天下国家を論じる社説が多いなかで、
「終戦記念日特集」の「戦争体験と向き合う」という野上照代さんと城戸久枝さんの
見開き二ページに及ぶ対談とともに、読み応えのあるものでした。
【社説】人間中心主義に帰れ 終戦記念日に考える 中日新聞 2008年8月15日 歴史は自らは語りません。歴史から学ぼうとする者に語りかけるようです。六十三回目の終戦記念日は辛(つら)い歴史と向き合うべき日でもあります。 三百万人を超える戦死者と焦土を残して終わった昭和日本の破局は一九三一(昭和六)年の満州事変に始まったとされます。 それまで軍縮と国際協調路線に賛同し、軍部の横暴を批判する良識を持っていた新聞を中心とした言論界も中国・柳条湖での南満州鉄道爆破で一変しました。 資本主義の暴走と破局 爆破が日本軍部の謀略であることは、現地に特派された記者がすぐに気づくほど軍の関与と宣伝が歴然としていましたが、「日本の正当防衛」「権益擁護は厳粛」で走りだした新聞は論調を変えることはありませんでした。 言論も世論も事実に目をつぶり上海事変、日中戦争、太平洋戦争と進むにつれて神がかり。破滅に至る十五年戦争の熱狂はどこから来たのでしょうか。 略奪や侵略が当たり前だった帝国主義の時代だったこともあるでしょう。欧米列強への恐怖と不安と長年の鬱積(うっせき)が一気に噴出したとの分析もあります。軍のマスコミ工作もあったでしょうが、この時代に垂れこめていたのは世界大恐慌の暗雲でした。 一九二九年十月のウォール街の株暴落に端を発した大恐慌は、ドイツでナチス、イタリアでファシズムの政権を生み、日本では満州国建国の夢となりました。国家改造をめざした二・二六事件の青年将校決起には農山村の疲弊と貧困があったとされ、満州を経済圏にした日本は欧米に先駆けて国内総生産を恐慌前水準に戻します。第二次大戦のもう一つの側面が資本主義の暴走と破局でした。 自由とヒューマニズム 資本主義の暴走という点で、グローバル経済の行方が気がかりです。最も効率の良いものが勝ち残る地球規模の経済システムは、ひと握りの勝者と多くの敗者を生み、効率追求のあまり低賃金、過激労働、雇用不安を世界に広げ、多くの国で社会保障の削減となりました。石油などの資源争奪と食料まで投機対象とする貪欲(どんよく)と無節操は帝国主義時代さながらです。 米国を舞台にジャーナリスト活動をする堤未果さんのベストセラー「貧困大国アメリカ」の衝撃は、貧困ゆえに教育や就職の機会を奪われ、軍にリクルートされる高校、短大、大学生たちの詳細リポートです。テロとの戦いの大義を問う前に、若者たちにとってイラク戦争が生活のための戦いであることが紹介されています。 イラク戦争に参加した日本人青年が語っています。「人間らしく生きのびるための生存権を失った時、九条の精神より目の前のパンに手が伸びるのは人間として当たり前」。貧困と生活の脅(おび)えに平和の理念も吹き飛ぶ。日本のフリーター論客の「希望は戦争」がすでに現実の世界でした。 資本主義暴走期の大正から昭和初期にかけ東洋経済新報の石橋湛山は「一切を棄(す)つるの覚悟」や「大日本主義の幻想」「鮮人暴動に対する理解」の社説で、人間の健全さを示しました。領土と植民地の解放、民族の独立自治、自由貿易体制こそ世界の進むべき道だと説いた時代を超えた論説です。 湛山のこの自由主義とヒューマニズムこそ戦後日本の立脚点だったはずです。人間のための社会経済システムや社会保障体制が一刻も早く再構築されなければなりません。人間を雇用調整の部品や在庫調整の商品並みに扱ったのでは資本主義の敗北で、未来があるとも思えないのです。 本紙のことしの終戦記念日特集は、映画「母べえ」の原作者野上照代さんと大宅賞受賞のフリーライター城戸久枝さんの対談で、戦争体験の風化もテーマです。 城戸さんの受賞作「あの戦争から遠く離れて」は、取材に十年、執筆に一年半かけた力作。残留孤児だった父親の数奇な運命を訪ね歩く旅は、自分自身の存在の軌跡をたどる旅でした。 父親が育った中国の寒村の川岸に立ったとき「父親の娘として生まれたかけがえのない人生の不思議」や「ここに存在するという奇跡的な偶然」などの感覚が頂点に達したと書かれています。 かけがえなき人生だが… 城戸さんの発見と感動はそのまま、われわれの一人一人が戦争と地続きの歴史のなかで、かけがえのない人生を生きていることも知らせてくれます。 一人一人が人間として大切にされなければならないのは無論ですが、あの戦争では多くの若者が日本の未来を信じることで不条理の死の慰めとしました。他人と歴史に無関心で、それすら忘れてしまったら戦後の日本が不毛になってしまいます。 (2008.8.15 中日新聞) |
城戸久枝さん、朴裕河(パク・ユハ)さん、梯久美子さんの3人の女性が、
それぞれの視点からで「戦争」を論じていて、読み応えがあります。
現代女性の8.15
■63回目の「終戦記念日」。
いま「あの戦争」と向き合う戦後世代の思いとは?■
最後に、ぜひ紹介したい本があります。
昨年10月に亡くなった若桑みどりさんが2005年に書かれた、
『戦争とジェンダー』(若桑みどり/大月書店/2005) 。
『戦争とジェンダー―戦争を起こす男性同盟と平和を創るジェンダー理論』。 序論 理論的前提 家父長制社会とジェンダー 第一章 ひとはなぜ戦うか-若者を死に赴かせる「男らしさ」の文化的構築 第二章 戦争のない時代があった 第三章 「男らしさ」と戦争システム 第四章 国家、それが戦争を起こす 第五章 女性差別と戦争 終章 翌朝に向かって |
序論 理論的前提--家父長制社会とジェンダー この本は、現代を切迫した危機に瀕した時代とうけとり、その最大の危機こそは「戦争」であり、「戦争」を生み出すものは「家父長制的男性支配型国家」であることを明らかにする目的で書かれる。 戦争を憎み、平和を愛する人びとは数限りなくいて、そのなかのひとりがこの本の読者になってくれる人だと思う。しかし、そのような読者の大部分が、戦争を生み出すものが、家父長制国家であるという私の論の主旨には、とまどうか、違和感を抱くかするであろう。しかし、すでにジェンダー理論を学んだ人びとには、この結論は意外でもなく、驚きでもないこと、むしろあたりまえのことであろう。 私と問題意識を共有するフェミニスト思想家の大越愛子は、1960年代のヴェトナム反戦運動を経た第二期フェミニズムにおいて、「戦争は性差別、性暴力を主柱とする男根中心的な家父長制体制を維持する暴力装置として再定義された」と述べている。この言い方は、とても正しいにもかかわらず、ジェンダー理論を知らない人にはわかりにくいし唐突かもしれない。ジェンダーのものの見方を分かりやすく説明することも、本書の重要な目的である。ジェンダー理論は既にあまりにも堆積してしまったので、少し難しくなっているからである。・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ いうなれば、古来、戦争を語ってきたのは「戦争を遂行する側のジェンダー」である男性権威者によってだったのが、歴史上はじめて、どちらかといえば戦争を起こす男性に奉仕したり、男性が起こした戦争によって被害を受けたりしてきた女性たちによって再定義された、ということになる。また、その結果として、一口に言ってしまえば、戦争は「男たちが自分を中心に組織している体制を維持するための暴力装置だ」ということになる。 もっとひらたくいえば、戦争とはマッチョな男たちが利益を独占し、自分たち以外の人間にはうまい汁を吸わせない為に、組織的な暴力を振るって自分が強いことを見せ、皆を恐怖で支配しようとするシステムだということである。 それでも、多くの読者はおそらく納得しないだろう。いったい、ここで言われている男根主義(ファロセントリズム)とか、家父長制とか、そもそもフェミニズムとかジェンダーとか、そういうキーワード自体に馴染みがなく、違和感のある読者もいるはずである。また、戦争とはある場合には「正義」でもあるから、そういうまとめ方は一方的だという読者もいるだろう。もっとも多い反論は、戦争はヤクザの暴力ではない、国家が合法的に行う集団的暴力なのだろか、したがって「正当」なのだ、という意見であろう。 実は、それこそが問題なのだ、ということをこの本は指摘する。今たとえ違和感があっても、反論があっても、あなたは戦争がこの世界でもっともむごたらしい集団的な殺しあいであり、非戦闘員を含めての集団的殺人であるということは認めているだろう。そのことをなんとか正当化するために、古代から現在まで無数の男たちによって戦争論が書かれてきたし、また多くの戦争反対論も書かれてきた。しかし、戦争は今日も終わらないのである。 これほどに賢明で、これほどに進歩してきた人間が、どうしてこの愚行をやめることをできないのか。答はある意味で簡単である。戦争をしたい人間たちがこの世を支配しているからだ。そしてそれは疑いもなく「ジェンダーとしての男性」である。むろん、彼らを定義するのには、「ジェンダー」だけでは十分ではない。これほどのことを遂行するからには、彼らは「権力をもった支配階級」であることが必要である。時代によってさまざまな要素がそこには加わるが、まずここではそれを確認しておきたい。 戦争を遂行する側の男性の戦争論は、それを肯定し、また維持してきた。そのことは当然である。またいっぽう、男性が書いた反戦論が無力だったことはもうはっきりしている。なぜなら戦争は止まらなかったからだ。それなら、今度は、歴史的に戦争を遂行してこなかったほうのジェンダーである女性たちがかわって戦争論を語ろうではないか。それを読もうではないか。それが本書の目的である。・・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (『戦争とジェンダー』序論P5~12より引用) |
終章 翌朝に向かって ・・・・・・・・・(略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・第三、それは、すべての人が性別、人種に関わりなく尊厳が保障されることである。彼女はアメリカが軍事的な安全保障を最優先させていることを痛撃する。リアドンが、アメリカ人であることを考えると、この文章は大きな意味をもってくる。アメリカは日本を含めて、世界の軍事的安全保障を牛耳っているからだ。 「国家はどのような時に軍事で対応するのだろうか。国家レベルではどのような対応がなされているのだろうか」。 「防衛の手段をもっと非暴力的なものにし、人間の安全保障を実現するにはどのような手段をとればよいのか。女性のアプローチと男性のアプローチは違うのか、この国の女性たちは平和と安全のためにどのような取り組みをしているのか。この社会で非暴力による防衛を実現しようとするときになすべきことは何か。社会制度と国家の仕組み、また文化の面でされるべき変革は何か。 他の国家との関係が敵対的であったとしたら、それを相互理解に基づいた友好的な関係に変革するためにはどのようなやり方をとればよいか。人間の安全保障が(国家の安全保障ではなく)実現されるような公正なグローバルシステムに移行するために必要な変革とはなにか」。「私たちがするべきことは何か。あなた自身にできることは何か。人間の安全保障にむかって地球に住む私たちはどのように互いに助けあうことができるか。」 これらはすべて彼女の問いかけである。この問いかけに対して、われわれは、日本に住むことの稀な重要性を自覚するのだ。日本はまだアメリカのように他国をあからさまに攻撃してはいない。われわれのなすべきことはわかっている。アメリカ人のリアドンが切望している国家の憲法をすでにもっているのだから。われわれは、戦争を放棄するというこの憲法を守ることによって、彼女の切実な問いかけに答えることができる。だがそれは今危機に瀕している。われわれは、世界に先んじて、世界の理想となるべき平和を掲げた。それを守り、それをグローバルなシステムに移行させるようにしなければならない。 結びで、リアドンは、答えは市民運動にあるといっている。より多くの市民が戦争を防ぐ運動に参加すること、安全保障を「脱軍事化」すること、つまり非暴力と人間の生命を守る安全保障へと概念変革すること、その具体的な提案をすることを求めている。そのためには、さまざまな運動にかかわっている女性たちは、長期的な視野を持ち、国境を越えて助けあえるようになることが大事だとリアドンはいう。 ここでリアドンが提案していることは、環境保護、人権問題、性暴力、人種差別撤廃、児童福祉、平和擁護、女性の主流化、それらすべての運動、一見ばらばらで行われているすべてのより善き社会への努力は、すべて既存の権力支配的、男性中心的、暴力主義的、利益優先的な特徴を備えた家父長制的価値観を壊し、あらたな人間中心の協調的な生活のパラダイムを作り出すという意味において、フェミニズムの求めるものと完全に結びつき、共同の連帯運動となるのであると。 ここでリアドンの最後の呼びかけを、心からの賛同をもって書いておきたい。「最後に、あらゆる平和運動は、家父長制と軍事主義をこえるために、ジェンダーの平等性と非暴力の原則を受け入れ、実践しなければならない。『人間の安全保障』にむけて私たち自身の考え方と、キャンペーンのありかたを変えていくことで、私たちは軍備による安全保障システム、そしてそのシステムを操る家父長制をも変えていく原動力になることができるだろう」。 私にはこれ以上にいうべきことはない。私は、彼女の方法に賛成する。国家は、21世紀のあいだは解消されえないだろう。ベンミヤンが戦争、殺戮、全体主義の根源悪として、平和のためには廃棄されなければならないといった国家はとうぶん廃棄できないだろう。しかし、国家を越えた女性の市民運動をつくることはできる。最低4000年は続いた家父長制は、女性が連帯することで、国家よりも早く脱構築することができるかもしれない。ここに流血はない。ここに年表に載るような革命はない。革命は暴力的であり、それ自体「家父長制的」だ。毎日の微細な、持続的な、あらゆる局面での、一歩ずつのあきらめない努力があるだけである。それがあるとき、すべてを変える沸点に達するだろう。 (『戦争とジェンダー』終章P234~236より引用) |
わたしは、「翌朝に向かって」、わたしの一歩を踏み出そうと思うのです。
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