きのう、山形市の遊学館ホールで山形岳風会山形支部の20周年記念吟詠大会があった。大会の特別企画構成吟「幕末至誠の人吉田松陰」に出吟し、松陰の詩「新潟に宿す」を連吟で4人の吟友と吟じた。この詩は松陰24歳のときに作られたもので、水戸、仙台、会津かた新潟へと遊歴の途上での作である。遊歴とはいうが、武士が自分の藩の外へ出るには、藩の許可がいる。松陰はその許可が下りるのを待ちきれずにこの遊歴に赴いた。脱藩である。これによって松陰は藩籍を剥奪され、武士の身分を失った。
私の本棚の隅に一冊の小冊子がある。吉田松陰『留魂録』である。一節ごとに松陰の原文に付して現代文の訳がある。新聞のコラムにこの本から引用した言葉が載っていたので書店から購入したものだ。その言葉が何であったか、気になったがどうにも思い出せない。この小文は、老中間部暗殺を計画したしたことを自白し、刑死が明日にもあるかも知れないと思った松陰が、2日間で志士たちに書き残した遺書である。
松陰はこの小文のなかで、農事の四季について解いている。「春に種を蒔き、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬に貯蔵する。人生にもこれと同じ循環がある。私は30歳だが、すでに四季は備わっている。花を咲かせ、実をつけている。私のささやかな真心を憐れみ、受け継いでやろうという人がいるなら、それは蒔かれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。」いわば、植物の種が何倍にもなって増えていくように、松陰の考えを受け継いでいくことを弟子たちに説いたのである。
松陰はこの「留魂録」を2部清書し、一通は亡骸を受け取りにきたものへ、もう一通は牢屋で親しくなった牢名主に託して、これを肌身離さず持って、出牢してから長州藩のもの渡して欲しいと頼んだ。今日、この『留魂録』を見ることができるのは、島流しになったこの牢名主が持っていた一通が藩に渡ったためである。何故30歳の若さで、松陰は死を覚悟するような過激な行動に走ったのか。それほどに、時代が緊迫した状態であったことを知らなければ、到底松陰の心情を理解することはできないであろう。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂 吉田 松陰