ドブロヴニクは地中海の東部と西部との要衝にあり、古くから海洋国家、ラグーサ共和国として栄えていました。
14世紀から15世紀に城壁都市として発展し、16世紀から17世紀には共和国として繁栄を極めました。
今もクロアチアの南ダルマチア地方の中心都市となっています。
紺碧のアドリア海に面し、堅固な城砦に囲まれた美しい街並は「アドリア海の真珠」と呼ばれ、多くの観光客が訪れます。
1979年、旧市街は世界遺産(文化遺産)に登録されました。
ケーブルカーから見たドブロヴニクの旧市街。アドリア海の紺碧の海が拡がります。
旧市街の西側にある、ピレ門。数世紀にわたり正面入口として用いられていました。今も、旧市街の入口のメインゲートになっています。
現在のようなルネッサンス様式の半円形の塔が出来たのは1537年です。
かつては門の前の木製の跳ね橋が日没後は鎖で巻き上げられて、門は固く閉ざされました。
門から旧市街に入ると、メインストリートであるブラツァ通りに出ます。左手手前は救世主教会、左手奥は聖フランシスコ会修道院の建物。
遠方の塔はルジャ、鐘のついた時計塔で、その前はルジャ広場。
右手にはオノフリオの大噴水。ナポリのオノフリカ・デッラ・カヴァが造ったことから名前がついたようです。
1438年に、12Km離れた水源から水を引いて設けられました。
1667年の大地震で崩壊し、彫刻の多くがなくなったようですが、蛇口の頭部だけは残ったとのことです。
清潔ですが、硬水なので、おなかを壊すおそれがあるので飲まない方がいいとガイドさん。今になってみれば、飲めば良かったと思います。
赤いベレー帽をかぶったお兄さんが「SOUVENIRS HEART OF DUBROVNIK 2012」として小さなハートのペンダントを1ユーロで売って
いたので、私も買って首からかけて歩くことにしました。
次に歩いたのはプラツァ通りの一本北側のブリェコ通り。プリェコ通りは、レストランがずらりと並んでいます。
時間はまだ10時を回ったところですが、お昼時には、満員になるようです。
プリェコ通りとブラツァ通りとを結ぶ狭い道にもレストランの机といすが並べられ、活況を呈していました。
道の上には、洗濯物が干されていて、そこには人が住んでいて生活をしているのだという親しみを感じます。
ブラツァ通りの東側の終点に出てきました。そこは、ルジャ広場と呼ばれるこの街の中心。
この広場の北面に立つスポンザ宮殿。かつては税関や保税倉庫として使われていました。
現在は、公文書館として使われています。
この宮殿の中で、1991年の内戦で破壊されるドブロヴニクの街の様子を撮影したビデオを見ました。
旧ユーゴ軍が浴びせた砲弾は5000発、旧市街はほとんど破壊され、多くの市民が犠牲になりました。
このため、世界危機遺産に登録されました。
しかし、多くの市民の努力により、戦争の傷跡は復旧され、1998年に危機遺産の指定が解除されました。
ルシャ広場の南面の聖ヴラホ教会。ドブロヴニクの守護聖人ヴラホを祀る教会、ドーム屋根を持つバロック様式になっています。
毎年2月3日は守護聖人ヴラホを讃える祭りが、全市を挙げて行われます。
城砦の歩道を一周することにしました。10時45分に出発。出入り口は3カ所。私たちは北東側から入場しました。
この歩道は基本的に反時計回りの一方通行になっています。
城砦の歩道から見たルジャ広場付近。手前は鐘のついた塔ルジャと聖ブラホ教会。奥に聖母被昇天大聖堂。
さらに進んだところにある城砦の北西の角の ミンチェスタ要塞。城砦の中で最も高所にある要塞です。上まで登ることが出来その眺めは良好です。
この要塞は海抜37メートルで、海と陸の双方から街を守る役割を果てしていました。
この付近の城砦の歩道からは、フランシスコ会修道院の建物が見えます。
また、ピレ門やその先にロヴリイェナツ要塞も見えます。
さらに海側の城砦の方に向かうと、城壁は堅固に、そしてより高く造られています。右に飛び出ているのが聖ピーターの砦で、休憩所があります。
城壁の歩道の一周巡り(約1時間10分)を経て、再びブラツァ通り、ルジャ広場前に戻ってきました。
フランシスコ会修道院 の鐘楼がシンボリックに見えます。
オノフリオの大噴水の前に集合し、再びピレ門から外へ出て、ドブロヴニクの旧市街の観光は終わりました。