みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

チェリーセージ 「ホットリップス」・メドーセージ・コリアンダー・フェンネルetc/ハーブの花たち

2007-07-16 14:11:32 | 花/美しいもの
台風が梅雨空をいっそうしてくれたようで、
抜けるような青空。今日も一日暑くなりそうです。

庭には、簡単な霜よけで冬越しした
チェリーセージ 「ホットリップス」(シソ科 ・サルビア属<)が、
5月から咲いています。


一昨年植えた株で、宿根草では真っ先に咲いてくれるのがうれしい。
サルビアの仲間でサルビア・ミクロフィラと呼ぶこともありますが、
花色からチェリーセージとばれることが多いようです。
花期がたいへん長く秋まで咲きつづけます。

花は2個ずつ咲き、2羽の小鳥がおしゃべりしてるようで、
それぞれ個性的な色と表情で、なんとも愛らしく、
見てると自然に笑みがこぼれます。
  

  

暑くなってきて、咲きつかれたチェリーセージのお隣には、
メドーセージ(サルビア・グアラニティカ)が咲いています。

濃い紫色の花が美しく、一目見たら忘れられない素敵な花です。
秋にきり戻して霜よけしたら、越冬しました。
草本かと思って調べたら、シソ科アキギリ属の常緑小低木とのこと。 
  

  
どうりで、大きくなるはずです(1メートルくらい)。
大きく口を開けた、ヘビの頭のような花です。


ここからは、畑のハーブの花。
いずれも去年のこぼれ種からの自生です。

フローレンスフェンネル


フェンネルシード(種)のハーブティは、ダイエット効果があるとか。
種を収穫してみようかな。
  

コリアンダー(パクチー、香菜)

コリアンダーは中国ではシャンツァイ、タイではパクチーと呼ばれます。
エスニック料理には欠かせないもののひとつですが、
匂いは強烈で大好きな人と嫌いな人に分かれます。
  
ちなみにわたしは苦手。だいぶん慣れましたけど・・・(笑)。
完熟したタネ(コリアンダーシード)はあまい芳香があり、
カレーやピクルス、ソーセージにスパイスとして利用されます。

ボリジ(スターフラワー・ルリヂシャ)

瑠璃色の星型の花が美しく、
一日のうちで、ピンクからブールに色が変わります。
  

真っ白な小花をたくさんつけるにんじんの花もきれいです。
ちょっと撮り遅れたかな、と思って見に行ったら、
  
すでに、種になった花もあります。
  
チクチクとげとげのにんじんの種です。

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『越境の時』(鈴木道彦著)&『北朝鮮へのエクソダス 』(テッサ・モーリス・スズキ著)

2007-07-16 00:14:09 | ほん/新聞/ニュース
台風一過、すがすがしい青空。気温は一気に上がって蒸し暑い。

岐阜新聞を読んでいたら、「こんにち話」に懐かしい名前を見つけた。
記事を書いたのは、共同通信記者、原真さん。
原さんの初任地は84年頃の岐阜支局で、わたしがかかわった、
「指紋押捺拒否者を告発させない会」や農薬空中散布の反対運動の
岐阜発の記事を、当事者に寄り添って書き、全国に発信された。
というより、行政との話し合いや運動の現場には必ずいらして、
公私ともに親しくしていただいた。
その後、京都から仙台、ニューヨークに転勤され、
いまは東京の本社に戻ってみえる。

わたしが『市民派議員になるための本』を書いた時は、
はるばる岐阜まで取材に来て、本の記事を全国配信してくださった。

わたしもそうだけど、初任地の岐阜で出会って以来、
在日朝鮮人の問題は、きっとおたがいにとってライフワークだ。

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こんにち話 
在日朝鮮人帰国事業 国にも推進した責任
     歴史学者 テッサ・モーリス=スズキさん



<1959年からの「帰国事業」で9万人以上の在日朝鮮人が北朝鮮へ渡った。この民族大脱出をめぐり、関係国や機関の公文書などから新事実を発掘し「北朝鮮へのエクソダス 」(朝日新聞社) として出版した。>
 日本の中のマイノリティ(少数派)に興味を持ち「在日」の戦後史を研究しています。その一環として帰国事業を調べ始め、事業を監督した赤十字国際委員会を3年前に訪ねた。当時の文書の機密指定がちょうど解除され、閲覧できました。
 帰国事業は在日や北朝鮮が要望し、日本政府や日本赤十字社が人道的立場から対応したというのが通説でした。ところが文書によると、要望が出るずっと前から、政府と日赤は帰国を推進しようとしていたのです。驚きました。 在日には共産主義者や生活保護の受給者が多く、犯罪率も高いというイメージがあった。"厄介者"を送り返そうとしたのです。世論が帰国事業を支持したことも、日米安保条約改定で批判されていた岸信介政権にとっては、推進する動機になった。韓国との国交正常化交渉でも、一種の切り札として使いたいと思っていたようです。
 実際、帰国事業は世界的な出来事でした。冷戦下で関係国は自らの国益のために、これを利用しようとした。北朝鮮は経済計画を実現するのに労働力が必要だった。韓国は事業に反対したものの、自らは在日を受け入れなかった。米国は韓国の意向を知りながら、日米安保を優先し反対しなかった。中国も旧ソ連も・・・。在日のことを考えて立場を取った国はない。悲しい話です。
 帰国は「自由意志」だったといわれる。でも在日からすれば、民族差別のある日本に残るか、(ほとんどが朝鮮半島南部の出身者だったため)よく知らない北朝鮮へ渡るかという、難しい選択でした。多くの人は、何とかなるという気持ちだったのではないか。そんなに喜んで行ったわけではないでしょう。
 日本政府は戦後、在日に対し、国籍選択権や永住権、福祉などの権利を認めるべきでした。その上で、日本にとどまっても、北朝鮮か韓国に行ってもよいということにすれば、自由意志と言えたかもしれない。もしそうなっていたら、あのような大量帰国はなかったでしょう。 その後、日本が難民条約に加入したことで、在日の状況は改善されたとはいえ、課題は多い。政府はせめて地方参政権や、日本との二重国籍を認めるべきだと思います。

 <北朝鮮をめぐっては核や弾道ミサイルの開発、日本人拉致問題で国際的緊張が続き、脱北者も後を絶たない>
 帰国事業に参加した元在日の脱北者や、親類が帰国した在日の人たちに会いました。話を聞くと、過去ではなく、現在の問題だと痛感します。日本は帰国事業に責任があるのだから、元在日の脱北者が希望すれば、受け入れるべきです。
 日本政府は拉致問題で強硬な姿勢を取っていますが、袋小路に入っている。北朝鮮の核に関する六カ国協議では、米国ももう少し柔軟な姿勢を示しています。安倍晋三政権は拉致や脱北者の問題を北朝鮮の体制変革につなげたいようです。しかし、外から介入して急に新体制をつくろうとすると、イラクのような状況になりかねない。長い目で交渉を続けるうちに、中から変化が起きると思います。
(聞き手は共同通信記者・原真、写真 小島健一郎)
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てっさ・もーりす=すずき
1951年英国生まれ。バース大学で博士号。オーストラリアのキャンベラ在住。オーストラリア国立大教授。専門は日本経済史、日本思想史。著書に「辺境から眺める」(みすず書房)「批判的想像力のために」(平凡社)「自由を耐え忍ぶ」(岩波書店)など。
(2007.7.15 岐阜新聞)
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『北朝鮮へのエクソダス―「帰国事業」の影をたどる 』
(テッサ・モーリス・スズキ著、田代 泰子翻訳、朝日新聞社)


ところで、
先月東京に行ったとき、上野さんから
「越境の時 1960年代と在日」(鈴木道彦著・集英社新書)をいただいた。
この本は、上野さんが鈴木道彦さんに書くことをすすめた本、とのことで、
わたしが、在日の問題に関心があるので、わたしの元に届けてくださったのだ。

  
「越境の時 1960年代と在日」(鈴木道彦著・集英社新書)

帰りの新幹線で、『越境の時』を読みとおした。
予想通り、わたしにとって衝撃的な本だった。

「仮にこうした問題で通り一遍の建前論とは異なった、多少は意味のある言葉を
自信を持って綴れるときが来たならば、たぶん私の言語状況も幾分変わるだろ
う」・・・・そのときから本書まで、私は在日朝鮮人の問題と日本人の関係を
テーマとする文章を、一度も書いたことがない。その間に指紋押捺の運動があ
り、従軍慰安婦の問題も明るみに出て、私は重大な関心を抱いて成り行きを見
守った。・・・・・」

鈴木さんの思いは、わたしの思いと重なる。
幼いころの在日コリアンの友を忘れられないわたしも、
在日の問題に長い間、有形無形にかかわってきたから、
こころを痛めて見ているしかない。

6月25日の中日新聞夕刊の文化面に、鈴木さんの文章が載ったので、
他の在日関連の記事といっしょに紹介したい。

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 過去の反省と他者への想像力
戦後を見つめなおし ねばり強い対話を
(2007年6月25日 中日新聞)


 このところ続けて私の回想記が2冊出版された。若いころのフランス滞在を中心とする20年前に書いた「異郷の季節」の新装版(みすず書房)と、1960年代から10年余り取り組んだ在日朝鮮人問題を振り返る「越境の時」(集英社新書)である。
 仏文学選考の私が、なぜこのように在日のことに関わったのか。理由は色々あるが、一つにはこれが、最初のフランス滞在の時のアルジェリア体験と密接にからんでいたからだ。
また、在日朝鮮人問題とは日本人の問題にほかならないことを、ある時期に理解したためでもある。さらに私はこの回想記を書きながら、それが依然として日本人の問題でありつづけていることを、日々の報道を通してますます実感した。
 たとえば、現在の朝鮮半島をめぐるテレビ報道である。むろん北朝鮮がとんでもない独裁的軍事国家で、いくらか戦前の日本を思わせることは、専門家でもない私にも用意に推察できるし、拉致の被害者や老齢に達したそのご家族のことを考えると、一刻も早い解決を願わずにはいられない。だがその一方で、マスメディアが声を揃えて毎日のように北朝鮮の脅威を伝えるのを見ていると、それ自体がぶきみでさえある。ひたすら「鬼畜米兵」への憎悪を煽って「愛国心」をかきてたて大戦中の報道を連想するからだ。またそれ以外の言論をいっさい許さない、といった風潮も、はなはだ危険なものに見える。
 すくなくとも私たちは、まず北朝鮮が日本の旧植民地で、戦後60年余りたった今も国交が正常化されていないことを忘れるべきではないだろう。この関係を早急に解決することは、かつてこの国を不当に支配してきた日本の責務ではないか。
 いったい戦後の日本は一度でも、この過去の植民地支配を反省したことがあったのだろうか。北朝鮮だけではない。日韓条約(1965年)の締結に向けて、50年代から十数年にわたって続いた日発言で、会談はしばしば中断に追い込まれたのである。 このように他者への加害を真剣に反省しなければ(アジアの他の民族に対しても同様である)、相手に皇民化を強いたことも、その言語や名前を奪ったことも、さらに第二次大戦中に、数十万人の朝鮮人を日本に連行して過酷な労働に字氏させたことも、重大なものに映るわけはない。日本の戦後史はそれらを過小評価し、その意味を薄める60年だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・(以下略)・・・・・・・・・・・・・・・・
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【土曜訪問】六カ国協議常設化へ論陣 姜 尚中さん(政治学者)
2007年6月23日 中日新聞


 「しんどいけど、あと三年は前を向いて走ろう。振り返るのは、それからでもいい」。政治学者で東大教授の姜尚中(カンサンジュン)さん(56)は、訪ねた東京・本郷の研究室で、何度もこう言った。それは単に、一九五〇年に在日二世としてこの国に生まれ、今から三年後の二〇一〇年に還暦の区切りを迎えるからというだけではない。日韓併合から百年、朝鮮戦争から六十年という「僕にとってとてもモニュメンタルな年だと思っているからなんです」。いつもの低い声と静かな口調で語りかけた。
 『姜尚中の政治学入門』『ニッポン・サバイバル』(ともに集英社新書)や『愛国の作法』(朝日新書)など次々に新刊を出し、テレビ討論番組の常連としても知られている。新聞や雑誌の寄稿やインタビュー、各種のシンポジウムでも発言を続けるほか、最近は各地の大学に招かれて十代から二十代の若者たちに向けて話すことも多くなった。
 先月、『増補版 日朝関係の克服』(集英社新書)を刊行したばかり。六カ国協議の常設化こそ世界に残された最後の「冷戦」を緩やかに終結させる補助線であるという、二〇〇三年の旧著以来、自身が張ってきた論陣を「お蔵入り」させたくなかったためだ。今年一月にベルリンで持たれた米朝協議も、大きなきっかけの一つだったという。
 「常設化されれば、米国の単独行動主義がこの地域で封印される。逆に言うと、日米という二国間に偏った日本の地域的安全保障が、六カ国協議という多国間交渉に移る足場になるということ。多国間安全保障による信頼醸成のメカニズムが存在していないことが、日中や日韓の間に絶えず不安を生み出している原因ではないでしょうか」
 その六カ国協議は、米首席代表であるヒル国務次官補が電撃訪朝するなど、確実に展望が開きつつある。
 「あと三年で北朝鮮がこれからどのように変わるかはともかく、現在の補助線を引いていけば、二〇〇〇年六月に実現した南北首脳会談が再び行われる可能性もある。何らかの形で米朝の正常化、日朝の国交正常化に向かっていくかもしれない。それは長い目で見ると、二十世紀の宿題が終わったということですよ。朝鮮半島とそのゆかりの人々が、大きな重荷を下ろして新しく出発できれば、そのとき初めて(日本)列島と半島の人たちが新しい時代を生きられるのではないか。併合から百年かかって宿痾(しゅくあ)を切除できれば、二〇一〇年は僕にとって非常に感慨深い年なんだという思いが強くあるんです」
 あまりにもおめでたい理想論ではないか、在日だからそういう偏頗(へんぱ)な考えを持つのだと嗤(わら)う向きもあろう。そうした謗(そし)りを受けないためには、あの人の言うことだから耳を傾けてみようかと思わせること。そのために自身に下した決断が、土日も返上して機会を見つけては、さまざまな媒体で発言するというものだった。毎週一度、一、二年生向けに駒場キャンパスで行っている講義には、何と千人近い学生が登録しているというから驚く。当然、通常の教室では収まり切れず、講堂を使って講義しているのだという。
 多忙を極める中で現在温めているテーマが、岸信介と丸山真男。一見交わらないように見える二人の人物を通して、この国の「戦後」という思想の本質を描くべく、少しずつ準備を進めている。「いってみれば、安倍政権ができあがったのも、戦後における岸的なものが脈々と生きていたわけで、それは一体何なのか、ということを考えてみたい。政治家と学者、時代も十年ほど違いますが、自分なりの『戦後』の収支決算といえるでしょうか」
 併せて、自分を間に挟んだ在日三世代の歴史を通して「戦後」を語るという計画も持っているという。「そうすると、六十歳で一応の区切りがつく。その後は、南北の統一と今後の東アジアの行く末について書いてみたい」と続けた。
 拉致問題などがヒートアップしていたころ北朝鮮問題を語る自分は、完全に孤立していたと思っていた。著作が読まれるのは、いわゆる「お付き合い」だろうと猜疑(さいぎ)心にかられたこともあった。それがここ数年は、肯定的に見守られている確かな手ごたえがあるという。
 「大きな力添えになります。わずかな自己満足かもしれないですけど、僕の言っていることを聞いてもらえる状況は、以前よりも増えていると思います」 
(久間木聡)
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【土曜訪問】差別や民族分断の悲しみを歌に 李正子さん(歌人) 
2007年6月16日 中日新聞


 三重県伊賀市の住宅街にある喫茶店「駕洛(から)」。濃い茶色のドアを開け、「イ・チョンジャさん、いらっしゃいますか」と声をかけると、奧から黒のノースリーブのシャツ、ジーンズ姿の女性が出てきた。店のママで在日韓国人二世の歌人、李正子さん(60)。

 <生まれたらそこがふるさと>うつくしき語彙(ごい)にくるしみ閉じゆく絵本

 中学校や高校の、一部の国語教科書や副読本に掲載されている歌だ。絵本の中の「生まれたからそこがふるさと」という美しい言葉も、生まれた土地を単純にふるさとと呼ぶことができず、苦しいものでしかない-絵本をめくる少女の指先のとまどいの様子が読む者の心をえぐる。
 李さんがこの歌を詠んだのは一九八五年ごろ。多くの在日韓国・朝鮮人が、外国人登録証切り替えに必要な指紋押なつ拒否運動を行った時期だった。「日本に住んでいる米国人は在日米国人とはいわないのに、どうして韓国人は…」。「在日」という言葉の響きに強い違和感を覚えていた。
 「在日」への指紋押なつは廃止されたが、今も心は晴れない。「在日にはいまだに参政権がない。『差別がない社会を』との行政のうたい文句が空言に思えます」
 中学生のとき、教室で在日韓国人は一人だけだった。国語の授業で先生が読む石川啄木や若山牧水などの短歌を初めて聞いたとき、孤独感がいやされた。学校で使っていたのは本名と違う日本名「香山正子」。朝鮮人がなぜ日本に。心の中で本当の自分を探すように万葉集や与謝野晶子の短歌を読みふけった。
 高校卒業後、地元の在日系の銀行に就職した。職場には日本語に交じって時折、朝鮮語が飛び交い、故郷を少しでも感じられるのではないかとも期待したが、「ここは日本でも朝鮮でもない場所」と感じてなじめず、結局一年で辞めた。
 「チマ・チョゴリを着て街を歩かないでほしい」。同じころ、結婚まで考えて交際していた日本人の男性から言われた一言で二十歳の恋は壊れた。絶望感や行き場のない苦しみを短歌に詠み、昇華させた。

 はじめてのチョゴリ姿に未(いま)だ見ぬ祖国知りたき唄(うた)くちずさむ

 そのころ、新聞歌壇に投稿したこの歌が、歌人近藤芳美さん(昨年死去)の目にとまり、短歌の道を歩むきっかけになった。近藤さんの主宰する結社「未来」に入り、三十四歳の八四年、第一歌集『鳳仙花(ポンソナ)のうた』を刊行。当初は五百部ぐらいと予想していたが、二千部以上が売れた。思わぬ反響だった。以来、歌集『葉桜』『マッパラムの丘』などを出し、社会の差別や民族分断の悲しみを歌で表してきた。
 「初めて歌集を出したとき、民族を赤裸々に詠むことに対して家族や在日の同胞から反対された。原稿を書きながら眠れぬ夜が続きました」と振り返る。苦悩を救ったのは、近藤さんの『今、人々に問わなくては』との励ましの言葉だった。
 「三十一文字を基本とする短歌では、小説のように多くの人物を登場させ、語らせることができない。どこまでも自己を凝視して内面の世界にうずくものを覚えないと歌えない。韓国人として日本社会でどう生きていくかが問われるのです」
 教科書に掲載された短歌や歌集を見て、遠方から喫茶店を訪ねる人がいる。「来る人のほとんどが日本人なんです。学校や職場でのいじめ、家族との確執…。苦悩の形は違うが、あのころ、私が感じていた心の痛みに共感してくれているのでしょうか」
 取材を終えた帰り際、五年ほど前に日本人女性と結婚した二男夫妻の写真を見せてくれた。「大きな壁を乗り越えて結ばれた二人を見ていると、たくましさを感じますね」とほほ笑んだ。
 第五歌集の刊行に向け、未来や希望を感じさせる短歌を詠みたいという。「朝鮮語の『恨(ハン)』は日本語の恨みの意味でなく、世の中の悲しみや苦しみを受け入れ、自己を解き放つことなんです。不自由を乗り越えた先にきっと自由が見つかる」と信じる。

 おおぞらへ風にまかせる雲のよう恨は不自由に自由をみている

  (紙山直泰)
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思えば50年、わたしは彼女のことを忘れたことはなかった。

問われているのは、わたし、の、人生である。

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