150年ほど前に民衆も入れる居酒屋になった・・・


第二次世界大戦中、連合国軍による空襲の被害を受け、
建物は破壊されたが、
地下室にあった数百のビールジョッキは無事だったとか。
今、私達がビールを楽しんでいるのは、
1958年に再建されたホールとのこと。










長いテーブルに何人かが相席するが、家族連れが私達の奥に座った。
ニュールンベルグから2日間の旅行でミュンヘンを訪れたという。
御両親は全く英語が分らないようだったが、
11歳と13歳の二人のお嬢さんの通訳で楽しく話すことだ出来た。

私のつたない英語でも十分通じるので驚いたが、
彼女達は毎日英語の授業があるそうだ。



日本でも小さい時から毎日英語の授業があれば、
きっと皆話せるようになるだろう。


2時間ほどでその家族が去って行った後に、
横に座ったのはブラジルからバイクで来て、
一週間の休暇を楽しんでいるという二人連れだった。



200人の正社員と300人のパートタイマーを抱える会社の社長で、
自分の親はドイツ人、もう一人は社員、
二人ともエンジニアだと言っていた。

車の組み立ての仕事をしていると言っていたが、
私にはほとんど話が通じなかった。
私は日本語でも車の部品の話は理解出来ない。

車の大好きな洋介さんは、うれしそうにあれこれ話していた。




レストラン全てが一体になり、バンドに合わせて皆で大合唱、、
ステージの回りでは年配の人達が楽しそうにダンスをしていた。
そのうれしそうな顔、顔、顔。

ああ、また行きたい!
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2012年 ヨーロッパへの旅 19 ローテンブルグからミュンヘンへ

2012-11-26 15:14:56 | 2012年 ヨーロッパへの旅

9月11日 (火)



今日はローテンブルグ→シュタインナッハ(普通電車で14分)
→トゥロイヒトリンゲン(普通電車で1時間6分)
→ミュンヘン(普通電車で2時間)

トゥロイヒトリンゲンまでの電車の中で、
私は我々の目の前に座った夫人に目を奪われた。

頭のてっぺんから爪先まで一目でそれと分るほど
ゴージャスで高級な装い、
身につけた品々の品の良さ・・・

今までに見たことのないその姿に、失礼とは思いつつも、
「失礼ですが・・・お写真を撮らせていただいても
よろしいですか。」と問うと、
即座に「いいえ。今はプライベートですから。」と断られた。

うっ、プライベート?
どのような身分の人かは分らないが、
このページに是非是非載せたかったのに・・・。


私のがっかりした顔を見たのか、
その後ろ側の席にいたテキサスから来た
と言う御夫妻が話しかけて下さり、
近くにいた日本人の学生二人も一緒に加わって、
楽しい時間を過ごすことが出来たが、
未だにあの貴婦人が何者か気になっている。

そして、乗り換えの時、あの貴婦人はとてもにこやかに
「良い旅を!」と声を掛けてくれ、
テキサスの御夫妻は
「家には馬がいるのよ、是非乗りにいらっしゃい。」と
声を掛けて下さった。







ミュンヘンには10年以上前になるが、一度来たことがある。
そして、また是非行きたいと思っていた所だった。



ミュンヘンの中央駅に着き、歩いて5分。

今夜の泊まりは「Best Western Atrium HTL」





ごくごく普通のシティホテル。

荷物を置いて、急いでマリエンプラッツに向かった。

1639年にスウェーデン軍の占領から解放されたことを記念して
聖母マリア像の柱が建立され、その後、この広場が
マリエン広場と呼ばれるようになったとのこと。

ヨーロッパを歩くと、地続きのせいか、
いつも「どこか」に占領されていたという歴史にぶつかる。
もちろん、今もあちこちで戦争があり、
毎日のようにテレビニュースで取り上げられているが・・・

少なくとも、私達が観光で出かける所は、本当に平和そのもので、
記念館を覗いたりパンフレットを読んだりして、
初めて過去の悲惨さを知るのだが、
今の幸せが決して偶然や成り行きの物ではなく、
過去の人達の想像も付かないほどの苦しみや流血の結果であると、
つくづく考えさせられる。


さて、夕方の5時前、マリエンプラッツに着くと、
もう新市庁舎の前にはたくさんの人集りがあった。
1867年から1909年に建てられた新ゴシック様式の建築物で、
等身大の人形が回る塔の仕掛け時計が目的だ。






写真だけではなぜ毎日これだけ多くの人達が、
この広場に集まるのか絶対に分らないが、
私の動画よりもっとすばらしい動画をYOU TUBEで見つけたので、
拝借させていただいた。




広場は10年前と違い、新しい店舗が広場の前に立ち並び、
とても小さくなったように感じた。

「10年一昔」と言うが、どこもかしこも・・・
もちろん私達の住む日本も、本当に変化が激しい。

次の10年後はもちろんのこと、
これからはもうどこにも行けないと思うが、
今まで見てきた全ての物が、
私にとって「宝物」だという思いをさらに強くした。

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2012年 ヨーロッパへの旅 18 ローテンブルグ (その3)

2012-11-22 23:02:39 | 2012年 ヨーロッパへの旅

9月10日 (月)

ゆっくり朝寝坊をして、レストランに行くと、もうほとんど誰もいなかった。



お祭りも終わり、他の観光客は皆朝早く発ったようだった。


城壁内に住む住民は4,000人ほどらしいが、
生活に必要な施設はこの中になく、病院、郵便局、警察、
スーパーマーケットなどは全て城壁外にあるらしい。

そういえば、ホテルの横に近代的なショッピングモールがあり、
その中にスーパーマーケットや洋品店、
郵便局、パン屋、生肉店などがあった。



観光地区と住民の生活の場所を徹底的に分けているというのは、
あまり例がないのではないだろうか。

そこに住む人達にとっては、いろいろな制約があり、
不便なことも多いに違いないが、
毎日平均1,000人ほどの観光客が集まるという理由がよく分る。



今日も城壁内に出かけた。
マルクト広場のこの写真の一番左側の建物の
正面にからくり時計があった。






毎年、聖霊降誕祭や秋祭りなどで、
三十年戦争のローテンブルクを舞台とした芝居
「市参事会酒宴場のマイスタートゥルンク」が上演され、
老市長ヌッシュが3リットルものワインを見事に飲み干し、
町は救われたという、
実際に起こった出来事が、そのまま劇になったもので、
このからくり時計の中の人物はヌッシュと言われている。

昨日、街角で上演されていたのもこのお芝居だったのだ。

出かける前にもっと勉強をしておけば良かったのに、
出かける間際までバタバタと忙しく、何も調べずに過ごしていたので、
帰って来てから、ああ・・・そんなことだったのかと気付かされ、後の祭り!


さて、気を取り直して・・・



市内をぐるりと取り囲む城壁に登ると、屋根がめぐらされており、
回廊は、太った人とすれ違う時、お腹が邪魔に見えるほど細かった。





眼下には屋根、屋根・・・
「甍(いらか)の波と 雲の波♪♪」思わず歌が出る。
驚いたことに、洋介さんは「こいのぼり」の歌を知らなかった。
甍・・は屋根の背、屋根の煉瓦。



この回廊の上の煉瓦の裏側を見ると



日本の煉瓦の重ね方とは、全く造り方が違うのだと思った。


回廊を降りて、変わった門?(名前が分らない)をくぐったり、
遠方の景色を見たり、







教会で厳かなひとときを過ごしたり、



街角でのんびりミルクセーキを飲んだり、
(ほとんど生クリームばかりでがっかり




市庁舎の52メートルの鐘楼の最高部まで登りたい
と言う二人に付いて行けず、



下で待つ間、アメリカのフィラデルフィアから来たと言う老夫妻と
身振り手振りで話したり、
祭りの後の静けさを堪能した一日だった。

付録

上まで登った夫から見せてもらったすばらしい写真を追加。



こんなに細い急な階段を登ると、鐘があり、



眼下にはすばらしい景色、美しい屋根の波が・・・・



やっぱり、一緒に登ればよかった!

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2012年 ヨーロッパへの旅 17 ローテンブルグ (その2)

2012-11-20 22:51:32 | 2012年 ヨーロッパへの旅

9月9日 続き

何も知らずにこの地に来たが、丁度お祭りの日、しかも雲一つない快晴、
本当に宝くじに当たったような幸運だった。

雲は一つもないのだが、この雲、フランクフルトからずっと続く飛行機雲。



ドイツの上空は非常にたくさんの飛行機が飛んでいるのだろう。
今までにこのような飛行機雲の多さを見たことはなかった。



そして、ホテルと駅の間から空を見ると・・・・
やはり飛行機雲は続いていた。


さて、ここは一般的に「ローテンブルグ」と呼ばれているが、
正式には"Rothenburg ob der Tauber"
タウパー川の上方にあるローテンブルグという地名で、
ドイツには他にもローテンブルグという地名があるために、
特に区別しているそうだ。

第二次大戦終戦の2日前に、アメリカ空軍のミスで爆撃を受け、
町の4割以上が消失したが、
全世界から再建のための寄付が寄せられ、
アメリカからも多額の再建資金援助が行われ、
町を愛する人々の努力で、見事に今の街並みが甦ったとのこと。

この時の寄付者の名前が、市壁の内側通路に掲示されており、
日本人のお名前も多数見かけた。


本当におとぎの国のようにすばらしい!












夜は町のメイン通り、マルクト広場のすぐ傍のレストランに入った。
名前は忘れた。






おいしいワインを1本とコーヒーも頼んで、これだけ全てで約9,000円。
決して高くはないが、デリシャス!ということもなく、
特に、牛肉のソテーの付け合せ、
ジャガイモに小麦粉を混ぜて蒸したようなマッシュポテトはひどくまずくて、
ただ蒸しただけのジャガイモの方がおいしいのに、
なぜ?と三人で首をかしげた。




我々が店を出る直前、
フランスから何台ものキャンピングカーでやって来たという
一行に話し掛けられ、ブロークンながら楽しいひとときを過ごしたが、
その時「福島に行ったか・・・・」と聞かれ、
やはりフランスの人々にとって、福島の原発事故は
対岸の火事ではないのだと感じた。

フランス人に別れを告げて、
マルクト広場に戻ると、まだお祭りの余韻が漂い、
あちこちで僧侶らしい人達の辻説法が行われていた。
もちろんドイツ語なので、私達には何を言っているか分らなかったが、
何人もの人達がその後をゾロゾロと付いて行くので、興味深かった。

本当に僧侶なのか、あるいはガイドなのか、今もって分らない。




とにかく、ワクワク ウキウキと楽しかった一日が終った。

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2012年 ヨーロッパへの旅 16 フランクフルトからローテンブルグへ

2012-11-18 14:41:33 | 2012年 ヨーロッパへの旅


9月9日 (日)

ホテル・ヒルトンの朝食はやはりすばらしかった。



でも、時間がなくて、ゆっくり楽しんではいられなかった。
9時半の電車に乗らなければならなかったからだ。



昨夜遅く着いた洋君。
ヨーロッパでも周りの人に劣らぬ背の高さがあり、
時々、現地の人が振り返るほどだ。

フランクフルト→ヴュルツブルグ(REで1時間56分)
→シュタイナッハ(普通列車で42分)
→ローテンブルク(普通列車で14分)
2回乗換えで、乗り換え時間を含めると約3時間の旅。

途中、シュタイナッハで一人の日本人女性から
「お祭りに来られたのですか」と聞かれ、何のことだか分らなかったが、
その言葉に期待が膨らんだ。



お昼過ぎ「古城街道と」「ロマンチック街道」の
交わる所にある「ローテンブルグ」に到着。

ローテンブルクは町そのものが城塞になっており、13世紀頃、
最初の城壁が築かれて以降、徐々に拡大されてきた町だという。






駅舎の真前に我々の泊まるmD Rothnburger Hof
ローテンブルガーホテルはあった。



小さく見えるが、50室も部屋数があるそうだ。



小さくてこざっぱりとしたかわいいお部屋。



駅舎

何だか古い田舎町に来たような雰囲気があった。

ホテルを出て歩くこと5~6分、城壁に囲まれた町に入ると、
中世の服装をした人々で溢れていた。

え~~っ、ああ、これだ!
これが先程の女性が言われた「お祭り」だ。


ローテンブルクには春の祭りと秋祭りがあり、
我々は丁度運良く、
秋祭り(帝国自由都市祭りと呼ばれているようだ)
の3日目、最終日に行き当たったのだ。
町中の人達が中世の服装をして、
幼い子どもから大人までお祭りに参加し、
町は中世一色に染まる。
もちろん、車もシャットアウト。









 お芝居もあり



バンド演奏もあり
見物人も演奏者もビールやワインを飲みながら、本当に楽しそう・・・









後で、この町に住む日本人女性とお話をするチャンスがあったが、
例年、このお祭りが始まると同時に、急激に寒くなるのに、
今年は異常に暑く、インターネットで取り寄せたベルベットのドレスが
暑くて困った、とのことだった。

日本でも暑い夏、長い夏が話題になっているが、
世界中温暖化の影響を受けているのだ・・・

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2012年 ヨーロッパへの旅 15 ストックホルムからフランクフルトへ

2012-11-08 10:28:08 | 2012年 ヨーロッパへの旅

9月8日 続き

フランクフルトの中央駅に着くや否や、明日からの旅行に備え、
ローテンブルグ経由ミュンヘンまでのチケットを買いに売り場へ向かった。

先に調べていた電車の料金は一人約120ユーロ、日本円で12,000円ほど。
シニア料金がないかと夫が尋ねたところ「それはないが、特別に
今の期間1日1便だけ5人で74ユーロという券がある。」と教えてくれた。

えっ、うそ~~~! 6万円の物が7,500円・・・・
1人でも5人でも7,500円、信じられないが本当の話だった。

今夜、日本から着く洋介さんの分も合わせて使える。
すごくラッキーだった。

閉店5分前、19時55分、手続き全て完了。良かった!

周遊の飛行機代も代理店が知らなかったほど安い物があり、電車もしかり。
日本人は相当損をしているに違いない。




フランクフルトのホテル・ヒルトンはとても近代的な建物で、
部屋もバスルームもたった一晩ではもったいないぐらいすばらしかった。



朝、6階から下を見ると、ロビー(左側)レストラン(右側)が
大きな吹き抜けになっていて、贅沢過ぎるほどの空間が広がっていた。



このロビー、下で見ると・・・



何だか映画のセットみたい・・・

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2012年 ヨーロッパへの旅 14ストックホルムからフランクフルトへ

2012-11-06 01:18:54 | 2012年 ヨーロッパへの旅

9月8日 (土)

ホテルの6階から下を見ると隣の学校の運動場があり、
朝早くから夜遅くまで、小学生から大人と思われる人まで遊んでいた。

今朝は先生も2~3人いるようだ。
よく見ていると、日本の「達磨さんが転んだ」と同じような遊びで、
何処も同じだなと顔がほころんだが、
そう言えば、日本では最近あまり見かけなくなった。




今日はストックホルムからドイツのフランクフルトへ移動。
また、飛行機代の都合でアムステルダム経由。

10時30分、タクシーで空港へ。
エアーポートタクシーを使うと、市の中心部ならどこから乗っても390クローネ、
日本円で約4,000円、丁度30分かかった。

市内のタクシーは、約10分で200クローネだったから、
それに比べるとかなり格安だ。

そして、日本では同じ位の距離で、新宿から八王子まで
約15,000~16,000円位なので、雲泥の差がある。

ストックホルム空港



ストックホルム上空



日本では考えられないほど、どこもゆったり、閑散としていた。



KLMの機内では、エコノミーにもかかわらず、たった2時間の間に
軽食と飲物、そしてさらに30分後に、おやつと飲物が提供され、
ノルウェーからストックホルムまで乗ったスカンディナビア航空は
お茶だけだったことを思うと、サービスに雲泥の差?があった。



13時10分 ストックホルム発  15時15分 アムステルダム着
16時30分 アムステルダム発  17時40分 フランクフルト着

結局、ほぼ一日移動にかかった・・・・

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2012年 ヨーロッパへの旅 13 ストックホルム (その4)

2012-11-03 23:39:41 | 2012年 ヨーロッパへの旅

9月7日 (金)

ヘルシンキ、オスロー、ストックホルムと、一緒に旅したアジさんが、
今朝 帰国された。

卒業以来度々お会いし、EMS研究会の旅行にも今回で3度目の参加。
お仕事先でも信頼され、いつもお忙しそうだが、何とか休暇を取って、
リラックスし見聞を深め、
次の仕事に向かいたいという姿勢はすばらしい。


さて、今日の目標は国立美術館とノーベル博物館。
また、地下鉄のガムラスタン駅まで行って、駅前の花屋さんで聞くと、
「歩いて行くととっても遠いから
(Hop-on Hop-off)の船に乗るといい。」と教えて下さった。



一日約1,000円ぐらいで乗り放題。
湾内7~8ヶ所の船着場があり、
行きたい場所に一番近い所で乗り降りが出来る。
私達は次の船着場で降り、国立美術館に向かった。





エントランス  



2階から下を見ると・・・



レンブラントやミレー、セザンヌの作品が数点ずつあり、
名前はよく知らないが、有名らしい画家の絵や彫刻、
そして、現代画家の作品も数多くあった。

2時間ほど見て回ると、腰が痛くて痛くて・・・・

そして、館を出たら、ここにも衛兵が詰めていた。
この人の服装はお城の人達とは色が違うようだ。




この美術館からノーベル博物館はすぐ近くだったが、
せっかくなので、また乗船し、湾内を一周して同じ船着場で降りた。



ガムラスタンの広場にあるノーベル博物館は、
元証券取引所を改造した物で、
薄暗い館内には、ノーベルの生涯や
ノーベル賞の歴史が展示されており、
年代別に受賞者、受賞内容なども紹介されている。

アルフレッド・ノーベルはダイナマイトを発明し、
これが産業革命と共に盛んになった鉄道の敷設や、
石炭や鉱石の発掘に使われ、
巨万の富を残した人ということは知っていたが、
彼が自分の事をひどく卑下し、
一生寂しい人だったということは知らなかった。

30歳のノーベル



自分が発明したダイナマイトが、心ならずも戦争に使われ、
尊い命を数多く奪ったということで、
ひどく心を痛めていたのだろう。

5ヶ国語を駆使し、偉大なる知識人であった彼は
「武器ではなく話し合いで外交を進めるべき。」と説き、
「この莫大な遺産を国や国民を問わず、前年の功績をたたえ、
その研究費の一部として、与えてほしい。」
という遺言を残した。

その遺志は今も引き継がれている。

毎年、多額の賞金?が受賞者に与えられているが、
遺産はなくならないのだろうか、と疑問を持った。

利息が利息を生んで、それ以上に増えているのかもしれない・・・


日本人のノーベル賞受賞者は今までに18人、
そして、私達が帰国後日本中で話題になった山中伸弥氏が、
医学生理学賞で今年受賞され、19人目になられた。

ノーベル博物館に行ったばかりだったので、
今までのどのノーベル賞より
印象が強く、多分、一生山中さんのお名前は忘れないだろう。



博物館のレストランで、晩餐会に出るデザートと
同じアイスクリームをいただいた。



とってもおいしく格別の味がした。
トップに飾ってあるほおずき(ホホヅキ)は食用の物で、ほんのりと甘く、
日本ではあまりお目にかからないが、
ヨーロッパではデザートに添えてよく出てくるようだ。

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