山添広瀬・西方寺の花まつりに撮影日を間違え、前日にこの日も来ていた写真家のSさんが、声をかけてくれた。
それは、「ひろせ名物のさいら寿司(※秋刀魚のひらき)」だ、という。
云われてはじめて気づくサイラの開き(頭・胴・尾の三つ切り)。
家庭用のホットプレートで鉄板焼きをしていた。
焼いたサイラの開きに酢飯仕立ての俵型のおにぎりをセットしたメニューは600円。
このフェアに使えるチケット売りで購買する。
秋祭りなどがあるときに焼いて食べていたサイラ寿司を“広瀬寿司”と、いうからややこしい。
にぎり寿司を販売しているワケではなく、売り場がここ広瀬だから、広瀬の地で売るサイラの開き。
ちなみに、サイラの開きは、吉野町小名でも聞いたことがある脂ののった焼き魚。
そう、サイラは、秋刀魚のことであるが、山添村室津ではカマスの開きをサイラと呼んでいたことを思い出した。
また、天理市の檜垣町もさんまをサイラの開きであった。
和歌山県から奈良県・東吉野村経由で運ばれたサイラの開き。
おそらく行商人が運んでいた、と推定した。
和歌山の方言に「サイラ或いはサエラ」がある。
例文使用に「おかずはサイラの開きしかないんやけど、そんでええか?(※おかずにサンマの開きしかないが、それでいいか?) 今晩、サイラの塩焼きすら(※夕飯は、秋刀魚の塩焼きにする)」、とある。
秋刀魚やカマスの魚を腹開き処理した“サイラの開き“は、方言とともに運ばれた行商人がもたらす、物流の民俗の一例であろう。
広瀬は、これら3カ所から、より離れた地域。
サイラの開きは、どこから来たのだろうか。
民俗調査に、またひとつ増えた。
かつては、家でもつくって食べていたが、今ではつくることもなく・・・と、話してくれた。
だが、サイラの開きを焼いていた高齢女性は、今でもそのときおりにしている、という。
焼きあがったサイラの開きを袋入れしていたKMさんもまたお話してくださる。
ここ名張川は、かつて鮎がよく捕れた川だった。
そういえば、鮎釣り名人らの姿は見なくなった。
云十年も前に訪れた名張川。
上流地に流れる青連寺川。
川沿いの道路をドライブ。
季節は秋だったが・・綺麗な川の流れに沿ってたどり着いた広瀬辺り。
釣り人の姿は数人。
それは落ち鮎狙いだったかもしれない。
当時、カメラを所有していない時代。
家族同乗の紅葉狩り観光を楽しんでいた記憶がある。
その名張川に鮎の姿が・・・
年々減ってきたから、仕方なく大和郡山にある奈良県中央卸売市場に求めたサイラの干物。
それらを仕入れて焼いている、と・・・
サイラの寿司売り場に並んでいたKBさんに伺った。
鮎の生息が徐々に変化、釣りにかかる漁は減り、この先は乏しくなる、と判断された。
子どものころから口にしていたというKMさんは、昭和24年生まれ。
サイラの寿司を復活しよう、と・・・
サイラの開きよりも安い鰯に移り変わった。
今では鰯も秋刀魚も少なくなったからどちらも高額になった。
そのイワシは酢漬け処理をして食べていた。
酢漬けのイワシは、大阪の箱寿司のような木型に詰めてつくる押し寿司。
小鯛鮨をつくるのと同じようにして食べた酢漬けも美味しかった、という。
11月3日の祭りにもてなすイワシの酢漬け。
サイラの寿司も祭りに食べる。
昔から食べていたという広瀬の郷土料理だった。
焼いていた高齢女性は、今でも家でつくって食べているというから、機会があれば、是非取材したいものだ。
帰宅に持ち帰ったひろせ名物のさいら寿司(※秋刀魚のひらき)。
かーさんに一つ。脂がのた開きの秋刀魚にすし飯おにぎりが、えー味している、と・・
同様に食べた私もぱくぱく食べた郷土料理が旨い。
かつて広瀬に富士講と大峰山上講があった。
KMさんが高校4年生のとき、男になるといわれて連れて行ってもらった大峰山上講。
山から降りて一週間後に、今度は富士講のお誘い。
村にあった山添文庫が企画実施していた富士山登山。
広瀬では男の子が生まれた親は、大きくなったら山上講や富士講に参加できるよう資金を積み立てていたそうだ。
また、広瀬も両親が揃っていたらサシサバ(※またはトビウオ)をしていた。
食べたら、とてもしょっぱかったことを覚えている盆の行事だった。
名張川で捕れた鮎は刺身で食べていた。
頭から食べていたという鮎。
名張川の鮎は、広瀬に魚影は見られない、と云われたが、最近のネット情報によれば、釣果を得ている人たちもいる、と中日新聞社が取り上げていた。
また、オトリ券を発行する山添村・波多野漁協管内には8地区におよぶ。
(R4. 4. 9 EOS7D/SB805SH 撮影)
それは、「ひろせ名物のさいら寿司(※秋刀魚のひらき)」だ、という。
云われてはじめて気づくサイラの開き(頭・胴・尾の三つ切り)。
家庭用のホットプレートで鉄板焼きをしていた。
焼いたサイラの開きに酢飯仕立ての俵型のおにぎりをセットしたメニューは600円。
このフェアに使えるチケット売りで購買する。
秋祭りなどがあるときに焼いて食べていたサイラ寿司を“広瀬寿司”と、いうからややこしい。
にぎり寿司を販売しているワケではなく、売り場がここ広瀬だから、広瀬の地で売るサイラの開き。
ちなみに、サイラの開きは、吉野町小名でも聞いたことがある脂ののった焼き魚。
そう、サイラは、秋刀魚のことであるが、山添村室津ではカマスの開きをサイラと呼んでいたことを思い出した。
また、天理市の檜垣町もさんまをサイラの開きであった。
和歌山県から奈良県・東吉野村経由で運ばれたサイラの開き。
おそらく行商人が運んでいた、と推定した。
和歌山の方言に「サイラ或いはサエラ」がある。
例文使用に「おかずはサイラの開きしかないんやけど、そんでええか?(※おかずにサンマの開きしかないが、それでいいか?) 今晩、サイラの塩焼きすら(※夕飯は、秋刀魚の塩焼きにする)」、とある。
秋刀魚やカマスの魚を腹開き処理した“サイラの開き“は、方言とともに運ばれた行商人がもたらす、物流の民俗の一例であろう。
広瀬は、これら3カ所から、より離れた地域。
サイラの開きは、どこから来たのだろうか。
民俗調査に、またひとつ増えた。
かつては、家でもつくって食べていたが、今ではつくることもなく・・・と、話してくれた。
だが、サイラの開きを焼いていた高齢女性は、今でもそのときおりにしている、という。
焼きあがったサイラの開きを袋入れしていたKMさんもまたお話してくださる。
ここ名張川は、かつて鮎がよく捕れた川だった。
そういえば、鮎釣り名人らの姿は見なくなった。
云十年も前に訪れた名張川。
上流地に流れる青連寺川。
川沿いの道路をドライブ。
季節は秋だったが・・綺麗な川の流れに沿ってたどり着いた広瀬辺り。
釣り人の姿は数人。
それは落ち鮎狙いだったかもしれない。
当時、カメラを所有していない時代。
家族同乗の紅葉狩り観光を楽しんでいた記憶がある。
その名張川に鮎の姿が・・・
年々減ってきたから、仕方なく大和郡山にある奈良県中央卸売市場に求めたサイラの干物。
それらを仕入れて焼いている、と・・・
サイラの寿司売り場に並んでいたKBさんに伺った。
鮎の生息が徐々に変化、釣りにかかる漁は減り、この先は乏しくなる、と判断された。
子どものころから口にしていたというKMさんは、昭和24年生まれ。
サイラの寿司を復活しよう、と・・・
サイラの開きよりも安い鰯に移り変わった。
今では鰯も秋刀魚も少なくなったからどちらも高額になった。
そのイワシは酢漬け処理をして食べていた。
酢漬けのイワシは、大阪の箱寿司のような木型に詰めてつくる押し寿司。
小鯛鮨をつくるのと同じようにして食べた酢漬けも美味しかった、という。
11月3日の祭りにもてなすイワシの酢漬け。
サイラの寿司も祭りに食べる。
昔から食べていたという広瀬の郷土料理だった。
焼いていた高齢女性は、今でも家でつくって食べているというから、機会があれば、是非取材したいものだ。
帰宅に持ち帰ったひろせ名物のさいら寿司(※秋刀魚のひらき)。
かーさんに一つ。脂がのた開きの秋刀魚にすし飯おにぎりが、えー味している、と・・
同様に食べた私もぱくぱく食べた郷土料理が旨い。
かつて広瀬に富士講と大峰山上講があった。
KMさんが高校4年生のとき、男になるといわれて連れて行ってもらった大峰山上講。
山から降りて一週間後に、今度は富士講のお誘い。
村にあった山添文庫が企画実施していた富士山登山。
広瀬では男の子が生まれた親は、大きくなったら山上講や富士講に参加できるよう資金を積み立てていたそうだ。
また、広瀬も両親が揃っていたらサシサバ(※またはトビウオ)をしていた。
食べたら、とてもしょっぱかったことを覚えている盆の行事だった。
名張川で捕れた鮎は刺身で食べていた。
頭から食べていたという鮎。
名張川の鮎は、広瀬に魚影は見られない、と云われたが、最近のネット情報によれば、釣果を得ている人たちもいる、と中日新聞社が取り上げていた。
また、オトリ券を発行する山添村・波多野漁協管内には8地区におよぶ。
(R4. 4. 9 EOS7D/SB805SH 撮影)