めいすいの写真日記

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「始皇帝と大兵馬俑」展

2016-02-09 | 博物館を訪れる

上野で2月21日まで行われている「始皇帝と大兵馬俑」展を見に行きました。

高校時代の世界史で「秦」のことは学びはしましたが、1974年に兵馬俑が発見されて以来、秦の始皇帝の陵墓の周辺で数々の史跡が

発見され、「秦」という国がどのような国であったかということが明らかにされつつあります。

そして明らかになった史実を知るにつれ、紀元前247年から210年の始皇帝の時代は、政治機構、経済、文化が驚くほど

高度に発達していた時代だったということが分かります。

展覧会場を壇蜜さんの音声ガイドで見て回り、会場で購入したガイドブックを帰ってから読んでみると興味深い内容が満載です。

現代はコンピューターの発達によって、昔に比べて格段の情報処理が出来る時代になりましたが、2200年以上前の秦の時代

の政治、経済、文化よりどれだけ進歩したのかと考えざるを得ない面もあります。

特に2台の銅馬車( 始皇帝の先導車と始皇帝の御用車)は2分の1の模型ということですが、2000個もの部品から

成り立ったいる精巧な工芸品です。始皇帝の御用車の内部には豪華な彩色の模様が施されています。

また、実物が発見されたというより模型が発見されたということが凄いことだと思います。実物の設計図はあったのでしょうか。

中国では、幾度となく王朝が変わり、そのたびに前王朝の文化はほとんどが破壊または廃棄されたため、各王朝の宝物はほとんど

現存しないのですが、8000体もの兵馬俑といい、この2台の銅馬車といい良く残ってくれていたと思います。

中国では、この兵馬俑と銅馬車は「国宝中の国宝」といえると思います。

なお、会場に飾られていた銅馬車はケースの中に入っていなかったので変だと思いましたが、複製品でした。

会場内は撮影禁止ですが、一角だけ撮影の許可されている場所がありました。

8000体の兵馬俑はすべて異なり、一体、一体がとても写実的で個性が良く表れています。そのため、どのような軍団だったが分かります。

兵の身分に応じた人相もなるほどと思わせられます。また、これらは彩色されたいたとのことです。実際に彩色された兵馬俑の例がありました。

8000体すべてのが彩色された光景が見られたらさぞ壮観だったことでしょう。

最後になりますが、「秦王朝」は始皇帝の死後3年で滅びてしまいました。始皇帝個人の才能がいかに豊かであったかが分かります。

始皇帝は秦王朝がいずれ無くなるであることを見越して、「永遠を守る」ため、巨大な陵墓・兵馬俑そして銅馬車などを生前から作ったのでしょう。


手塚治虫の「ブッダ展」・・・仏像と漫画でたどる釈迦の生涯

2011-06-24 | 博物館を訪れる

東京国立博物館で行われている「手塚治虫のブッダ展・・・仏像と漫画でたどる釈迦の生涯」(2011年4月26日~6月26日)を見に行きました。

以前から、この特別展が開かれているというのは知っていましたが、漫画「ブッタ」が映画化され公開されたことからぜひ見ておこうという気持ちになりました。

この特別展は手塚治虫の「ブッダ」の直筆原画52件とガンダーラや日本などの仏像20件により、ブッダ=釈迦の偉大な生涯をたどろうという展示です。
わかりやすい漫画と仏像により、イメージがつかみやすい試みです。
また、ガンダーラの仏像や浮き彫りは、素朴で私には新鮮に感じられ、ブッダの時代を彷彿とさせてくれました。

これらの仏像の中で目を惹いたのはポスターなどに載せられている「仏立像」。
パキスタン・ペシャワール周辺、クシャーン朝2~3世紀、高さ111.2cm。
神格化はされていますが、釈迦の実像に近いのではと思われるもので、
手塚治虫もこのような仏像を「ブッダ」のモデルにしたのではないかということにも興味が持てました。

仏伝図 「託胎霊夢(たくたいれいむ)」パキスタン・ガンダーラ、クシャーン朝2~3世紀 、15.0×30.0cm。

母となるマーヤ(摩耶夫人)は、白い像が自分の胎内に入るのを夢見てブッダを身籠もったという。

仏伝図 「誕生」。パキスタン・ガンダーラ、クシャーン朝2~3世紀、22.0×49.5cm。

マーヤ(摩耶夫人)はお産のために里帰りする途中、一本のサーラ樹の枝に手をかけた時、突然、産気づき、立った姿勢のまま、右脇下からブッダを出産したという。

これらの、二つの浮き彫りは、インドネシア・ジャワ島・ジョグジカルタにある「ボロブドール遺跡(世界遺産)8~9世紀」を訪れた時にも、似たような浮き彫りがありました。
仏教が東南アジアに広くそして深く普及していたことを知ることが出来ます。「めいすいの海外旅日記・インドネシア・第5日

重要文化財 「仏涅槃像」鎌倉時代、木・漆箔、幅150cm。奈良・岡寺

ブッダ90歳。2本のサーラ樹(沙羅双樹)のもと右脇をしたにして横たわり、500人の弟子達に見守られ、入滅すなわち涅槃にいたったという。

タイや台湾を旅した時も、こうした涅槃像をよく見かけました。しかし、日本の仏像には涅槃像は少ないようです。

この特別展「手塚治虫のブッダ展」を見る前に、潮出版社の「ブッダ」(全12巻)を購入しました。
ブッタ=釈迦の生涯は波瀾万丈で、その生き様には強く惹き付けられるものがあります。

登場人物もバラモン(僧侶)、クシャトリア(武士)、バイシャ(平民)、スードラ(奴隷)という厳しいカースト制度の中で、
ユニークな個性で生き生きと描かれいます。

手塚治虫は「ブッダ」は私のフィクションと述べたとのことですが、深い史料分析に基づいた見事なストーリーで、
一気に読み終えました。

仏像写真は公式ガイドブックから2枚目7枚目はCANNON IXY 31S で撮影

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食と暮らしの小さな博物館

2010-11-30 | 博物館を訪れる

「AJINOMOTO 食とくらしの小さな博物館」(東京都港区高輪3-13-65 TEL 03-5488-7305)を訪れました。
「味の素グループ高輪研修センター」に併設されています。
この博物館は味の素グループの管理する博物館で、「味の素」誕生物語や、味の素グループの100年の歴史を
商品、広告物などから紹介するコーナーがあります。

他に、「くらしと食卓」というテーマで、食卓の風景を時代の変遷を振り返りながら展示してあるコーナーがあり、
懐かしさを感じ、興味を持ちながら見て回ることができました。
以下はそのコーナーとそこに記されていた解説です。

ちゃぶ台を囲む家族と一家団欒の始まり 1900-1945

 明治30年代後半(1900年頃)になると、都市部のサラリーマン家庭を中心に、それまでの銘々膳に代わって、ちゃぶ台が使われ始め、一家団らんの思想も芽生えました。 大正末から昭和(1925年頃)にかけて、ちゃぶ台は全国に普及し、一つの食卓を家族全員で囲む風景が見られるようになりました。食事の内容も向上し、都市部では洋食のメニューが家庭の食卓にあがるようになります。

ちゃぶ台やお櫃がリアル、昔は寝食を共にしていて家が狭く、家具などが少なかったのを思い出します。

ダイニングキッチンと洋風化の浸透 1946-1975

1956年集合住宅の供給を始めた日本住宅公団は台所にダイニングキッチン方式を取り入れて、「浸食分離」を実現しました。アメリカ流の豊かな暮らしを象徴するDK方式は、理想のモデルとなって急速に普及し、食卓はちゃぶ台からテーブルへと移行します。台所には電気炊飯器や電気冷蔵庫など、様々な電化製品が備わり、主婦に時間的ゆとりも生まれました。インスタント食品や冷凍・レトルト食品が次々と登場し、調理の簡略化が進みました。

白黒テレビと小さな冷蔵庫、旧式の電気釜が懐かしい。

グルメ思考と簡便化の共存 1876-1990

食事を楽しむことに主眼が置かれた外食が盛んになり、食べ歩きがレジャーの一つになりました。グルメかを求める人々のニーズを背景に食料輸入はますます増加し、食の高級化、本物志向が進む一方で、調理の簡便化も顕著になります。台所に多様な機能を備えたシステムキッチンが導入されますが、家族一人ひとりの生活時間や興味が優先されるあまり、家族が揃って食事する風景は少なくなり、「個食化」が進みました。

  「ちゃぶ台を囲む家族・・・」は、私の育った家では1955年くらいまで続いていた点を除くと解説に書かれた内容が
とても良く時代を表しています。
自分の経験に照らし、なるほどと頷くことが出来ます。
中に入っていけるのと生活の物音が小さい音で流されているので、その雰囲気を味わうことが出来て感心しました。

この日は企画展示として「錦絵に見るパロディーと食」があり、こちらは江戸時代の世相や暮らしを想像できました。

PENTAX K7 + SIGMA 17-70mm DC MACRO F2.8-4.5 で撮影

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貨幣博物館 (2) ・・・ 一万円札の偽造防止技術

2010-01-30 | 博物館を訪れる
 この博物館では一万円札の偽造防止技術が紹介されていました。



 すき入れパターン
 一万円札を光に空かしてみると、右側にすき入れられた三本の縦棒が見えます。
 これはお札の中央にある従来のすかしよりもカラーコピー機などで再現しにくいものだそうです。



 特殊発光インキ
 紫外線を当ててみると、お札の中央下の印章がオレンジ色に光ります。
 また、お札の地紋のうち左右の1部が黄緑色に変わります。

 一万円札にこうした偽札防止技術が使われているのを初めて知りました。
 日本銀行も頑張っていますね。

  PENTAX K7 + TAMRON AF17-50mm F2.4 で撮影

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貨幣博物館 (1) ・・・ 小判、大判

2010-01-29 | 博物館を訪れる


 東京駅から歩いてわずかな所にある貨幣博物館 (東京都中央区日本橋本石町1-3-1 TEL 03-3279-1111(内線6660)) は、
貨幣の歴史について、色々と知ることが出来ます。
 人に連れられて、初めて訪れました。写真の左に日本銀行分館と書いてあります。そのためか、入場料無料です。
 


 家康が関ヶ原の合戦の後、天下統一と貨幣系座の確率のために創らせた慶長小判、小判の中でも良質なものとして有名です。
 陳列ケースの中にありましたが、始めて見ました。小判の上部に一両の文字があります。



 享保大判、幕府の三大改革の一つ「享保の改革」によって改鋳され質の向上した大判です。
 享保の時代には大判一枚、七・二両だったのですが、その十両で定着したようです。

 ところで、1両の価値ですが、当時の米換算で、江戸初期は10万円、中期には3~5万円程度だったらしい。
 一方、人件費は安く武家で雇う下女は食事付きで年間1~2両程度だったようです。
 ですから、千両箱というと1億円~5千万円ということになります。
 貨幣博物館に千両箱はありませんが、1億円の札束は置いてあり、どのくらいの大きさかが分かります。

 現在、小判の千両箱と一億円の札束のどちらに価値があるでしょうか?
 慶長小判の形をした純金17.7g の小判 (日本マテリアル製) は1枚44,250円。
 本物の慶長小判は、ものによって異なり100万~200万円のようです。

  PENTAX K7 + TAMRON AF17-50mm F2.4 で撮影

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