みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

『最後だとわかっていたなら』Tomorrow Never Comes/「9・11」から6年。

2007-09-11 21:46:04 | ほん/新聞/ニュース
2001年9月11日、午後9時46分。
「9・11」から6年。

紹介したい詩があります。

この詩は、「9・11」のあと、作者不詳でネットに配信され、
世界中が涙したという話題の詩です。

今年7月、
 『最後だとわかっていたなら』
(ノーマ コーネット マレック/佐川睦訳
/サンクチュアリ出版・2007/6)
という本になりました。 



Tomorrow Never Comes
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「最後だとわかっていたなら」
ノーマ コーネット マレック作
佐川睦訳
 

あなたが眠りにつくのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように
祈っただろう

あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめてキスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて 
抱きしめただろう

あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう

あなたは言わなくても
わかってくれたかもしれないけれど
最後だとわかっていたら
一言でもいい・・・「あなたを愛してる」と
わたしは 伝えただろう

たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日ですべてが終わるのだとしたら
わたしは今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい

そして わたしたちは 忘れないようにしたい

若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは
今日が最後になるかもしれないことを

明日が来るのを待っているなら
今日でもいいはず
もし明日が来ないとしたら
あなたは今日を後悔するだろうから

微笑みや 抱擁や キスをするための
ほんのちょっとの時間を 
どうして惜しんだのかと
忙しさを理由に
その人の最後の願いとなってしまったことを
どうして してあげられなかったのかと

だから 今日
あなたの大切な人たちを 
しっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること
いつでも 
いつまでも大切な存在だと言うことを
そっと伝えよう

「ごめんね」や「許してね」や
「ありがとう」や「気にしないで」を
伝える時を持とう
そうすれば もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから

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この詩を読むと、胸がはりさけそうになる。

あの日。
あなたがとつぜん死んでしまった。と分かっていたなら、

言っておきかった。

「すきやよ」。と。

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「あげた手をおろす」~『生き延びるための思想 ジェンダー平等の罠』上野千鶴子/「9・11」から6年。

2007-09-11 19:31:20 | ジェンダー/上野千鶴子
「9・11」から6年。

あらためて、
『生き延びるための思想
ジェンダー平等の罠』(上野千鶴子著/岩波書店/2006)の
「はじめに」に収録されている、
上野千鶴子さんのエッセイ「あげた手をおろす」を再掲したい。

『生き延びるための思想 ジェンダー平等の罠』上野千鶴子著(2006.2.11記事)

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「はじめに-あげた手をおろす」

 21世紀は「9・11」で幕を開けた。「9・11」で世界は変わった、という。ほんとうだろうか?
 世界にはたくさんの「9・11」がある。無法な暴力で踏みにじられた記憶。たくさんの忘れられた「9・11」のなかで、なぜ、この「9・11」だけが特別に記憶に値すると、考える人々がいるのだろうか。
 20世紀は戦争の世紀だったが、21世紀は市民戦争の世紀だと言った人がいる。前線なき戦闘。宣戦布告のない戦争。見えない敵。日常生活が一瞬のうちに戦場と化す。
 平和な生活手段が凶器に変わる。それもいわれのない悪意や憎悪によって、圧倒的で理不尽な暴力に遭う。この「9・11」が特別だったのは、標的がアメリカという国家だったことだ。そしてこの国家は、見えない敵に向けて、世界でいちばん豊かな国の国家暴力を動員した。
 たたきのめせ、という声が聞こえる。やってしまえ、という大合唱が起きる。そう言えるのは、強者の権利。強大な軍事力という危険な道具を手にしたもののおごり。報復は、その力のある者たちだけの選択肢。だが世界には、やられたらやられっぱなしの人々がたくさんいる。
暴力を手にした者が、それを使わないように抑制するのはむずかしい。アフガニスタンで、イスラエルで、チリで、非力な人々をおさえこむ無法な暴力が行使される。宣戦布告もなく、国際社会の合意もなく、だれが敵なのかもよくわからないままに、戦争が始まり、殺されていく人々がいる。その理由もわからないままに空爆の犠牲になったアフガニスタンの人々にとっては、アメリカの攻撃も「もうひとつの9・11」だったのではないだろうか。争いのなかでもっとも犠牲となったのは、泣くことと祈ることしかできない者たちだった。
 理不尽な暴力に遭う。ゆるせない、と拳(こぶし)をにぎりしめる。そこまではおなじだ。そこで、くちびるをかみしめながら拳をおろす。そんな経験を、わたしたちはしてこなかっただろうか。ヒロシマ、ナガサキの惨劇のあと、日本には拳をふりあげる力さえなかった。同じように夫に殴られつづける妻も、食ってかかって反撃したりはしない。なぜか。自分の無力さが骨身に沁みているからだ。反撃すれば、もっと手痛いしっぺがえしが待っていることを、知っているからだ。この経験は、無力なものには親しい。
 もしあなたが非力なら、あなたは反撃しようとしないだろう。なぜなら反撃する力があなたにはないからだ。あなたが反撃を選ぶのは、あなたにその力があるときにかぎられる。そしてその力とは、軍事力、つまり相手を有無を言わさずたたきのめし、したがわせるあからさまな暴力のことだ。
 反撃の力がないとき。わたしたちはどうしたらいいのだろう? 問いは、ほんとうはここからはじまるはずだ。
 自爆テロの報に接したとき、これは見たことがある、と思った。アルジェリアの独立戦争で若い女が爆弾を抱えてフランス人を殺傷した。非力な者も、死と引き換えになら、自分自身を武器に変えることができる。女だって男なみに戦力になれる--そう考える人たちもいる。
 非日常のヒロイズムに陶酔したのは男たちだった。だが今日のように明日も生きようとする女の日常にとっては、ヒロイズムは敵だ。そして。かつての学生闘争の中で、どうぞ当たりませんように、と祈るように石を投げながら、男なみになれない自分と、男なみになることの愚かさとを、女はとことん学んだのではなかったか?
 ところで女は平和主義者だろうか? 歴史はその問いにノーと答える。日本の゛女性は「聖戦」の遂行に熱心に協力したし、英米の女性も戦争の「チアガール」を務めた。女だからというだけで、自動的に平和主義者だということにはならない。
 フェミニズムは女にも力がある、女も戦争に参加できる、と主張する思想のことだろうか? アメリカのフェミニズムは女の男なみの戦闘参加を求めてきた。だが、もしフェミニズムが、女も男なみに強者になれるという思想のことだとしたら、そんなものに興味はない。わたしの考えるフェミニズムは弱者が弱者のままで、尊重されることを求める思想のことだ。だから、フェミニズムは「やられたらやりかえせ」という道を採らない。相手から力づくでおしつけられるやりかたにノーを言おうとしている者たちが、同じように力づくで相手に自分の言い分をとおそうとすることは矛盾ではないだろうか。フェミニズムに限らない。弱者の解放は、「抑圧者に似る」ことではない。
 戦争を含めてあらゆる暴力が犯罪だ、ということができなければ、DV(夫や恋人からの暴力)すら解決することができない。そしてもし、DVをなくすことに、わたしたちが少しでも希望を持つことができるなら、国家の非暴力化に希望をもってはいけないのだろうか。
(『生き延びるための思想』(上野千鶴子著)~より)
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「9・11」から6年。で、もうひとつ紹介したい詩があります。

『最後だとわかっていたなら』Tomorrow Never Comes

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白レイシ・カボチャ・大根葉・・・秋の健康野菜

2007-09-11 12:09:10 | 有機農業/野菜&ハーブ

つれあいが、軽トラで畑にあるカボチャを
収穫してきました。
夏の初めにとれるものより、味がのっていて、
色が薄いものは保存性が高く、春先まで保存できます。

種から育てたスクナカボチャもたくさんとれました。
今年は、かぼちゃと芋だけでもで冬を越せそうです(笑)。


最近、カボチャを炊く係りは、もっぱらつれあい。

料理はなんでも得意なんですが、
なぜかカボチャの煮物には手を出さなかったのですが・・・
水加減や味付けなど、だいぶ上手になりました。
  

賀茂なすはわたしの担当。
やっぱり、油で焼いて味噌をつける「田楽」がおいしい。


夏バテによい、という白レイシもとれはじめました。
グリーンの濃いのは苦味が強いのですが、
白レイシは、それほど苦くありません。
  
薄切りにして、水にさらして、いためて、
奥美濃古地鶏の卵2個でとじてみました。

感想は、「ほろ苦くてつくしの卵とじみたい」(とつれあい)。
おいしいです。

今年、初物の「桜島大根の間引き菜」。
昨年は虫くいだらけだったのですが、
今年は、場所を変えたからか、管理が良いのか、
すくすく育って、やわらかくておいしそうです。
  

半年振りの青菜。
あっという間に、ふたりで一鉢、食べてしまいました。

みどりのビタミンが体中に染みわたる、気分です。


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