職場から、少し足を伸ばせば行くことが出来る「漱石公園」(新宿区早稲田南町7番地)。訪れてみようとは思っていながら、なかなか果たせなかったが、時間の合間を見て立ち寄ることが出来た。
漱石はこの地で晩年を過ごし「三四郎」、「それから」、「こころ」、「明暗」(未完)など多くの作品をここで執筆した。その住まいは「漱石山房」と呼ばれ、終焉の地となった。なお、この公園は東京都新宿区立となっている 。
正面奥は「情報発信センター」。パネル展示や漱石の初版本の復刻版があり、説明者がいて15分程度のビデオ上映をしてくれる。漱石に関する無料のパンフレットがあるとのことだったが、私の行ったときには品切れだった。
入り口には、漱石の銅像。右脇には漱石の造語である「則天去私」が書かれている。
漱石が、晩年に文学・人生の理想とした境地で、自我の超克を自然の道理に従って生きることに求めようとした言葉である。
漱石山房には、そうそうたる文化人が集まった。俳人の高浜虚子、物理学者・随筆家の寺田寅彦、童話作家の鈴木三重吉、「古寺巡礼」・「風土」などの作品で知られる和辻哲郎、小説家の芥川龍之介など数多い。
ここで、門人が木曜日に集まる「木曜会」が開かれていた。いわば若い文学者たちの集まる「文豪サロン」となっていたのである。一番右側が漱石の書斎。
漱石山房は戦災で消失した。これは漱石山房の一部、書斎の前のテラスを今年2月のリニューアルで再現したもの。明治の時代にはこうした建築様式は珍しかったかも知れない。
猫塚。漱石没後の大正8年(1919)、「吾輩は猫である」のモデルになった猫の十三回忌にあたり、漱石山房の庭に立てられた供養塔。「文鳥」という作品で、その死が描かれた文鳥など、夏目家のペットの合同供養塔でもあった。九重の層塔である。
この供養塔は昭和28年12月に復元されたものということである。
そこから、少し歩いた地下鉄東西線「早稲田」駅前には、「漱石誕生の地」の石碑がある。漱石は子沢山の家の末っ子として生まれ、歓迎されなかったようで、すぐに里子に出されている。幼少の頃は生活が安定していなかったようだ。
ところで、漱石の好物は「すき焼き」だったそうだが、今、その地には「吉野屋」があり、大きく「牛すき鍋定食」の広告が出ていた。
その隣にある酒屋の「小倉屋」(東京都新宿区馬場下町3番地)。漱石の書いた随想集「硝子戸の中」で、何回か登場する。
漱石の父親の家に抜刀した8人の泥棒が押し入り、角の酒屋の「小倉屋」でおまえの所には大金があると聞いてきたと居直る場面などが書かれている。
また、この店の中には「升」の写真が飾られている。これは堀部安兵衛が高田馬場での仇討ちで、升酒をあおり、韋駄天走りし、18人の敵を倒した時の升である。彼は後に赤穂浪士となる。
右に見える「夏目坂通り」の看板。夏目漱石の父はこの地の名主で、この通りの坂に「夏目坂」と命名したと、漱石がやはり「硝子戸の中」に書いている。
今日は1時間少々の散歩コースであったが、漱石を身近に感じることが出来て有意義であった。
PENTAX K20D + SIGMA 17-70mm F2.8-4.5 DC MACROで撮影
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