「無党派・市民派自治体議員と市民のネットワーク(自治ネット)」主催の公開講座。
『市民自治・・・我々はどう考え どう行動するのか』をテーマに、
前我孫子市長の福嶋浩彦さんの講演会でした。
我孫子市には、2年前、自治ネットの視察についていって、
市長だった福嶋さんのお話を聴いたので、とっても楽しみにしていました。
福嶋さんの経験と実践に裏打ちされた「市民自治」のお話は、
「直接民主制が民主主義の原点」
「首長も議員も、主権者である市民とつながる重要性」を説き、
最後に、どうしたもいいたい、と締めた言葉は
「自分たちの町のことは、自分たちで決める」。
遠くで見てたほうがよいと思える政治家が多い中で、
福島さんは、近くで見てもぶれない数すくない人で(笑)、
お話は期待通りのものでした。
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関連で(なんで関連なのかは一言で言いにくいのですが・笑) 、
紹介したいと下書きしておいた、以下の記事を続けます。
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3月末の東大でのアントニオ・ネグリの講演会シンポが
ネグリの来日が中止になって残念に思っていたら、
『現代思想』5月号が「特集-アントニオ・ネグリ」でした。
ネグリ氏講演「新たなるコモンウェルスを求めて」
/枝垂れ桜をたんのう&ふたりでブランチ (3/31)
『現代思想』5月号「特集-アントニオ・ネグリ」
『未来派左翼(上) グローバル民主主義の可能性をさぐる』と、
『さらば、近代民主主義 政治概念のポスト近代革命』も、
難解だけどおもしろかったので、まだ読んでない本も読んでみたいと、
『マルチチュード』(上・下)も読みました。
『マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義』
(アントニオ・ネグリ, マイケル・ハート (著)/NHK出版/2005)
解説 愛が<共>であらんことを--<帝国>からマルチチュードへ 水島一憲
・・・・・・・・・マルチチュードとは、多数多様性と共通性の間の連続性にもとづくもの。常に多数多様でありながらも共同で活動できるもの、つまりは、自律性と共同性の連結、内的な諸差異による <共>の創出を名指すものと言えるだろう。<共>とは「コモン」の訳語である。これは「共同のもの」「共有のもの」等を意味する言葉であるが、本書ではそれらすべての意味をこめて<共>と訳すことにした。<共>はマルチチュードや民主主義と並ぶこの本のキーワードのひとつである。より正確には、<共>はマルチチュードが分かち合い、渡し合うパスワードのひとつであると言い直すべきであるかもしれない。その意味でマルチチュードは、<共>を阻害・解体したり、それを私的に領有したりする諸力に対抗する存在であり、さまざまの差異からなる<共>をその多様性のままに肯定する存在なのである。・・・・・・・ (『マルチチュード』(下)P269)
既に刊行されている『帝国』は分厚くて難解な本なので、
前に図書館で借りて、流し読みしただけ。
このふたつの本の共著者のマイケル・ハート氏については、
どんな人かぜんぜん知らなかったのだけど、
6月に来日されていたらしい。
「茂木健一郎クオリア日記」マルチチュード
18日の毎日新聞に、茂木健一郎さんとの対談が載っていたので切り抜きました。
わたしは、茂木さんがテレビに登場する前からのファンです(笑)。
「ネットワークこそ生の基盤」「脱中心化された意思決定過程」など、
刺激的な言葉が並んでいます。
対談:マイケル・ハート氏・茂木健一郎氏 <帝国>と脳科学の出合い 思想家で米・デューク大准教授のマイケル・ハート氏が、6月に初来日した。世界的な話題となった『<帝国>』『マルチチュード』の共著者として知られるハート氏に、脳科学者の茂木健一郎氏と対談してもらった。脳科学をたとえにハート氏らの<帝国>論を説明する刺激的な展開で、話は日本の貧困層と彼らが秘める社会変革への可能性にまで広がった。【構成・鈴木英生、写真・梅田麻衣子】 ◇ネットワークこそ生の基盤だ--ハート氏 ◇脳は単独で体を制御できない--茂木氏 茂木 ハートさんが<帝国>と呼ぶ世界秩序は、もはや経済的にも政治的にも単一ではなく、ネットワーク型の権力形態とでも呼ぶべきものです。 ハート <帝国>に限らず、ネットワークこそが生の基盤です。茂木さんのご専門と絡めて論じるために、15~16世紀の政治哲学を振り返りましょう。当時の論者は、政体を人間の身体の比喩(ひゆ)で考えた。身体には決定を下す脳と行動に移す腕がある。政体で脳にあたるのが王で、腕は軍隊です。今の科学の展開を踏まえれば、「社会は身体同様に機能している」と、改めて主張するのも面白そうです。 茂木 身体は、脳単独ではほぼ制御できないと分かっています。手を上げ下げする程度の簡単な動作すら、非常に複雑な過程を経ている。脳のネットワークは神経線維をも含んで体中に張り巡らされているのです。 ハート 脳が何事かを単独で決定しないなら、身体はその動きなどをどう決めているのでしょう? これは、政治的にも本質的な問いです。政治では普通、大統領とか議会といった、単独の人間や組織体が決定を下すとされますから。 茂木 現在の神経科学では、人体は動作を決めるとき、その動作に関する選択肢が意識にのぼる1秒くらい前から、動作を準備すると分かっています。意識や意図を管理する脳の領野には、何か一つを選ぶか、何もしないかの選択しかありません。 ハート 身体では、脱中心化された意思決定の存在が証明されたも同然なのですね。 茂木 ハートさんは、政治の次元でも脱中心化された意思決定過程をお考えのようです。 ハート それ抜きの民主主義に意味はないとさえ思いますよ。民主主義とは、私たち自身が集団で自己統治をすることでしょう。そのメカニズムは、まだ明確な形をとっていませんが。 茂木 ところで、オバマ氏が民主党の大統領候補になったことを、どう思われますか? ハート いろいろな面でとても前向きに見ています。オバマ氏は、自らが体現する人種面での調和、そしてまた、「希望」と「変革」という言葉で米国の政治を大きく変えるチャンスを持っています。 茂木 古代ローマでは皇帝がさまざまな地域から選ばれ、人種差別はほとんどなかったとか。米国という「帝国」は、この方向に向かっているのでは? ハート う~ん、米国に古代ローマのモデルは当てはまらないかもしれません。米国は2001年以降、他の主要国や大企業を従属させて単一の中心になろうとした。しかし、イラク戦争や経済政策の失敗は、米国に世界秩序を指導する力がないことを示した。日本も含めた他の主要な国民国家は、できれば米国の単独行動を認めたくない。 茂木 現代世界、つまり<帝国>の主要なプレーヤーは誰でしょう。米国、EU、G8、反G8の活動家(笑い)、国連などいろいろと挙げられます。 ハート 古代ローマ帝国は、三つの政治形態を組み合わせていたと考えられます。君主制、貴族制、民主制です。<帝国>は、これと似た異なる複数の権力で構成されています。 ペンタゴンの軍事支配は、君主的なあり方でしょう。IMFなどの金融センターもそう。米国以外の主要な国民国家や大企業が貴族にあたり、マスコミやNGOが人民の代表だとされる。そして米国は、他の国々との交渉を抜きに、勝手な行動ができません。王は貴族との交渉が必要で、貴族たちも王と交渉しなければならない。 茂木 ところで日本では、グローバル化が雇用の不安定化の原因などとしてだけ、理解されがちです。ハートさんは、違う見方をされています。 ハート トニ(共著者の政治哲学者、アントニオ・ネグリ)も私も、いわゆる反グローバリゼーション運動を担う人々の多くも、グローバル化そのものには反対しません。今日のグローバル化にある特定の形態に反対なんです。私たちが見いだしたいのは、別の形のグローバル化、つまり人々の技術が現状とは違う形で生きる関係なのです。 茂木 『老子』には、自己完結型の国(村)が出てきます。隣村の鶏や犬の鳴き声が聞こえても、お互いに行き来はしない。一部の反グローバル化の主張も、それぞれの国が自己完結すべきだとしています。これはハートさんの代替案と違う。 ハート もちろん。それは、そもそも実現不可能でしょう。可能だとしても、嫌ですね。 茂木 日本では最近、ワーキングプアの問題が取りざたされ、80年も前に共産主義者の作家が書いた『蟹(かに)工船』という小説が、何十万部も売れています。 ハート へえ、そうですか! 茂木 日本の若者たちは、自分たちの窮状が自己責任ではなく、資本主義の問題だととらえるようになってきました。 ハート 労働の変容で、人々は新たな搾取や苦しみに直面しています。最近は、秋葉原で殺人事件さえ起きましたね。しかし私は、苦しみを抱えるか、国家や企業に面倒をみてもらい、管理されるかの二者択一に与(くみ)したくない。現在の生産は情報や知識、文化交流に基づきます。だから、若い世代のネットワークやコミュニケーションの技術を、豊かさと富を生む形で生かせないかと考えています。 ◇若者に資本主義を超す潜在力--ハート氏 ◇愛をもって政治と向き合おう--茂木氏 ハート 日本の若者たちは、安定的な職を得にくいと同時に、文化的創造性を力強く展開し、全世界に輸出しています。ゲームやマンガが好例でしょう。印象的なのは、ファッションやスタイル、その他の文化を革新していく彼らの戦略です。「現実に生産性と創造性があふれているから、万事順調」と言いたいのではない。不安定な状況に置かれた人々は、単に被害者ではなく、力強い創造力を発揮する存在でもあると強調したいのです。 茂木 東京の中野では、膨大なマンガやキャラクターグッズを売っています。あそこも下町で、お金持ちの街ではない。 ハート 今の資本主義では、文化が中心的な役割を占めています。巨大企業は、文化の創造性に寄生して行動する。資本主義は自らの利益のため、人々にますます自律性を与えなければならない。かつては、資本が工場労働者に生産の手段を提供しました。しかし今は、ネットワークを通した文化生産や知的生産の機会が増えています。マルクス=エンゲルスの『共産党宣言』に「資本主義は自らの墓掘り人を作りだす」とのくだりがある。資本主義は、自らに代わる新たな社会を作る潜在的な力を生み出しているんです。 茂木 最後は「愛」について。愛はパートナーや親子関係を超えた感情ですよね。 ハート 愛とは政治です。私とトニはその働きを理解しようと奮闘中です。私たちは『<帝国>』と『マルチチュード』に次ぐ、3冊目の理論書を完成させつつあります。そこで愛についても議論します。 茂木 日本では、多くの人が政治に対して懐疑的です。しかし、それでは問題に向き合うヒントが得られない。私たちは、ハートさんがおっしゃるように、愛をもって政治を抱擁しなければならないのでは? ハート 愛は、政治的な文脈で機能しています。キリスト教やユダヤ教の伝統では、愛は家族やカップルだけでなく、共同体を作る政治的な作業です。こう考えると、エロス(性愛)とアガペ(神の愛、隣人愛)の区分も否定されます。政治的な文脈で機能する愛は、もっと違う、何かでなければなりませんね。 ============== ■人物略歴 ◇もぎ・けんいちろう 脳科学者。1962年生まれ。東大大学院修了。理学博士。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー、東工大連携教授(脳科学、認知科学)。『脳と仮想』で小林秀雄賞。他に『脳とクオリア』『クオリア降臨』『脳の中の人生』『ひらめき脳』など。 ============== ■人物略歴 ◇Michael Hardt 思想家、比較文学者。1960年生まれ。ワシントン大博士号取得。『<帝国>』『マルチチュード』『ディオニュソスの労働』は、今年3月に来日を断念したイタリアの政治哲学者、アントニオ・ネグリ氏との共著。他の邦訳書に『ドゥルーズの哲学』。 (2008年8月18日 毎日新聞夕刊) |
なんてステキで刺激的なことばでしょう。
『マルチチュード』(下)は、以下の
「マルチチュードの民主主義」の章で終わっています。
・・・・・グローバル民主主義を求める新しい動きは各人の特異性を基本的な組織原理として尊重するだけでなく、それを自己変容と異種混淆化、異種交配のプロセスとして位置づける。マルチチュードの多数多様とは単に違うもので「ある」だけでなく、違うものに「なる」ことも意味する。今の自分とは違うものに生成変化せよ! これらの特異性が<共>にもとづいて行動し、新しい種族が形成される--すなわちマルチチュードによって、政治的に強調して働く主体性が生み出されるのだ。マルチチュードが下す主要な決断とは実際、新しい種族、というより新しい人類を創造するための決断なのである。愛を政治的なものととらえるとき、この新しい人類の創造は究極的な愛の行為にほかならない。(『マルチチュード』(下)P261)・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私たちの目にはしかし、民主主義への欲望、<共>の生産、そしてそれらを表現する反逆のふるまいをグローバルな主権システムから決定的に分かつ裂け目があることがはっきり見てとれる。これまで長い間、暴力と矛盾、グローバルな内戦、<帝国>的生権力の腐敗、そして生政治的マルチチュードの際限のない苦役に彩られた季節が続いてきた。だがそのあとに必ずや、異議申立てと政策提言の途方もない蓄積がひとつの力強い出来事、ラディカルな蜂起の要求へと変容する時がやってくるに違いない。私たちは今日すでに、もはやすでに死んでしまった現在と、すでにもう生きている未来との間で時間が引き裂かれていること、そうした現在と未来の間でパックリ口を開けた深い淵が日に日に巨大になりつつあることを目のあたりにしている。やがて私たちをそうした生きた未来に向けて矢のように放ってくれる出来事が起こるに違いない。それこそが真に政治的な愛の行動となるのである。(『マルチチュード』(下)P264)
『マルチチュード』を読んでわたしは、
わたしの考える「ネットワーク型の市民社会」や
「市民自治(わたしのことは、わたしが決める)」とよく似ているなと思っていたのです。
「市民社会のNPOやNGO」「自治の現場の実践」は、
すでに代表制の近代民主主義を超えている、
と思います。その先はあるものは・・・・
3冊目の共著もぜひ読んでみたいですね。
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