奈良市の東部山間地域に数多くの子どもが主役の行事がある。
彼岸の中日ともなれば各地域の子どもたちはもてなく「ヤド」の家に集まって一日中遊んだという。
それが子どもの涅槃。
涅槃講が訛って「ねはんこ」或は「ねはんこう」と呼ぶ地域もある東部山間は昭和32年に奈良市に合併するまでは添上郡田原村(明治22年合併)と呼ばれていた。
属する村は茗荷村、此瀬村、杣ノ川村、長谷村、日笠村(※1)、中ノ(之)庄村、誓多林村、横田村、大野村(※1)、矢田原村、和田村、南田原村、須山村、沓掛村(※1)、中貫村の15ケ村。
うち、子どものねはん(子供涅槃)が行われている地区は、
日笠村、中ノ(之)庄村、
横田村、
大野村、矢田原村、和田村、南田原村、
須山村、沓掛村の9ケ村である。
昭和30年より以前に途絶えた茗荷村にもかつてはあったようだ。(※1)は涅槃図を掲げる地区
矢田原の子供ねはんに訪れるのは実に
10年ぶり。
彼岸の中日は春分の日の祝日。
この年は3月20日の日曜日。
この日に県内で行われる行事は35事例もある。
私が知る範囲内でこの数。
調べてみればそれぞれの地域でもっと多くの行事があるに違いない。
行事日が重なる場合、取材地はどこを選ぶのか悩ませる。
仮に一年に一例とすれば35年間も要する。
とてもじゃないが、私の今後の人生期間に間に合うわけがない。
2度目はたぶんに行けないだろうと思っていた矢田原の子供ねはん行事はたまたまの出合いで優先することにした。
神戸からわざわざ来られる写真家のKさん。
滋賀県の民俗取材が主なフィールドで腰を据えているが、奈良県はもとより三重県、兵庫県、京都府、大阪府、和歌山県、福井県、石川県、鳥取県、岡山県、香川県、愛知県、岐阜県・・・長野県・・・群馬県・・・東京都までも。
広範囲に亘る
民俗行事取材の行動範囲に圧倒される彼女に同行させていただくことにした。
矢田原は1・2組と3・4・5組に6・7組の三つに分けていると話してくださったのはこの年の年番さん。
今ではねはんの場と云えば村の集会所であるが、かつてはもてなす「ヤド」と呼ばれる家で行われていた。
彼岸の中日に行われている子どものねはんであるが、会式もなく涅槃図を掲げることもない。
旧田原村で行われているねはん行事に涅槃図を掲げる地区は日笠、大野、沓掛の3地区だけだ。
涅槃行事ではあるが、どことも彼岸の中日でもなく、お釈迦さんが入滅した15日でもない。
学校が休みの春休み期間中に行われている。
当番家の「ヤド」は1・2組と3・4・5組の2軒。
ご主人だけでなく婦人も。
それぞれの「ヤド」家とは別に「アト」と呼ばれる前年の「ヤド」家もあれば、「サキ」と呼ばれる翌年に「ヤド」家を務める家もある。
いわば「アト」は経験者で「サキ」は見習いである。
しかもだ、3・4・5組には「ヤド」が2軒。
「本ヤク」と「前ヤク」である。
「本ヤク」は今年の務めで「前ヤク」は「前もってのヤク」の意であろうか、「サキのヤド」でもありそうだが、複雑な当番ヤドの決めごとは何回聞いても難解で、整理するところまではできなかったように思える。
そう思ったときに話された「アト」「サキ」。
昔は「ヤド」だけであって、「アト」「サキ」という制度はなく、親戚や兄弟を呼んで賄ったというのだ。
おそらくは時代変遷とともに変革があったのだろう。
平成21年3月に奈良県教育委員会が発刊した『奈良県の祭り・行事 奈良県祭り・行事調査報告書』に書いてあった矢田原地区のかつての区割り表記。
大きく分けて上・下地区がある。
上は村を南北に流れる川を挟んで川西と川東両地区に分けていた。
下地区は北と南に分かれていた。
現在の区割り表記は組単位。
上地区の川西は1・2組。
川東が3・4・5組で下地区は6・7組であった。
この年の年番さんが云うには上村の1・2・3・4・5組は「甲番」。
6・7組の下村は「乙番」に分けているという。
矢田原の子供ねはんは1・2組の上村・川西、3・4・5組の上村・川東に下村の6・7組、三つそれぞれの地区ごとで行われていた。
お堂でしていたという6・7組の子どもねはんは昭和10年の記録によれば女子も参加していたようだ。
下村にあったお堂は茗荷町との境目辺り。
駐在さんの近くにあったお寺だという。
寺名は万(萬)福寺。
本堂には阿弥陀さんが安置してあったそうだ。
また、下村の南地区では特殊な膳もなく、子どもたちがいただくご飯のタネになるお米集めをしていた。
村の各戸を巡ってお米やお金を貰う動きもあったが、平成13年ころに途絶えた。
それより以前の平成元年。
少子化の時代を迎えて子どもたちの姿が少なくなった。
時代に対応できるようにと1・2組と3・4・5組は合同で行うようになった。
1・2組は20戸。
3・4・5組は30戸。
それぞれが持ち回りで「ヤド」家を務める。
この年に務めた1・2組の「ヤド」は昭和44年生まれのNさん。
かつては特殊な膳とか飯を投げることもなかったという。
そういうえた体験がなかったということだ。
20戸で廻る「ヤド」家で経験したときの記憶であるが、今年は膳も飯投げもある。
Nさんがいうには一旦は途切れて、20戸を一回りして元に戻った年に復活したという。
一方、3・4・5組の「ヤド」は昭和25年生まれのIさん。
昔からずっと膳もあったし、飯投げもあったという。
組によっては在り方が違うようだ。
ところがだ、1・2組のNさんが云うには飯投げの記憶がある。
お椀に盛った飯を天井に目がけて投げた。
米粒が天井に付いたら願いが叶う。
天井板をぶち抜くぐらいの勢いで投げるよう周りにいる人から声がかかる。
かつては「ヤド」の座敷で飯を投げていた。
勢いがついて蛍光灯に当たったら怪我でもする可能性があると思われた家は外していたという。
天井に当たった米粒はネズミのエサ。
天井裏に住む福神さんへ捧ぐ飯でもある願いは子どもの繁栄というから子孫繁栄のことだろうか。
飯が天井に当たれば村は五穀豊穣。
そういうときは大人の人たちから褒められたと話す。
飯投げをするのは中学生。
15歳で卒業するまでのひと仕事である。
話したNさんは昭和28年生まれ。
先に話し手くださった「ヤド」家のNさんより一回り以上の年齢は17歳差。
膳や飯投げ経験の有無は年齢の差であったことが判った。
上座のテーブルに置かれた膳は二つ。
左にある膳は朱塗り椀に盛った飯が二杯。
一つは粳米で炊いたシロゴハン(白飯)。
もう一つは餅米に小豆を入れて炊いたセキハン(赤飯)である。
いずれもラップで包んでいる。
右にある膳が特殊である。
手前に置いてある二本の枝木。
それはタロの木の枝で作った一善の箸である。
タロの木は一般的名称でいえばウコギ科の低木落葉樹のタラノキ(タラの木)だ。
春近しのころに芽生えするタラの芽は春の恵みの一つ。
天ぷらにして食べたらとても美味しい。
近年、3月初めころともなればスーパーでも売ることが多くなった。
場合によっては揚げたて天ぷらとして売り出すスーパーもあるタラの芽である。
このタラの芽はすくっと立つ直立する一本木。
それには棘が何本も出ている。
これが痛いのである。
痛い棘があるタロの木が何故に箸であるのか。
後ほど行われる子供の所作で理解できる。
棘があるタロの木の枝はもう一つある。
一本を縦に半分に割ったものだが、半切りした一本の断面に朱塗りをしていた。
反対側には色塗りしない白木のままだ。
不思議な形と思ったソレは「ツケモノ」、或は「オカズ」でもあり、その形から「ゴボウ」とも。
いずれであっても食品をイメージしているようだ。
今では20cmぐらいの長さであるが、昔は5cmにカットしたものだったという。
その大きさで白いカワラケ皿に盛っていたようだ。
3組・・・5組もあった記憶があるから大きめの皿のような気がする。
もう一つの記憶がある。
飯はシロメシだけやったというのだ。
60歳前後ともなれば記憶は定かであろうが、先に挙げた『奈良県の祭り・行事 奈良県祭り・行事調査報告書』には載っていない。
その膳にはもう一品ある。
食べ物なのか、何なのか。
細長くくねくねした植物。
周りはイガイガ。
葉っぱのような形と思えば、そうでもあるが・・・。
麻苧のような紐で括っているのは広がないように、であろう。
この植物は「キツネノシッポ」と呼んでいたが、一般的な名称は「ヒカゲノカズラ」だ。
地域によっては「キツネノタスキ」の名がある。
実は平成18年に訪れた際は「キツネノタスキ」と呼んでいた人もいたのだ。
「シッポ」であっても「タスキ」であっても毛皮のように首に巻き付けたらえらいことになる。
ところが実は、「ヒガゲノカズラ」は柔らかいのである。
イガイガのように見える部分は尖がってはいない。
硬くもない。
見た目がそう思えるだけであるが、タロの棘は間違いなく痛い。
かつては「キツネノシッポ」も「タロ」も子供が採取していた。
中学生が生えている処へでかけて採取して集める。
持って帰ってきた材は小学生の年長さんが作る。
年上の者が年下の子どもに伝えていく在り方だったが、今では大人が行く役目。
植生する場所が限られているし、高く育ったタロの木を伐採するには手が届かない。
そういうことで大人がしているという。
なお、子どものねはんに参加できる一番下は歩けるようになった小児から。
大昔は男児ばかりだったが、昭和10年代はすでに男女児とも参加していたようだ。
こうしてお膳立てが調えば作法が始まる。
上座に着いた子どもは二人。
上はこの4月1日に小学四年生になる子ども。
下の子どもは一年生である。
先に挙げた『奈良県の祭り・行事 奈良県祭り・行事調査報告書』によれば、3・4・5組の川東では中学生が所作していた。
中学三年生が飯を投げて二年生が膳で受け止めるのだ。
飯を投げる子どもは「イグイ」若しくは「イグイサン」の名があった。
史料によれば「イグイ」は涅槃講において招かれる立場にあったそうだ。
二年生が受け止めることを考えてみれば、行事を終えて卒業する三年生から二年生に代の引継ぐ所作のように思える。
が、この年は二人の小学生が真剣な顔で登場した。
対象となる年齢の子どもがいなかったのであろう。
ちなみに同じく史料によれば、1・2組の川西の「イグイ」は高等小学校(尋常小学校)の二年生までであった。
高等小学校の二年生といえば修了時点で14歳。
この最年長者を「イグイ」若しくは「イグイサン」と呼んでいた。
始めの所作は棘がいっぱい出ているタロ製の箸を持つ。
棘があるから持ちにくい。
刺されば痛いのである。
その箸を持って椀に盛られた飯を食べる真似事をする。
「ツケモノ」若しくは「ゴボウ」の名があるおかずも食べる真似をする。
この年は小学一年生の子どもがなぜか所作をする。
なんとも持ちにくいタロの箸に目が白黒、或は点か。
どうしていいものやら悩みながらも所作を終える。
次は飯投げだ。
年長の「イグイ」はセキハン(赤飯)を盛った椀を持つ。
年少の子どもは膳をもつ。
天井を目がけることなく相手側が持つ膳が目標。
ふわっと上に放り投げた。
膳で受け止めれば拍手喝采。
次はシロゴハン(白飯)を投げる。
こういった作法を見つめる少女たち。
視線は投げられた飯の放物線を追う。
「イグイ」を充てる漢字は「飯喰い」であろう。
実際に喰うことはないが、まさに「イグイ」投げの所作であったが、ラップを外すことなく行われた。
ラップなんぞなかった時代はどうであったのか。
たぶんに飯は握って、握って硬くしていたのであろう。
次の所作はキツネノシッポばらし。
括っていた麻苧は鋏で切ってはいるものの、キツネノシッポがイガイガなのでなかなか捗らない。
しっかりと縛った麻苧は絡みつくようになっている。
立てたり横にしたり二人で行う共同作業。
作った人は大人。
外れにくいように括っている。
先が見えないシッポばらしに苦労する。
それを見ていた女児は退屈を覚える。
大きな女児は真剣に見つめている。
その眼差しが美しく光ったかのように思えた。
すべてを外し終えたのは始めてから10分後だった。
簡単には解けないシッポの先がようやく見えてきた。
すべてを解けば内部に詰めていた黄楊(ツゲ)の枝葉が出てきた。
それには麻苧の紐に通した穴の開いた硬貨がある。
「ヤド」家が用意した硬貨は五円玉に五十円玉の二種類。
五百円玉は入れていないと「ヤド」らが云う。
それを持ってあげた子どもの目が笑っていた。
やり遂げたあどけない顔はとても嬉しそうだ。
手に入れた枚数は五円玉が40枚。
五十円玉は30枚だ。
合計金額は1700円。
作法を終えた「イグイ」はこの場に居た子どもたちに分配された。
この年は13人。
町に出た家族も実家に戻って子どもねはんに参加する。
割り切れる金額ではなかったのであろう、「イグイサン」は少々多かったらしい。
分配を決めるのはその年に役する「イグイ」の心もちで決まる。
定めはないということだ。
こうして儀式を終えた子どもたちは「ヤド」の人たちが心をこめて作った料理をいただく。
一列になった子どもたちがよばれるお昼のメニューはヤド家が丹精込めて作ったオードブル料理。ワカメやアオノリのおにぎりにサケのおにぎりもある。
オードブルはカラアゲ、ポテトフライ、ニヌキタマゴ、マカロニサラダ、ソ-セージ、ハム、チキンナゲット、エビフライにプチトマト。
あんたらも食べてやと云われて席につく。
どれもこれも美味しくいただいたお昼のメニュー。
食べ終わってから子どもたちが座ったテーブルを見渡す「ヤド」の人。
料理が残ったものもある。
口に合わなかったのか、それとも多かったのか、翌年の課題にしているそうだ。
今ではこのようなオードブル料理であるが、かつてはイロゴハンだった。
具材はいろいろ。
味付けは聞かなかったがたぶんに醤油と味醂であろう。
そして夜はカレーライス。
昼と同様に集会所でよばれるカレーの味は甘口、辛口もあるらしい。
それからしばらくして3・4・5組の若い男性が昭和63年に行われたときの写真を持ってきてくださった。
私たちが取材にきていたことを親父さんに伝えたら当時の写真を見た方がいいと云って持ってきてくれたのだ。
若い男性は昭和55年生まれ。
親父さんは65歳というから私と同年代になる。
その年は集会所ではなく、Ⅰさん宅の「ヤド」家であった。
シロメシ、セキハンに長めのゴボウが膳にある。
セキハンを投げる「イグイ」の姿も撮っていた。
記念の写真は貴重な記録。
大切にしてくだされとお返しした。
なお、Iさんのご厚意をいただいて当ブログに掲載させていただく。
ちなみに1・2組「前ヤド」の昭和28年生まれのNさんの話しによれば今では上村に鎮座する春日宮神社はかつて下村にあったそうだ。
何時の時代か判らないが、洪水が発生したら神社が流されるおそれもあると決断されて上村に遷したそうだ。
ネットによれば元地は「ミヤイナバ」。
おそらくI家があった場ではないだろうか。
(H28. 3.20 EOS40D撮影)