11月12日(金)
11月の4日朝方、夫の兄嫁が亡くなった。
長い闘病生活の末のお迎えで、
どんなにか辛い思いをされたと思うのだが、
9月の半ば、電話をいただいたときも、はっきりとした
元気そうな声でしばらくおしゃべりを楽しんだので、
信じられなかった。
私達が結婚をしたとき、長兄夫婦は名古屋に転勤中だった。
そして私達と同時期に結婚した次兄夫婦もすぐに西宮に転勤。
それで、末っ子の夫と姑の住む大田区久が原の
実家に私が同居することになった。
母は明治生まれのとても厳格な、
それでいてとても優しい人だった。
二人の義姉の実家は大田区の千束で近くだったが、
お正月やお盆に帰省したとき、
上の姉はまず久が原に帰ってきて、家族皆で一泊をして、
次の朝、姑に「これから千束に行かせていただきます。」
と、きちんと挨拶をしてから自分の実家に戻り、
また、名古屋に帰るときも同じように
こちらで一泊をしてから出掛けていた。
私はこの様子を見ていて、この義姉のするようにしていたら
間違いはないといつも尊敬していたので、
転勤から戻って横浜に住まいを定めたときにも、
家族でよく長兄の家に遊びに行っていた。
兄の家庭は男の子二人と女の子、我が家は女の子二人で、
従兄弟同士仲良くしてもらっていたので、
横浜の日野にあるお墓参りの帰りにはよく訪ねていたのだが、
義姉が輸血を受けたことで体調を崩し、
子供達もそれぞれ自立し、独立をしてからは
それぞれが忙しくなり、ましてコロナが発生してからは、
お互いに気遣いながら、避けていた。
一番下の女の子が仕事をしながら、母親の面倒を見ていたので
それはそれは大変なことと思いながらも、
いつもごめんねと謝るばかりで、何の役にも立たず、
申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
亡くなったその日は、家族や近くに住む親戚が集まり、
病院のベッドサイドでいろいろな話をして、
義姉が「眠くなったのでしばらく寝るわね。」と言って、
その2時間後、朝方の5時頃、全く苦しむこともなく
眠るように逝ったと聞いた。
さて、現在は告別式までにかなり日にちが立て込んでおり、
エンバーミングという技術で美しく保たれた義姉に会ったとき
昔のままで眠ったような美しい顔に、心の中で話しかけながら
しばらくその場を動くことができなかった。
長兄が逝って丁度15年、その時の葬儀とは違うが、
子供達もしっかりと育ち、小さかった孫達も成長し、
久しぶりに会った親戚の一人一人とも和やかに話ができ、
「義姉はコロナが落ち着くまで、皆が集まって来てくれる時まで、
待っていてくれたのだ・・・」と思えた。
ただ・・・ずっと泣いていた末娘の寂しさ、辛さを思うと
今も涙が溢れてくる。