ボスニア・ヘルツェゴビナという国
15世紀後半から19世紀後半まで、ボスニア・ヘルツェゴビナは、オスマントルコの支配を受けました。スロベニアとクロア チアは
オーストリア・ハンガリー帝国、ハプスブルク家の支配でした。産業や文化振興に力を尽くしたハプスブルグ家と農業の振興のみだった
オスマントルコと の違いが、その後に大きく影響しているようです。
このため、ヴォスニア・ヘルツェゴピナの経済は、スロベニア、クロアチアに比べると失業率は高く、平均所得も少ない。
農業もボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(1992年~1933年)後は、農地や羊の放牧地に地雷が埋まっているため、
多くが使用できないようです。鉱物資源は豊富とのこと。
◇ モスタル (Moster ) の街
聖ペーター教会の鐘楼
「そろそろ、モスタルに着きますよ。あの鐘楼はモスタルの教会のものです」とのガイドさんの話があり、
バスの中から撮りました。
パスから降りて、この教会の前を通りましたが、新しかったので紛争以降に建設されたものでしょう。
紛争後20年近く経ち、モスタルの町の復興が進んだようですが、こうした建物がまだ所々に残るのは、
戦闘の激しさを物語っています。目抜き通りの大きなスーパーは破壊されたままで、廃屋になっていました。
正午過ぎで、気温は35度を超えていました。焼け付くような道路に物乞いの幼い少女が座っていたりしたので、
この立葵の花がもの悲しげに見えました。
モスタルは、トレヴァ川の両岸の台地に発達した、人口ではボスニア・ヘルツェゴビナの5番目の都市。
15世紀中頃にオスマン帝国の支配化に置かれて、軍事上の要衝となりました。
街の中心の頑丈な石橋スタリ・モストは1566年トルコ人によって架けられ、両岸の人々の生活に欠かせない橋として
親しまれてきました。モスタルとは橋の意味。スロヴェニアやクロアチアとはガラリと雰囲気が変わり、オリエンタルな街並が
橋の両側に続きます。
1993年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争でスタリ・モストは砲撃によって破壊され、落橋しましたが、ユネスコや民間からの
援助により、2004年、往時の姿に復元されました。
2005年、スタリ・モストと周辺の建物群は世界遺産に登録されました。
上の写真はスタリ・モストまで続く土産物店、イスラム風の手芸品などが並びます。私はここで、1ユーロでフェズ(帽子)を
買いました。
スタリ・モストの橋のたもとから撮したもの。
この橋には、年1回飛び込みの競技会があります。何年か前にNHK特集で、この飛び込み競技会の技術向上への悩み
と紛争後の人種問題への若者の心の葛藤を描いた番組があり、興味を持って見ていたので、この橋には親しみがありました
スタリ・モストの上の様子、幅員は4.5m、長さは29m。夏の乾燥期は水面からの高さは21m。
30ユーロ集まると飛び込む人がこの日もいました。一番右側の裸の人。
スタリ・モストの上からはネトレヴァ川の下流の渓谷美を一望できます。水は澄んで美しい。
また、スタリ・モストの上からは、1619年完成のコスキ・メフメド・パシャ・モスクも見えます。
モスクは12mの正方形をしています。
反対にもすくのテラスやミナレットの上からスタリ・モストを見るのは、絶景ポイントのようです。
早速、買ったフェズをかぶりました。「よく似合う、現地人のようですね。」とは、ツァーの人たちの言葉。こちらは、橋を渡った左岸側の商店街。
上流に向かい、土産物店の中を数百メートル歩いて行くと、スタリ・モスト撮影のの絶景ポイントがありました。
詳しくは「めいすいの海外旅日記 スロベニア、クロアチア・ボスニア・ヘルツェゴビナ 第4日」をご覧下さい。