みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

この世の「とげ」抜く・伊藤比呂美さんの『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』&『死を想う』『のろとさにわ』

2007-09-04 06:41:39 | ほん/新聞/ニュース
このところ、ずっと探しているのが、
伊藤比呂美さんの『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』。
本を見つける前に、岐阜新聞で「本の紹介」のほうを先に見つけてしまった。


そのうえ今朝、昨夜のうちに書いておいた記事をアップしようとしたら、
この本が昨日、優れた現代詩に贈られる
「第15回萩原朔太郎賞」を受賞した記事を見つけた。

わたしが探している本が、「萩原朔太郎賞だなんて素敵」と想いながら、
これでいよいよ、本が入手できなくなる、とあせる。

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<創作の流儀>
この世の「とげ」抜く   伊藤比呂美さん 

降りかかる「苦」突き放しリズム

 
 長編詩「とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起」(講談社)を出版した詩人の伊藤比呂美さん。十数年ぶりに詩の世界に戻り手掛けた「河原荒草」(思潮社)で昨年、高見順賞を受賞、見事な復活を遂げたばかりだが、新作はさらに自由で大胆な作品となった。自らの身に降りかかる「苦」を突き放してながめ、リズムに乗ってうたっている。生きることはつらいこと。死ぬことは怖いこと。伊藤さんは詩を書くことで、この世のあまたある「とげ」を抜くこうとしているのかもしれない。
   ×    ×
 「とげ抜き」の語り手「わたし」は米カリフォルニアに住み、両親の介護のために熊本に通っている。母は病院で寝たきりの状態になり、父は孤独にあえぐ。外国人である夫との間には深いみぞがあり、子どもたちは大きな困難にぶつかっている。「わたし」は日米を往復しながら、娘として親を、母として子を、妻として夫を引き受け、支えなければならない--。
 出口の見えない暗い話のようだが、実際に読むと笑いに満ちてもいる。その理由は語り口調であり、リズム感。声そのものと言ってもいい。

▽声を借りる 
 「この詩でわたしは、自分の苦労と向かい合った。でも現実の生活をそのまま書いたら悲惨なだけですからね。この章はこのネタでいこうと決めると、それを向こう側に置き、いかに笑えるものであるか考える。リズムと口調をつかむんです」
 各章の終わりに引用・参考文献が列挙され「声をお借りしました」と記されている。宮沢賢治、太宰治、中原中也、ランボー、梁塵秘抄(りょうじんひしょう)、説教節、古事記・・・。古今東西の文学の声を、自分の声の中に組み込んでいく。
 例えば、カフカの「変身」の一部をアレンジして入れたり、登場人物のせりふに中也の詩のフレーズを使ったり。「私的なことを突き放すための手法です。声が重層化していき、わたしはオーケストラの指揮者のような気分になる」。ほかにも「ひろみ」を「しろみ」と呼ぶ東京方言や、何やらおかしい英語直訳的日本語が、深刻な物語を滑稽(こっけい)なものへと転じる。

▽シャーマン 
 この作品で試みたのは、中世から近世の語り物「説教節」だった。「もともと古典は好きでしたが、子どもを産んで初めて説教節の良さが身に染みた。女が強いのがいい。底力を感じます」 
 「とげ抜き」を書いている途中ふと「照手姫はわたしだ」と思った。有名な説教節「小栗判官」の中で、「餓鬼弥陀」の姿に変わり果てた小栗の車を引き、助けるのが照手だ。
 「今のわたしの苦労は照手の苦労であり、大昔から多くの女たちがしたきた苦労です。そう気がついたとき、自分の経験を普遍化することは可能だと確信した」。さまざまな声を借りたことも普遍性を強める力になった。「幾万もの女たちとつながっている」と語る。まるで、すべての女たちの「とげ」を抜こうとするシャーマンのように。「詩の原点の一つは、『痛いの痛いの飛んでいけ』だと思います」
 「死とは何か」と悩む「わたし」は年上の詩人に話を聞きに行ったり、自ら病院に駆け込んだりもする。切羽詰って「わたし」は思う。「とりあえずやらねばならないことは。/よき子をしあわせにし。/あい子をしあわせにする。/それから、父と母を見届ける。/それから、夫が死ぬまで添い遂げる。/(中略) そのときわたしは、自分はひとりでこの出血に対処せればならない、ということに気がつきました。じっさいに対処しておる。ひとりである。ひとりっきりなのである。」
 時に苦しみを笑い飛ばしながら、最後に「わたし」は「死」の問題をどうとらえるのか-。面白くも切実な語りは悲しみをも引きずり、やがて力強い結末へと向かう。
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生きる強さをうたいたい
 伊藤比呂美さんは1993年ごろから十数年、詩から遠ざかった。自分の詩も含め「現代詩はどれも同じに見えた」という。「そんなとき説教節に出合った。リズムに乗ってとうとうと語り、生きる強さをとらえている。なぜこれが現代詩にできないのかと思った」。小説を書き、99年に「ラニャーニャ」で野間文芸新人賞を受賞したが、今度は小説が窮屈に思えてきた。「詩で書きたいことがたまったのかもしれない。また、うたいたくなったんです」 
(2007.9.3 岐阜新聞)
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7月の読売新聞にも、書評が載っていた。
わたしはその前からずっと、本を探しているけど、どこにもないのだ。

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 『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』 伊藤比呂美
出版社:講談社  発行:2007年6月
ISBN:9784062139441
価格:¥1785 (本体¥1700+税)

わたくしごとに潜む普遍


 この本には、伊藤比呂美という作者の、どうやらわたくしごとが書いてあると思われる。アメリカに住みイギリス人の夫と結婚し、熊本にいる両親のうち母は脳梗塞(こうそく)を起こし、父も次第に衰え、遠くにいる娘が病んだと聞けば車で一日走って行ってなぐさめ、熊本の母が足が痛いと訴えれば熊本に行って幾つもの病院を巡る。
 ものの本にわたくしごとと思われることが書いてあってうたれる時、私はその作者だけにふりかかっている壮絶なできごとの内容と描写に、遠くからひれふすのである。この本に書いてあるわたくしごとに、私はうたれひれふしたけれど、同時に、この本にあるわたくしごとは、この作者にだけふりかかっているのではなく、世界中の女や男全部にふりかかっている壮絶さなのだと感じて、遠くからではなく、近々とうたれた。作者だけのわたくしごととは思われない、「普遍」というようなものを感じた。
 どの章の最後にも、「○○より声をお借りしました」とある。○○は、宮沢賢治の詩や説経節やカフカの変身や山口百恵の歌、過去に書かれたさまざまな言葉である。作者の声だけでなく、いくつもの声を響かせたから「普遍」なのかとも思うけれど、それだけではない。「お借りした声」は、文章の中にするっと潜まされていて、作者の文章とほとんどみわけがつかない。それなのに舞台の上手からも下手からも客席からもあらゆるところからあらゆる声が響いて途切れなく続いてゆくような心地なのである。
 この本を読んで、私は、身につまされなかった。身につまされる、とは、共感するけれど最後は他人ごと、ということである。私は作者に共感なぞしなかった、それよりもっと自分の生活の中の壮絶さ(目をそむけたり忘れたふりをしたいけれどそんなことはできるわけないもの)についてばかり、考えていた。読むのがつらい本だった。剣呑(けんのん)だった。巣鴨に行って私も地蔵に手をあわせたくなった。巣鴨は遠いのでかわりにもう一度繰り返し、この本を読んだ。

 ◇いとう・ひろみ=1955年生まれ。詩人。
講談社1700円

評・川上弘美(作家)
(2007年7月23日 読売新聞)
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伊藤比呂美さんの本をはじめて読んだのは、『良いおっぱい悪いおっぱい―
すてきな妊娠・たのしい出産・あかるい育児・まじめな家族計画 』(冬樹社・1985/10) 。


下の二人の子を、自宅で助産婦なしで産んでいたわたしにとって、
詩人の伊藤比呂美さんの、「胎児は実はうんこである」
合言葉は「がさつ、ぐうたら、ずぼら」という、
女の体験を言葉にしたエッセイは、痛快で共感を覚えた。
その後も、『おなか ほっぺ おしり』(婦人生活社・1987/09)などの
ユニークな育児本を出し、目が離せなかった。

そして、なにより、
わたしにとって衝撃だったのは、上野さんとの共著、
『のろとさにわ』
(伊藤比呂美・上野千鶴子共著/平凡社/1991)。

わたしは上野さんの本の愛読者で、このころ、
ひそかに上野さんに手紙を書いていたのだけど、
この本を読んで、稚拙な言葉を連ねた手紙を投函するのを断念した。
わたしは、ふたりの響きあうことばのコラボレーションに
心底、嫉妬して、この本のおかげで上野さんに出会うのが10年遅れた(笑)。

伊藤比呂美さんは女の言葉で「おんな」を語る数少ない詩人で、
わたしも摂食障害を経験してるし、共感できるところがおおい。
その後も、子づれで生き抜く『ラニーニャ』(新潮社・1999/09) 、
育てている植物のことを書いた『ミドリノオバサン』(筑摩書房・2005)などを読んでいた。

『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』のことを知ったのは、
5月に出た
『死を想う―われらも終には仏なり 』。
(伊藤比呂美・石牟礼道子共著/平凡社)。

『のろとさにわ』の解説を書いた石牟礼道子さんとの共著で、
この本の編集者も、同じ及川さんという人。

 寝たきりの母を持つ詩人は、死とはどういうものか知りたかった。
他の人にあけすけに聞けない、「でも石牟礼さんなら」。
これまで多くの苦しみと死を見つめてきた作家は、
切実なことをぐさりと言われたような気がした。
こうして12月の穏やかな日、二人は語りはじめた。

老いと病、介護・看護、家族の死、さらには『梁塵秘抄』。
そして「いつかは浄土へ」という祈りに至る安らぎの対話。


二人の詩人の言葉は、対話というよりは、いっぺんの詩のようだ。
この本のなかで、何度も出てくるのが『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』。

書名を控えて本屋にすぐに探しに行ったが、異口同音に「分かりません」という。
探し回って何度も口にしているうちに、おぼえにくい書名を覚えてしまった。

読みたい気持ちがつのる。


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