常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

わすれ草

2013年07月24日 | 日記


雨の晴れ間に秘伝豆の苗を植えた。大雨後の畑は雨をたっぷりと含んでうっかりすると泥濘に足をとられそうになる。ついでに山東菜の畝のあとにふだん草の種を蒔く。夏に収穫できる唯一の葉ものだ。そのために別名夏菜ともいう。雨のたびに大きくなって、背丈は50㌢にもなるが、いつまでも柔らかく煮物しても美味しい。

田の土手にヤブカンゾウが咲いていた。カンゾウとヤブカンゾウを見分けるのは花が八重になっていることだという。この花は八重だからヤブカンゾウである。春先に新芽が出たばかりにこれを摘んで食べた。茹でると独特の香りがするが、ほんのりと甘みがあって美味しい。中国ではこれを食べるて憂いが晴れる習俗があって、わすれ草と呼ばれる。

花萱草乙女ためらひ刈ってしまふ 加藤知世子

薮のなかに咲くカンゾウは目立つ花だ。ニッコウキスゲもこの仲間であるからふと高山の花を連想する。田の畦に生える雑草に違いないから刈るべきなのだが、つい残したい気がして手を止める。農家の娘の心のひだがたくみに詠みこまれている。
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渇きの代価

2013年07月23日 | 日記


昨日の大雨で田に引く水路があふれるように水が踊っていた。旱魃でダムの水が干上がったという報道も、この大水で吹き飛ばされたような感である。だが水のありがたみを語る奇談がある。19世紀末のエジプト砂漠での話である。

エジプト砂漠を駱駝に荷を積んだ隊商が通っていた。そこへ突如、砂丘のかげから盗賊団が現われ、キャラバンの隊員は皆殺しにされ、物資も金も全部盗られてしまった。ところが、奇跡的に隊長のハメッドと駱駝飼育係のハッキャという貧しい男の二人だけが奇跡的に助かった。彼らは、その時たまたま、本隊からすこし離れたところを歩いていたからだった。

さて二人は助かったはいいが、駱駝もなく、砂漠のまんなかに放り出されのだから、ここで生きのびるのは並大抵のことではない。水筒に残った水をチビチビと舐めるようにして口を潤していたが、やがてその水も尽きようとしていた。一番近いオアシスまで15キロ、この時点でハメッドは水筒の水を全部飲んでしまった。ハッキャの水筒にはあと一口分だけの水が残っていた。一方は金持ち、一方は貧乏人。ハッキャにとっては、この一口の水は商品であった。ハメッドの腰には500万円のフランス金貨がぶら下がっていた。

ハッキャは水と金貨を交換しようと申し出る。ハメッドは渇きに耐えかねていたからこの申し出を受け入れた。ハッキャはビジネス精神に富んだ人間であったから、500万円と水筒の水を交換する契約書も要求した。ハメッドはこの条件も受け入れ契約書を作って署名した。ハメッドは史上最高の高値というべき一口の水を飲み干すと二人はオアシスを目指して出発した。あと300メートル、彼らはオアシスが望見できる地点にたどりついた。だが、そこで二人は力尽き、脱水症状は極限に達して倒れこみそのまま死んでしまった。

二人の遺体は程なく発見されたが、ここで交された契約書が威力を発揮した。ハッキャの遺族はこの契約書に基づいて金貨を手に入れることができた。こんな奇談の存在をよそに、いまエジプトでは危機的な状況に苛まれている。エジプト軍によるクーデターの混乱は、暫定政権ができたものの、出口もみえないまま今日も続いている。
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頼杏坪

2013年07月23日 | 


天保5年7月23日、頼杏坪が79歳で没した。頼春水、春風、杏坪3人兄弟の一番下の弟で、頼山陽の叔父である。杏坪は儒者であった。兄春水とともに藩学の振興に力を尽くした。兄に代わって藩世子の侍読となり、その学識を遺憾なく発揮した。また学者として知られたばかりでなく、立派な行政官であったことも記憶にとどめなければならない。

杏坪は代官として、三次、江蘇の二郡に勤めた。既に老境に至っていたが、村役人を戒めて賄賂を禁じ、上下一体になって地方の改良に務めることを説いた。曲を罰し、直を賞し、農村に多い山や水の争いを裁き、産業を奨励して馬を飼い、柿栗などを植え、また忠臣義士を祭り、養老会を開き、若者への教育に熱心であった。このような代官の姿に、村民も目覚め村民の生活も一変して豊かになった。

田能村竹田は随筆に杏坪について
「年72神明衰へず、声容ますます壮なり。毎暁寅の時に盥嗽して端座し、辰の時までにその日の公私の事務を計画し、その後に飯してそれより終日出勤し、役務を取りさばき少しも倦むことなし。且つその暇にも詩を作り歌を詠じ、一日十数種に下らざるといふ」と書いた。ここに漢詩一詩を記す。

 江都客裡雑詩 頼杏坪

八百八街宵月明かなり

秋風処処に虫声を売る

貴人は解せず籠間の語

総て是れ西郊風露の情

杏坪は虫の声を借りて、役人が本当の庶民の性情や苦しみを解していないことへの批判を試みた。こんな能吏が、江戸期の日本の支えであった。
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吉田松陰

2013年07月21日 | 詩吟


きのう、山形市の遊学館ホールで山形岳風会山形支部の20周年記念吟詠大会があった。大会の特別企画構成吟「幕末至誠の人吉田松陰」に出吟し、松陰の詩「新潟に宿す」を連吟で4人の吟友と吟じた。この詩は松陰24歳のときに作られたもので、水戸、仙台、会津かた新潟へと遊歴の途上での作である。遊歴とはいうが、武士が自分の藩の外へ出るには、藩の許可がいる。松陰はその許可が下りるのを待ちきれずにこの遊歴に赴いた。脱藩である。これによって松陰は藩籍を剥奪され、武士の身分を失った。

私の本棚の隅に一冊の小冊子がある。吉田松陰『留魂録』である。一節ごとに松陰の原文に付して現代文の訳がある。新聞のコラムにこの本から引用した言葉が載っていたので書店から購入したものだ。その言葉が何であったか、気になったがどうにも思い出せない。この小文は、老中間部暗殺を計画したしたことを自白し、刑死が明日にもあるかも知れないと思った松陰が、2日間で志士たちに書き残した遺書である。

松陰はこの小文のなかで、農事の四季について解いている。「春に種を蒔き、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬に貯蔵する。人生にもこれと同じ循環がある。私は30歳だが、すでに四季は備わっている。花を咲かせ、実をつけている。私のささやかな真心を憐れみ、受け継いでやろうという人がいるなら、それは蒔かれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。」いわば、植物の種が何倍にもなって増えていくように、松陰の考えを受け継いでいくことを弟子たちに説いたのである。

松陰はこの「留魂録」を2部清書し、一通は亡骸を受け取りにきたものへ、もう一通は牢屋で親しくなった牢名主に託して、これを肌身離さず持って、出牢してから長州藩のもの渡して欲しいと頼んだ。今日、この『留魂録』を見ることができるのは、島流しになったこの牢名主が持っていた一通が藩に渡ったためである。何故30歳の若さで、松陰は死を覚悟するような過激な行動に走ったのか。それほどに、時代が緊迫した状態であったことを知らなければ、到底松陰の心情を理解することはできないであろう。

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂 吉田 松陰

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ムクゲ

2013年07月19日 | 


公園でサルスベリが花を咲かせた。そのすぐそばにムクゲの美しい花が4~5個咲いていた。この花は韓国の国花で、無窮花(ムグンファ)、永遠の花として愛される。日本には平安時代に到来した。沖縄の夏を彩るハイビスカスはこの仲間である。朝咲いて、夕方にはしぼんでいまう一日花だ。小林一茶はこの花を詠んで

それがしも其の日暮らしぞ花木槿 一茶

いかにも、一茶の面目躍如とした句である。文化元年、一茶42歳のときの句に

秋の風乞食は我を見くらぶる 一茶 

という句を読んでいる。乞食の方でこの俺を乞食じゃないかと見ていやがる。自分はあの乞食よりもましだろうと、比べている。一茶は、俳諧師の自分を乞食と同様のものとして見ている。金もない、他人から金銭を恵んで貰ってその日を生き伸びている。そのことに悪びれる風もなくこの句を詠んだ。

一茶の生涯を辿って見ると、その暮らしぶりは現代の住む場所を失った人びとに通じるものを感じる。社会は一茶の時代とそれほど大きくは変わっていないのだ。親のいる柏原の家を出て、江戸で丁稚奉公をしたが、俳諧の世界に紛れこんでその日ぐらしに甘んじて生きた一茶の半生は、その厳しさをバネにして晩年の実弟を相手どった遺産訴訟へと突き進む。

世の中はあなたまかせぞ七転び八起きの春にあひにける哉 一茶

52歳で初めて妻を娶った一茶の春は、その激しい訴訟で勝ち取ったものだが、生れてくる子を次々に亡くし、妻を亡くし、自らは中気にあてられて不遇の死を遂げるという悲惨な生涯であった。一茶の俳諧歌には、生きる厳しさを斜に見る独特の視点がある。



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