日本語を母国語としない中国人作家として初めて芥川賞を受賞したと知って、
すぐに買って読みました。
最初に読んだ時は、登場人物の名前が覚えにくくて読みにくかったのですが、
書評などを目にして、彼女の背景ともに、じっくりと読み返してみたら、
「越境」した人しか書けない視点や経験が盛り込まれ、
天安門事件、文化大革命などの歴史の時代の背景ともに、
興味深く新鮮な感動を味わいました。
前作の『ワンちゃん』は、カルコスで立ち読みしたので、
『時が滲む朝』はちゃんと買って読みました。
読売新聞に12日から15日まで辻原登さんとの「日本語で書くということ」という
往復書簡が連載されていて、こちらも読み応えがありました。
毎日新聞のロングインタビューとともに、
新聞紙面の書評を紹介します。
毎日新聞 著者インタビュー
第139回芥川賞受賞作 『時の滲む朝』楊逸さん
日本語を母語としない中国人作家として、初めて芥川賞を受賞したことでも話題となった『時の滲む朝』。楊逸さんが日本語で小説を書き始めたのはなぜなのか? 自らも天安門事件の衝撃を受け、その後の中国の変貌を目の当たりにしているという楊さんが『時の滲む朝』で描こうとしたものとは?
以下、紹介しようと思って下書きしといた、毎日新聞ばかりです。
毎日新聞、ガンバーレー、って感じですね(笑)。
今週の本棚:張競・評 『時が滲む朝』=楊逸・著 ◇『時が滲(にじ)む朝』(文藝春秋・1300円) ◇文学越境の難しさを考えさせる話題作 移動は二十一世紀の人類の生き方を大きく変えようとしている。ビジネス、就職、教育、婚姻、理由はさまざまだが、生まれ育った場所から離れて生きることはいまや珍しくなくなった。幼年期に移住を経験した人たちにとって、母語の概念さえ自明のものではなくなっている。言語の越境はわれわれの想像を超え加速度的に進んでいる。本書もそのような時代の奔流のなかで生まれたものであろう。 梁浩遠と謝志強は高校時代からの親友で、中国西北部の農村からともに地元の大学に進学した。一九八〇年代の末、民主化を求める運動に加わり、若手教授の甘凌洲に率いられ、北京までデモに行く。天安門事件の後、二人は大学から退学処分を受け、甘凌洲らは海外に亡命した。梁は日本人残留孤児の二世と結婚して来日したが、海外の民主化運動の実情を知るにつれ、徐々に幻滅していく。 日本語を母語としない作家が書いた作品にしてはなかなかの出来映えだ。前作に比べて、言語運用能力が洗練されている。文体に対し細心の注意が払われていることは、個々の言葉の使い方からも窺(うかが)える。成人してから日本語を覚えた者にとって、小説を書くにはドン・キホーテのような蛮勇と語学の天分が必要だ。そのハードルを軽々と乗り越えてしまう強靱(きょうじん)な意志には脱帽する。 優れた小説であるかどうかは、オリジナリティがあるかどうかにかかる。読者はつねに魂が揺さぶられるような、斬新な言語体験を求めている。その期待の水平に近いほど、共鳴が得られやすい。 しかし、文学は文体だけで成り立つものではない。器に盛られる中味のほうがより重要である。物語の構成や展開の仕方、登場人物の喜怒哀楽の描写も作品の出来映えを大きく左右する。 小説の文体と違って、作品の内容構想において書き手は言語の制約をあまり受けない。日本語を母語とする作家でも、そうでない作家でもほぼ平等に競える領域である。 この小説を読むとき、なぜか前作の『ワンちゃん』が脳裏を去来する。『ワンちゃん』は題材選択の着眼がよい上、登場人物はよく描けている。言語表現においてやや気になるところがあるとはいえ、ワンちゃんはまるでどこかで会ったことがある人のように、生き生きとしている。彼女の言うこと、することには何も不自然さは感じさせない。いい小説は架空のことを実際に起きたことのように錯覚させることができる。『ワンちゃん』はその点では成功している。 この作品も物語の構成はよく推敲(すいこう)されている。しかし、ストーリーに新味がないのが残念である。とくに天安門事件が起きた後の展開にはもうひと工夫がほしい。生活体験の欠如を想像力で補うには、布置の周到さが求められる。主人公の梁浩遠が来日してから東京の民主化活動に参加した、という部分の叙述は物語の全体の流れから浮いている。問題は事実のままに描いたかどうかではない。距離感をどのように把握し、表現するかである。天安門事件を描くならば、青年たちにとって、この歴史的な出来事がなぜ魂の洪水であったかについて描かなければならない。「民主化の追求」という表面的なことを描くだけでは、浅薄感を免れない。それに比べて、梁と謝志強や甘凌洲との再会を描いた第十章のほうが遙(はる)かにリアリティがある。 作家は生に対する深い洞察力を持たないと、よい作品を書けない。小説は言葉の芸術であって、思想信仰を表現する道具ではない。書き手の信条や価値観の如何(いかん)にかかわらず、生を描けたかどうかが作品の善し悪(あ)しを判断する唯一の基準である。 アメリカは自由で豊かな理想国家である、と思いこんでいる梁浩遠のナイーブさは、ナイーブさとして書けていないところに遺憾が残る。アメリカの中国人民主化運動家たちがみな清廉潔白で、高邁(こうまい)な理想のために一致団結して戦っている、というくだりも事実と掛け離れている。細部のあしらい方の問題とはいえ、あえて現実と正反対に設定する根拠は見あたらない。 何やら手厳しい批評になってしまったようだが、わたしは何もこの作品を貶(けな)すつもりはない。母語でない言葉を使って小説を書くことにはむしろ敬意を抱いている。ただ、文体に気を取られすぎたために、もっと大事なことが忘却されたのではないかと危惧(きぐ)しているだけである。 わたしがこの小説よりも、『ワンちゃん』のほうに興味を持つのは、後者における言語規範からの乖離(かいり)である。かりに言語表現の「劣化」が文化適応の一局面であるならば、暴力的な「矯正」よりも、その理由を吟味し、クレオール化を包容することが大事である。そのことによって日本語に秘められている豊かな創造力を見いだせるかもしれない。言語の「純粋さ」に近付くことは果たして越境する作家にとって必要なのか、それとも単に凡庸さへの妥協しか意味しないのか。そのことについて今後、じっくり考えなければならないであろう。 (毎日新聞 2008年7月27日) |
芥川賞:中国人初の楊さん「日本に溶け込んだような感覚」 中国人として初めて芥川賞を受賞した楊逸さん=東京・丸の内の東京会館で2008年7月15日午後8時32分、長谷川直亮撮影 日本で生まれ育った在日韓国・朝鮮人以外の外国人として初めて芥川賞に決まった楊逸(ヤンイー)さん。会見場の東京・丸の内の東京会館に紺色のワンピース、白のハイヒールで現れた。 楊さんは「一人の外国人として、日本語で小説を書き、しかもこんなふうに評価してくださったことを感謝しています。すごく幸せ者です。中国の人たちにも、もちろん読んでもらいたい」と流ちょうな日本語で語った。「受賞の知らせに、日本に溶け込んだような感覚を持ちました。素晴らしい賞を裏切らないように頑張りたい」と抱負を述べた。 作中で描かれている天安門事件については「自分が何のために生きているのか、国家と個人の関係などもこの事件がなければ考えなかった」と語った。 選考委員の高樹のぶ子さんは「国境を越えなければ書けない。日本人と比べ、主人公の激動の20年が新鮮に感じられた。日本語で書かれた個人史文学として圧倒的な力と質量があった」と述べた。 楊さんは日本人男性と離婚後、都内で高2の長男と中1の長女の3人暮らし。学校や企業などで中国語講師をして生計を立てている。 一方、直木賞の井上荒野さんは作家、故・井上光晴さんの長女。グレーのジャケットに黒のパンツ姿で「書くのをやめないでよかった」と話した。 作品は父の故郷、長崎県西海市崎戸町をモデルにした九州の島が舞台。夫のいる養護教諭が、島にやって来た同僚の教諭に恋をして揺れる心をつづる恋愛小説。父光晴さんは受賞をどう思うか、という質問に対して、井上さんは「とても困りつつ、狂ったように喜んだろう」と話した。 選考委員の平岩弓枝さんは「決定は満票です。人物が描けていて、全般に大人のきちんとしたプロの文体。腕も感性も人を見る目もしっかりしている」と称賛した。 【略歴】井上荒野さん(いのうえ・あれの) 東京都生まれ。成蹊大卒。89年「わたしのヌレエフ」でフェミナ賞を受賞してデビュー。01年初に長編恋愛小説「もう切るわ」。04年「潤一」で島清恋愛文学賞。他に「ベーコン」など。東京都三鷹市在住。 【斉藤希史子、内藤麻里子】 (毎日新聞 2008年7月15日) |
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