マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

冷たい風にフウセントウワタ

2017年08月06日 07時13分28秒 | 奈良市(東部)へ
晴れている時間帯は温かい。

防寒と思っていたボア的な服は脱いでしまった。

置いたままにしておいた服にしまった、と思っても、もう遅い。

平坦とは3度から5度も違うと云われている大和高原の地では曇り空。

日陰に風が吹けば桶屋は儲かるが、私は寒い、である。

奈良市茗荷町の郵便局に立ち寄った友人が畑地を指さした。

その先にある木材は竹であろうか。

何本もの木材を石垣塀に立てて並べている。

細いものもあれば、やや太いものも。

朽ちて落ちているものもある。

これは何をするものだろうか。

気になれば足が自然と動き出す。

家屋の傍にある畑地に婦人がいる。何かを収穫しているのであろう。

近寄って尋ねてみれば、それはカボチャ栽培に立てた道具。

ここら辺りはイノシシが多くなった。

夜間に出没しては作物を喰い荒らす。

それを避けるためにカボチャに支柱を立てた。

カボチャは瓜科の蔓性植物。

で、あれば地面に這っていく蔓は上にも伸びるだろうと誘った。

実際に登っていって実をつけた。

つけるにはつけたが味は旨くなかったからやめた、というのだ。

上空に揚がったカボチャは水分を吸い上げられなかったのだろう。

瑞々しさがなければ美味しくない。

そう思うのである。

その場所に生えていた植物に目が点になった。



薄い緑色の玉がある。

数は多い。

玉は大きめである。

この植物がどこかで見たことはあるが、名前は知らない。

奥さんの話しによればフウセントウワタ

充てる漢字は風船唐綿。

声をかけたら塀から顔を覗かせた旦那さんが云った。

貰ったタネを四月に植えたらどんどん成長する。

やがて実をつけたフウセントウワタに白い液体がつく。

それは毒だから触ってはいけないとネットに書いてあったという。

あんたにあげると云われて枝ごと伐ってくれた。

(H28.12. 1 EOS40D撮影)

無残な大柳生のハナガイ

2017年06月12日 09時43分27秒 | 奈良市(東部)へ
平成28年10月16日現在、奈良県でもなく奈良市にも文化財指定されていない大柳生の祭り。

そもそも長老や太鼓踊りを復活させたいと云っていた自治会長はどう思っているのか・・・。

こんな怒りをもってしまった大柳生の祭りである。

この日に通りがかった奈良市大柳生は祭りの最高潮。

時間的に間に合ったので立ち寄った。

祭りの場は夜支布山口神社。

今や神事が始まろうとしていた場には長老らが並んでいた。

右広庭には大勢の人たちが集まっていた。

お酒も入っているのだろう。

怒号とまではいかないが、とても賑やかな様相である。

それはともかく社殿下の拝殿である。

神輿の前に並べていた神饌御供がある。

お参りをさせていただいてはっと気がついた。

目に入ったのは豪華な盛りである。

二段の重ね餅やとても大きな生鯛にも度肝を抜かれるが、稔りの盛りである。

柿の盛りに蜜柑やバナナの盛り。

とかく目立つ色合いの盛りではなく収穫したばかりと思える野菜などの盛りである。

左奥には枝豆の盛り。

その次は土生姜の盛り。

クリにシイタケもある。



その中央辺りにあった盛りはたぶんにもぎたて柘榴である。

奈良県内の神饌御供は数々あれども柘榴はとんと見ない。

大柳生に柘榴があったことを初めて知る日であった。

神事を終えたら仮宮に向かう行列がある。



その際に配られる花笠は青空に広げるように置いていた。

その下辺りに落ちていた紫色のヒラヒラがある。

これは氏神さんに神事芸能を奉納する8人のガクウチが装着するハナガイに付いている御幣である。



御幣が落ちていることはどういうこと。

神事芸能はこれより始まる神事中に奉納される。

落ちているということはもぎ取ったということか。

それとも・・・。これは数分後にわかった。

神事に並んだガクウチの何人かがよれよれなのだ。

酒に酔っているのがわかる。

着用している装束の素襖の着こなしがとんでもない状態だった。

一目でわかる上下が逆。

いったいどういうことなのか。

しかもだ。

噂に聞いていたハナガイの装着である。

「旧木津川の地名を歩く会」がアップしている平成24年の実施模様がある。

その年、すでにハナガイはハナガイの意味を失くしていたことを知って愕然とする。

それが異様とも感じないのが実に残念なことだ。

民俗行事を知らない人たちは始めて見るそれが本当だと思ってしまうことも残念なのである。

私が大柳生の祭りを取材した年は平成18年10月15日である。

青年たち入り衆が当屋家に素晴らしい「田の草取り」と呼ぶ田楽芸を所作していた。

拝見したハナガイはまさに牛の鼻につけるハナガイと同じようにしていたのである。

この姿に感動したこともあって平成21年9月28日に発刊した初著書の『奈良大和路の年中行事』に掲載させていただいた。

一年間の大役。

「廻り明神」の祭りである大柳生の秋祭りで紹介した。

祭りはハナガイを装着するガクニンの当屋入り衆、奉納神事スモウ、当屋家で行われる祝いのセンバンに練り込む太鼓台に祭りが明けたのちに行われる当屋渡しの儀式などだ。

発刊した『奈良大和路の年中行事』の160頁から163頁を見ていただきたい。

ハナガイの装着がまったく違うことに気づいて欲しい。

この年もそうであったが、なんとなんとである。

平成29年1月のことである。

この「大柳生の宮座行事」が奈良県の無形民俗文化財に指定されたのである。

指定文化財概要文書(PDF形式)がネッ上トに公開されているので参照されたい。

ハナガイは頭にするものではない。

誤ったままのハナガイを挿入写真に掲載していること事態に憤りを感じる。

醜い状態であるにも関わらず指定したこと事態が問題である。

答申担当者もさることながら文化財審議官はどこをどう見ていたのか、はなはだ疑問ばかりである。

祭りは余興イベント的になってしまった。

ハナガイはガクウチ全員がキャップ被り。

ガクニンも人足も服装があまりにも乱れすぎ。

そう話していた地元民の女性。

「長老たちは注意することもなく、神事を神事とも思わないようにしてしまった」と嘆いていた独白が胸に残る。

(H28.10.16 EOS40D撮影)

南庄町・腰痛地蔵の奉納ツチノコ

2017年02月13日 08時38分14秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市南庄町に地蔵尊がある。

そこにはたくさんの木製の槌がある。

形の大きさ、長さ、太さがさまざま。

材もカシやヒノキのようだ。

ざっと数えただけでも215本。

地蔵堂には棚もあるからそこにも多数の木槌がある。

所狭しに並べた木槌は願掛けのお礼に奉納されたもの。

腰痛が治れば奉納する。

そういう言い伝えがあるから腰痛地蔵の名がある。

そのことを知ったのはずいぶん前のことだ。

南庄町の行事を始めて取材した日は平成16年の12月31日

大晦日の日に村総出で結った勧請縄を神社下の鳥居付近にある大杉にかける。

取材した日は特になんでもなかった日だった。

午前中いっぱいかけて結った勧請縄は見事な形になった。

そうこうしているうちに雪が降りだした。

降り積もった雪はまたたく間に風景を真っ白にした。

道路はとてもじゃないが走れそうにない。

半端な量に積もった雪は道路を塞ぐ。

しばらく待ってもやみそうにもない。

仕方なく村に滞在した。

雪はやんだが解けることもない。

焦った。

車のタイヤはノーマルタイヤ。

とてもじゃないが走れない。

夕方になろうとする時間までには動きたい。

道路はなんとか走っていったタイヤの重みで轍が解けている。

なんとかなるだろうと車を走らせた。

実際は走るという感覚でなくトロトロ坂道の道路はカーブもある。

周りが樹木のところは解けが少ない。

何カ所かで見た放置の車。

一旦、止まれば再び動くことのない車は崖側に放置。

そんな様子を見ながらトロトロ。

川上町辺りに来たときはほっとしたもんだ。

その年以降はいつ降るやもしれない雪にスタッドレスタイヤを入れ替えることになった自然の恐怖日だった。

それはともかく久しぶりに目にする南庄町の腰痛地蔵。

もしや、この日であるかもと思ってやってきた。

村の人たちは清掃を終えて腰痛地蔵を祭っている地蔵堂の付属建物内で寛いでいた。

取材したい旨を伝えて撮らせてもらう。

本来は7月24日であった腰痛地蔵の地蔵祭り。

祭りと云っても行事にはそもそも名前がないから敢えてこう呼ばしてもらう。

南庄町は上、中、下の3垣内。

かつて24戸の村であったが、現在は22戸。

それぞれの垣内が毎年交替されて地蔵尊に奉納されている木槌は一本、一本取り出して清掃する。

午後のある時間にすべての木槌を取り出して埃を取り去る。

汚れは水道水にシャワー刷毛で洗う。

その場は膝裏に延久四年(1072)奉始造・佛師越前國僧定法などの墨書銘がある県指定有形文化財の木造阿弥陀如来坐像を安置する公民館。

かつてお寺があったというから調べてみればおそらく廃寺となった常福寺であるかも知れない。

回収した木槌はすべてを戻すのではなく、申しわけないが撤去するものもある。

と、いうのも奉納、奉納とくれば場をとることになる。

溢れてしまうことになる。

一年間も経てばそうなる。

とにかく増え続ける奉納の木槌は古いものは選別されて撤去しているという。

そういうわけがあって木槌は元の位置には戻らない。



実は木槌の形を形成していないものもある。

それは亜流の木槌になるそうだ。

本来の木槌はヨコツチ。

木槌はワラウチ(藁打ち)に使われるヨコツチの形である。

ちなみにお話を伺った南庄町の人たちは木槌と呼ばずにツチノコと称していた。

これらは南庄町の人たちが奉納されたものでなく、奈良市内、生駒市、大和高田市の人たちである。

7、8年前に寄進された紺地の幕を見ればわかるが、寄進者の名の他に「高田市」の糸文字があることや、奉納したツチノコにもどこそこの地名が書かれていた。

洗っていれば目につく在所の地名でわかったそうだ。

ローソクや線香に火を点けて参拝者を迎える。

私が訪問した時間帯は午後5時を過ぎていた。

それより1時間前ぐらいから参拝者を待っている。

もう1時間もすれば終えるという。



そのころにやってきた参拝者は村の女性。

時間の都合がとれなくて遅れたと云う。

お参りを済ませば当番垣内の人がお下がりのお菓子を手渡す。

丁重なお礼に頭を下げた婦人が走り去ったあともお参りがあった。

保育園に通っている我が子を迎えに出かけた母親が戻ってきた。



車から降りてすぐさま地蔵さんに駆け寄る二人の女児は手を合わせて拝む。

お菓子がもらえるから拝んでいるようには見えない女児の参拝。

たぶんにいつもそうしている自然体の参拝に感動する。

昔の昔は地蔵さんに呼び名はなかっただろう。

いつしか慣例が発生したことによって呼び名がついたと思われる腰痛地蔵。

腰痛になった人がいた。

この地蔵尊にあった1本のツチノコ(木槌)を家に持ち帰った。

持って帰った木槌を痛みがあった腰をトントンと打って叩いた。

すぐに効果がでるものではなかったが、何日も続けていた身内のおばあさんが治ったという。

こりゃご利益があったのだと新しいツチノコを作って地蔵さんに奉納した。

どれぐらいの間があるのかわからないが、何べんもそうしていると若い女性がお参りに来た。

そういう効果があると聞いて同じように持ち帰って腰をトントンと叩いていたら治った。

そういうことから始まった願満のお礼。

時代は不明であるが、願掛けで治ったというありがたい地蔵さん。

ご利益があったと伝わって広まったものと考えられる民間信仰。

洗うのも処分するのもたいへんであるが、信心する人たちのご利益に貢献できるのが嬉しいと当番垣内の人が話す。

この日の行事を終えた当番垣内の人は幕や地蔵さんに着せた涎掛けは次の垣内に廻すという。

なお、前述した勧請縄掛けの行事日は大晦日ではなくなったという。

4、5年前になにかと忙しい大晦日を外してその直前の日曜。

つまり12月の最終日曜日に移したという。

(H28. 7.18 EOS40D撮影)

矢田原町春日宮神社月次祭の余韻

2016年12月14日 08時50分17秒 | 奈良市(東部)へ
もしかとしてこの日にトウヤ(戸座)送りが行われるのではと思って出かけた奈良市矢田原町の春日宮神社。

着いた時間は午前10時。

境内にはどなたもおられなかったが、ガラス越しに見えた社務所に人影が。

近づけば男性が声をかけられる。

事情を伝えたら、トウヤ送りは六軒それぞれが個々にしていたという。

トウヤを充てる漢字は戸座。

六軒あるから六戸座。

これまで一年間も担った6人のトウヤはそれぞれにあたる次のトウヤに送る。

送るのは話の内容から想定して、箱のように思える。箱にはトウヤ勤めの素襖衣装や烏帽子などを納めてあるように思った。

送りの箱を受け取った家がこれから一年間を勤める。

いわゆる引き渡しであるが、儀式らしきものはないという。

「今日のトウヤ送り、お願いします」と云ってそれぞれが引き渡す。

すべての引き渡しが終わればトウヤ長と呼ばれる六戸座の代表が幣をもって神社で祓うらしい。

生憎、拝見できていないので想像をかきたてる。

今年は朝早くに行われたが、その時間帯を決めるのもトウヤ長の役目。

金を集めて決めるようだ。

戸座は籤で決めるわけではなく、家の廻り。

集落の垣内戸数の関係もあるが、だいたいが10~12年の廻りになるらしい。

戸座の出番は10月のヨミヤとマツリ。

ヨミヤの朝は御供餅搗きから始まる。

六戸座、それぞれの家で餅を搗く。

一戸座当たりの餅米の量は決まっている。

三升に一臼。

餅を盛るのは半切り若しくはフゴ。

いずれであってもオーコを担いで神社まで運ぶそうだが、時間帯は特に決まっていない。

御供を運んでからの夕刻。

というよりも夜時間になるころになれば六戸座それぞれのお渡りがあるらしい。

家を出発した戸座の人たちは烏帽子被りに白装束。

装束は素襖(裃かも)のように思える。

戸座だけなのか、他の人ももつのか、聞きそびれたが何人かが松明を持って神社まで向かうようだ。

神事後を終えたらゴクマキをすると話していた。

また、翌日のマツリに供える神饌にザクロやショウガ、ドロイモ、ユバにコブもあるという六人衆。

88歳の一老から82歳の六老までの長老は年齢を感じさせないお顔だ。

一同が揃っているので撮ってほしいと願われてシャッターを押す。

その中におられる一老のKさん。

本日の朝8時にトウヤ送りされた衣装箱を受け取ったそうだ。

ところでこの場におられる白い服を着た男性がおられる。

どこかで見たことがあるご仁である。

男性はこの日の神社行事の月次祭を斎主された宮司さん。

「何年か前に連載してはった産経新聞の記事を保存している」というのである。

産経新聞といえばたしかに、執筆・連載していた。

「やまと彩祭」のシリーズ名で奈良県内の伝統行事を紹介してきた。

平成22年の1月初めより、あしかけ1年間の毎週、48回に亘って紹介してきた新聞を保存しているという人はこれまで何人かおられることは知っている。

まさか、この場で遭遇するとは・・・。

そこで思いだしたのが男性のお顔。

平成22年3月24日に新聞紙上で発表した「奈良市田原の祭文語り・おかげ踊り」に登場されていた錫杖振りのMさんだった。

Mさんが神職であったことはまったく知らなかった。

矢田原町でお会いするとはまさに奇遇である。

この場でお聞きする戸座のことやマツリ行事などの他に村行事も教えていただいた。

六人衆が立ち会う行事に正月初めの初祈祷がある。

念仏があるのか、所作はどうなのか聞きそびれたが、愛宕さんやお伊勢さんに参る代表者を決めるフリアゲがある。

いわゆる代参決めである。

愛宕さんやお伊勢さんに出かけてお札を拝受されて村に持ち帰る人はそれぞれ2人。

籤を入れて茶碗でフリアゲする茶碗籤は是非とも取材したいと思った。

ちなみに今年の代参が授かってきた火迺要慎(ひのようじん)の護符がある。

3月20日に行われたこども涅槃の会場になる集会所の炊事場でも拝見した護符は神社社務所の炊事場にも貼ってあった。



炊事場は火を使う場所。

防火のために拝受した火迺要鎮の護符は京都の愛宕さんでもらってきたもの。

火伏の神さんの愛宕さんは「阿多古祀符(あたごしふ)」。

一度見れば目に焼き付くお札の文字である。

ちなみにこの一枚は、平成28年10月29日から12月11日まで行われた奈良県立民俗博物館の企画写真展の「わたしがとらえた大和の民俗―住―」に展示させてもらった。

春日宮神社は20年に一度のゾーク(造営)がある。

前回のゾークは平成18年3月25日。

記念の写真を掲げていた。



それより以前のゾーク祭典には獅子舞も登場した。

獅子舞の組は天理市櫟本に住んでいたとされる「タダケンジ組」。

30年前のことであるが、現在は解散されたのか来ることはないようだ。

「タダケンジ組」の名は他村でも聞いたことがある。

平成24年4月に訪れた奈良市誓多林町の住民が話していた組の名は伊勢の大神楽と云わずに「多田ケンジ」だった。

おそらく同一人物の組であったであろう。

(H28. 6. 1 EOS40D撮影)

矢田原の子供ねはん

2016年10月04日 08時35分40秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市の東部山間地域に数多くの子どもが主役の行事がある。

彼岸の中日ともなれば各地域の子どもたちはもてなく「ヤド」の家に集まって一日中遊んだという。

それが子どもの涅槃。

涅槃講が訛って「ねはんこ」或は「ねはんこう」と呼ぶ地域もある東部山間は昭和32年に奈良市に合併するまでは添上郡田原村(明治22年合併)と呼ばれていた。

属する村は茗荷村、此瀬村、杣ノ川村、長谷村、日笠村(※1)、中ノ(之)庄村、誓多林村、横田村、大野村(※1)、矢田原村、和田村、南田原村、須山村、沓掛村(※1)、中貫村の15ケ村。

うち、子どものねはん(子供涅槃)が行われている地区は、日笠村、中ノ(之)庄村、横田村大野村、矢田原村、和田村、南田原村、須山村、沓掛村の9ケ村である。

昭和30年より以前に途絶えた茗荷村にもかつてはあったようだ。(※1)は涅槃図を掲げる地区

矢田原の子供ねはんに訪れるのは実に10年ぶり

彼岸の中日は春分の日の祝日。

この年は3月20日の日曜日。

この日に県内で行われる行事は35事例もある。

私が知る範囲内でこの数。

調べてみればそれぞれの地域でもっと多くの行事があるに違いない。

行事日が重なる場合、取材地はどこを選ぶのか悩ませる。

仮に一年に一例とすれば35年間も要する。

とてもじゃないが、私の今後の人生期間に間に合うわけがない。

2度目はたぶんに行けないだろうと思っていた矢田原の子供ねはん行事はたまたまの出合いで優先することにした。

神戸からわざわざ来られる写真家のKさん。

滋賀県の民俗取材が主なフィールドで腰を据えているが、奈良県はもとより三重県、兵庫県、京都府、大阪府、和歌山県、福井県、石川県、鳥取県、岡山県、香川県、愛知県、岐阜県・・・長野県・・・群馬県・・・東京都までも。

広範囲に亘る民俗行事取材の行動範囲に圧倒される彼女に同行させていただくことにした。

矢田原は1・2組と3・4・5組に6・7組の三つに分けていると話してくださったのはこの年の年番さん。

今ではねはんの場と云えば村の集会所であるが、かつてはもてなす「ヤド」と呼ばれる家で行われていた。

彼岸の中日に行われている子どものねはんであるが、会式もなく涅槃図を掲げることもない。

旧田原村で行われているねはん行事に涅槃図を掲げる地区は日笠、大野、沓掛の3地区だけだ。

涅槃行事ではあるが、どことも彼岸の中日でもなく、お釈迦さんが入滅した15日でもない。

学校が休みの春休み期間中に行われている。

当番家の「ヤド」は1・2組と3・4・5組の2軒。

ご主人だけでなく婦人も。

それぞれの「ヤド」家とは別に「アト」と呼ばれる前年の「ヤド」家もあれば、「サキ」と呼ばれる翌年に「ヤド」家を務める家もある。

いわば「アト」は経験者で「サキ」は見習いである。

しかもだ、3・4・5組には「ヤド」が2軒。

「本ヤク」と「前ヤク」である。

「本ヤク」は今年の務めで「前ヤク」は「前もってのヤク」の意であろうか、「サキのヤド」でもありそうだが、複雑な当番ヤドの決めごとは何回聞いても難解で、整理するところまではできなかったように思える。

そう思ったときに話された「アト」「サキ」。

昔は「ヤド」だけであって、「アト」「サキ」という制度はなく、親戚や兄弟を呼んで賄ったというのだ。

おそらくは時代変遷とともに変革があったのだろう。

平成21年3月に奈良県教育委員会が発刊した『奈良県の祭り・行事 奈良県祭り・行事調査報告書』に書いてあった矢田原地区のかつての区割り表記。

大きく分けて上・下地区がある。

上は村を南北に流れる川を挟んで川西と川東両地区に分けていた。

下地区は北と南に分かれていた。

現在の区割り表記は組単位。

上地区の川西は1・2組。

川東が3・4・5組で下地区は6・7組であった。

この年の年番さんが云うには上村の1・2・3・4・5組は「甲番」。

6・7組の下村は「乙番」に分けているという。

矢田原の子供ねはんは1・2組の上村・川西、3・4・5組の上村・川東に下村の6・7組、三つそれぞれの地区ごとで行われていた。

お堂でしていたという6・7組の子どもねはんは昭和10年の記録によれば女子も参加していたようだ。

下村にあったお堂は茗荷町との境目辺り。

駐在さんの近くにあったお寺だという。

寺名は万(萬)福寺。

本堂には阿弥陀さんが安置してあったそうだ。

また、下村の南地区では特殊な膳もなく、子どもたちがいただくご飯のタネになるお米集めをしていた。

村の各戸を巡ってお米やお金を貰う動きもあったが、平成13年ころに途絶えた。

それより以前の平成元年。

少子化の時代を迎えて子どもたちの姿が少なくなった。

時代に対応できるようにと1・2組と3・4・5組は合同で行うようになった。

1・2組は20戸。

3・4・5組は30戸。

それぞれが持ち回りで「ヤド」家を務める。

この年に務めた1・2組の「ヤド」は昭和44年生まれのNさん。

かつては特殊な膳とか飯を投げることもなかったという。

そういうえた体験がなかったということだ。

20戸で廻る「ヤド」家で経験したときの記憶であるが、今年は膳も飯投げもある。

Nさんがいうには一旦は途切れて、20戸を一回りして元に戻った年に復活したという。

一方、3・4・5組の「ヤド」は昭和25年生まれのIさん。

昔からずっと膳もあったし、飯投げもあったという。

組によっては在り方が違うようだ。

ところがだ、1・2組のNさんが云うには飯投げの記憶がある。

お椀に盛った飯を天井に目がけて投げた。

米粒が天井に付いたら願いが叶う。

天井板をぶち抜くぐらいの勢いで投げるよう周りにいる人から声がかかる。

かつては「ヤド」の座敷で飯を投げていた。

勢いがついて蛍光灯に当たったら怪我でもする可能性があると思われた家は外していたという。

天井に当たった米粒はネズミのエサ。

天井裏に住む福神さんへ捧ぐ飯でもある願いは子どもの繁栄というから子孫繁栄のことだろうか。

飯が天井に当たれば村は五穀豊穣。

そういうときは大人の人たちから褒められたと話す。

飯投げをするのは中学生。

15歳で卒業するまでのひと仕事である。

話したNさんは昭和28年生まれ。

先に話し手くださった「ヤド」家のNさんより一回り以上の年齢は17歳差。

膳や飯投げ経験の有無は年齢の差であったことが判った。

上座のテーブルに置かれた膳は二つ。

左にある膳は朱塗り椀に盛った飯が二杯。

一つは粳米で炊いたシロゴハン(白飯)。

もう一つは餅米に小豆を入れて炊いたセキハン(赤飯)である。

いずれもラップで包んでいる。

右にある膳が特殊である。

手前に置いてある二本の枝木。

それはタロの木の枝で作った一善の箸である。

タロの木は一般的名称でいえばウコギ科の低木落葉樹のタラノキ(タラの木)だ。

春近しのころに芽生えするタラの芽は春の恵みの一つ。

天ぷらにして食べたらとても美味しい。

近年、3月初めころともなればスーパーでも売ることが多くなった。

場合によっては揚げたて天ぷらとして売り出すスーパーもあるタラの芽である。

このタラの芽はすくっと立つ直立する一本木。

それには棘が何本も出ている。

これが痛いのである。

痛い棘があるタロの木が何故に箸であるのか。

後ほど行われる子供の所作で理解できる。

棘があるタロの木の枝はもう一つある。

一本を縦に半分に割ったものだが、半切りした一本の断面に朱塗りをしていた。

反対側には色塗りしない白木のままだ。

不思議な形と思ったソレは「ツケモノ」、或は「オカズ」でもあり、その形から「ゴボウ」とも。

いずれであっても食品をイメージしているようだ。

今では20cmぐらいの長さであるが、昔は5cmにカットしたものだったという。

その大きさで白いカワラケ皿に盛っていたようだ。

3組・・・5組もあった記憶があるから大きめの皿のような気がする。

もう一つの記憶がある。

飯はシロメシだけやったというのだ。

60歳前後ともなれば記憶は定かであろうが、先に挙げた『奈良県の祭り・行事 奈良県祭り・行事調査報告書』には載っていない。

その膳にはもう一品ある。

食べ物なのか、何なのか。

細長くくねくねした植物。

周りはイガイガ。

葉っぱのような形と思えば、そうでもあるが・・・。

麻苧のような紐で括っているのは広がないように、であろう。

この植物は「キツネノシッポ」と呼んでいたが、一般的な名称は「ヒカゲノカズラ」だ。

地域によっては「キツネノタスキ」の名がある。

実は平成18年に訪れた際は「キツネノタスキ」と呼んでいた人もいたのだ。

「シッポ」であっても「タスキ」であっても毛皮のように首に巻き付けたらえらいことになる。

ところが実は、「ヒガゲノカズラ」は柔らかいのである。

イガイガのように見える部分は尖がってはいない。

硬くもない。

見た目がそう思えるだけであるが、タロの棘は間違いなく痛い。

かつては「キツネノシッポ」も「タロ」も子供が採取していた。

中学生が生えている処へでかけて採取して集める。

持って帰ってきた材は小学生の年長さんが作る。

年上の者が年下の子どもに伝えていく在り方だったが、今では大人が行く役目。

植生する場所が限られているし、高く育ったタロの木を伐採するには手が届かない。

そういうことで大人がしているという。

なお、子どものねはんに参加できる一番下は歩けるようになった小児から。

大昔は男児ばかりだったが、昭和10年代はすでに男女児とも参加していたようだ。

こうしてお膳立てが調えば作法が始まる。

上座に着いた子どもは二人。

上はこの4月1日に小学四年生になる子ども。

下の子どもは一年生である。

先に挙げた『奈良県の祭り・行事 奈良県祭り・行事調査報告書』によれば、3・4・5組の川東では中学生が所作していた。

中学三年生が飯を投げて二年生が膳で受け止めるのだ。

飯を投げる子どもは「イグイ」若しくは「イグイサン」の名があった。

史料によれば「イグイ」は涅槃講において招かれる立場にあったそうだ。

二年生が受け止めることを考えてみれば、行事を終えて卒業する三年生から二年生に代の引継ぐ所作のように思える。

が、この年は二人の小学生が真剣な顔で登場した。

対象となる年齢の子どもがいなかったのであろう。

ちなみに同じく史料によれば、1・2組の川西の「イグイ」は高等小学校(尋常小学校)の二年生までであった。

高等小学校の二年生といえば修了時点で14歳。

この最年長者を「イグイ」若しくは「イグイサン」と呼んでいた。

始めの所作は棘がいっぱい出ているタロ製の箸を持つ。

棘があるから持ちにくい。

刺されば痛いのである。

その箸を持って椀に盛られた飯を食べる真似事をする。

「ツケモノ」若しくは「ゴボウ」の名があるおかずも食べる真似をする。

この年は小学一年生の子どもがなぜか所作をする。



なんとも持ちにくいタロの箸に目が白黒、或は点か。

どうしていいものやら悩みながらも所作を終える。

次は飯投げだ。

年長の「イグイ」はセキハン(赤飯)を盛った椀を持つ。

年少の子どもは膳をもつ。

天井を目がけることなく相手側が持つ膳が目標。

ふわっと上に放り投げた。

膳で受け止めれば拍手喝采。

次はシロゴハン(白飯)を投げる。



こういった作法を見つめる少女たち。

視線は投げられた飯の放物線を追う。

「イグイ」を充てる漢字は「飯喰い」であろう。

実際に喰うことはないが、まさに「イグイ」投げの所作であったが、ラップを外すことなく行われた。

ラップなんぞなかった時代はどうであったのか。

たぶんに飯は握って、握って硬くしていたのであろう。

次の所作はキツネノシッポばらし。

括っていた麻苧は鋏で切ってはいるものの、キツネノシッポがイガイガなのでなかなか捗らない。

しっかりと縛った麻苧は絡みつくようになっている。

立てたり横にしたり二人で行う共同作業。

作った人は大人。

外れにくいように括っている。



先が見えないシッポばらしに苦労する。

それを見ていた女児は退屈を覚える。

大きな女児は真剣に見つめている。

その眼差しが美しく光ったかのように思えた。

すべてを外し終えたのは始めてから10分後だった。

簡単には解けないシッポの先がようやく見えてきた。

すべてを解けば内部に詰めていた黄楊(ツゲ)の枝葉が出てきた。

それには麻苧の紐に通した穴の開いた硬貨がある。

「ヤド」家が用意した硬貨は五円玉に五十円玉の二種類。

五百円玉は入れていないと「ヤド」らが云う。



それを持ってあげた子どもの目が笑っていた。

やり遂げたあどけない顔はとても嬉しそうだ。

手に入れた枚数は五円玉が40枚。

五十円玉は30枚だ。

合計金額は1700円。

作法を終えた「イグイ」はこの場に居た子どもたちに分配された。



この年は13人。

町に出た家族も実家に戻って子どもねはんに参加する。

割り切れる金額ではなかったのであろう、「イグイサン」は少々多かったらしい。

分配を決めるのはその年に役する「イグイ」の心もちで決まる。

定めはないということだ。

こうして儀式を終えた子どもたちは「ヤド」の人たちが心をこめて作った料理をいただく。

一列になった子どもたちがよばれるお昼のメニューはヤド家が丹精込めて作ったオードブル料理。ワカメやアオノリのおにぎりにサケのおにぎりもある。

オードブルはカラアゲ、ポテトフライ、ニヌキタマゴ、マカロニサラダ、ソ-セージ、ハム、チキンナゲット、エビフライにプチトマト。

あんたらも食べてやと云われて席につく。

どれもこれも美味しくいただいたお昼のメニュー。

食べ終わってから子どもたちが座ったテーブルを見渡す「ヤド」の人。

料理が残ったものもある。

口に合わなかったのか、それとも多かったのか、翌年の課題にしているそうだ。

今ではこのようなオードブル料理であるが、かつてはイロゴハンだった。

具材はいろいろ。

味付けは聞かなかったがたぶんに醤油と味醂であろう。

そして夜はカレーライス。

昼と同様に集会所でよばれるカレーの味は甘口、辛口もあるらしい。

それからしばらくして3・4・5組の若い男性が昭和63年に行われたときの写真を持ってきてくださった。

私たちが取材にきていたことを親父さんに伝えたら当時の写真を見た方がいいと云って持ってきてくれたのだ。

若い男性は昭和55年生まれ。

親父さんは65歳というから私と同年代になる。



その年は集会所ではなく、Ⅰさん宅の「ヤド」家であった。

シロメシ、セキハンに長めのゴボウが膳にある。



セキハンを投げる「イグイ」の姿も撮っていた。

記念の写真は貴重な記録。

大切にしてくだされとお返しした。

なお、Iさんのご厚意をいただいて当ブログに掲載させていただく。

ちなみに1・2組「前ヤド」の昭和28年生まれのNさんの話しによれば今では上村に鎮座する春日宮神社はかつて下村にあったそうだ。

何時の時代か判らないが、洪水が発生したら神社が流されるおそれもあると決断されて上村に遷したそうだ。

ネットによれば元地は「ミヤイナバ」。

おそらくI家があった場ではないだろうか。

(H28. 3.20 EOS40D撮影)

柳生山脇山ノ口講の山の神

2015年09月01日 09時36分10秒 | 奈良市(東部)へ
5年前の平成21年12月19日に訪れた奈良市柳生町山脇。

大きな岩下に山の神を祀った祠があった。

その前にナンテンの木が植生する。

そこにぶら下げていた斜めに切った細い竹を二本重ねたモノ。

名前は判らないが、山の初仕事に入る前に赤い実をつけたナンテンの枝木を挿していた。

村人の話しによれば、山の神に参って、山仕事の安全や無事を願って、拝んでから山に入ったと云う。

山脇垣内の他、7軒の人たちそれぞれがぶら下げて、山に入り、もう一つの竹に挿したナンテンを供えていると話していた。

日程は固定でなく12月初めの日曜日。

早朝に参った数時間後の11時に参集する。

米粉を水で練ったシトギを重箱いっぱいに入れて供えて拝む。

シトギはとんどを燃やして焼く。

そのままでは焼くことができないのでバランの葉の上に置いて焼く。

味はないと云っていた。

そのような話しを聞いて5年目。

山の神参りの様相を拝見いたしたく第一日曜日の7日に訪れた山脇垣内。

当番にあたる男性が山の神の下でとんどを燃やしていた。

昔から第一日曜日だったと云う。

山の神を祀った祠は平成25年に建て替えた。

屋根は恒常性を保つため銅板に葺き替えた。

内部には小幣を祭っている。

その祠の背部が山の神だと思うと話す。

背部は大きな岩である。

かつては自然崇拝として崇めたのであろう。

いつから山の神に参るようになったのかは若い私たちは聞いていない。

山の神と云えばとんどを燃やして賑やかだった。

とんどにサツマイモを埋めて焼いた。

それが美味しかった。

もう止めようかと思っていたが、今年もすることにしたと話す当番さん。

前回に供えていた竹の筒を見本にして作ったと云う。

本来なら節と節の中央辺りを竹の皮一枚残してそぎ取って背中合わせするのであるが、この年は簡略化されて二つに割って先を斜めに切ったものを背中合わせに括った造りにしたようだ。

その場にやってきた婦人は昭和12年生まれ。

山の神の左手にある家で生まれ育ったと云う。

嫁入り先は柳生町。

近くに住んでいるので毎年こうしてやってくると云う。

婦人が話すに、山の神に集まるのは山脇垣内周辺の他垣内を含めて7軒。

山の口講と呼ぶ7軒は山をもっている家だそうだ。

昔は山行き。

ナンテンの実を供えて炭焼きとか、山の仕事に行くときにナンテンを供えて山の神さんを拝んでから山へ出かけていったと云う。

山に入るのは割り木を作ったり、炭焼きをするのが仕事。

ヤマキリ(山伐り)の仕事に行くときはナンテンを挿した竹筒を山に持っていく。

「お酒も供えたやろな」と云う。

ナンテンの実を添える竹筒は三つだったと思うと話す。

婦人が子供のときからしていた。

家の前だったからとんどの火にあたっていた。

これが楽しみだったと云う。

とんどには講中以外の村人も火にあたりに来たそうだ。

はっきりとは覚えてないが、「12月7日やったかな」と話す。

バランの葉にシトギを乗せて焼く。

シトギはお米を水に浸けて柔らかくした。

スリバチに入れてスリコギで細かくすり潰す。

とろーんとしたシトギをバランに乗せて焼いて食べる。

その日は「やまのくち(山ノ口) やまのくち(山ノ口)」と口々に云っていたと思いだされる。

そのような話しを伺っていた時間帯。

子供を連れた人たちや老婦人もやってきた。

さっそくあたるとんどの火。

囲んで談笑する。

賑やかな様相になってきたとんどに長老も。

山の神の横にある家のご主人は今でも山行き仕事をしている。

ナンテン添えの竹筒は二つ用意する。

一つは山に行く人が出かけた山に持っていってぶら下げる。

もう一つが山の神さんのナンテンの木にぶら下げる。

昔はいっぱい吊っていたと云うだけに山仕事の人たちが多かったのであろう。

山の神さんに参る日は12月初めの申の日だったと云う男性は昭和15年生まれ。

先ほど昔の様相を語ってくれた婦人のお兄さんだったのだ。

男性はナンテンの実を添えた竹筒は「ゴンゴ」と呼んでいた。

「山ノ口講」は山行き仕事をしていた7軒。

山入りする日は「山の口」。

いわゆる山の口開きであろう。

その名を付けた山の仕事仲間の講中が「山ノ口講」だったのだ。

ちなみに当番のTさんを手伝っていたもう一人の若い男性は息子さん。

親父さんから始めて聞いた「山の口」の日である。



その場をハイカーが通っていった。

「今日はイベントですか」と云うハイカーたちには山の神参りのことは知ろうともせずに680m先の「一刀石」に向かっていった。

「一刀石」の場は柳生町在住の石田武士宮司の案内を受けて平成22年8月22日に訪れていた。

拝見した場は天岩立神社手前の山の石仏。

ここで役行者さんたちがサカキ立てをされてお坊さん(おそらく真言宗立野寺)が錫杖を振って作法をする雨乞いの行事であると聞いた。

聞いてはいるものの未だに訪れる機会を得ていない。



山の神参りはそれぞれの講中単位だ。

そろそろ始めようかとローソクに火を灯した当番が声を掛けた。

家族連れ、或いは個々に手を合せる山の神参り。



念仏を唱えることもなくただただ手を合せて交替する拝礼である。

かつては老婦人の何人かが山の神の前で念仏を唱えていたらしい。

「もう忘れてしまった」と云って手を合わした。

お参りはこれだけだ。

供えることもなかったセキハン。

モチゴメで炊いたセキハンであるがアカメシと呼んでいた。



お重に詰めたセキハンは箸で摘まんで手渡す。

受けるのは手だ。

いわゆるテゴク(手御供)の作法であろう。

受けたセキハンはバランの葉に乗せていただく。

手で掴むことなく葉を口元に寄せていただくのだ。

もっちりしたセキハンは甘くて美味しい。

私も味わうありがたい御供いただきである。

セキハンをいただいたバランの葉。

今度はシトギが配られる。



お玉で掬ったシトギをバランの葉に注ぐのだ。

どろりとしたシトギは平らに広げる。

べたーとした感じに盛るのだ。



それを下火になったとんどで焼く。

直に焼けば葉が燃えてしまうので鉄製の編み焼きをとんどに置いていた。

そこにめいめいが置くシトギ乗せのバラン。



火の勢いで燃えることもある。

しばらくすれば周りに焦げ目がついたシトギ。

白っぽかったシトギは半透明色になった。

もう少し焼けばひびが入る。

そういう状態になれば食べごろである。

焼けて焦げたバランごといただくシトギの味。

まるでカキモチのような味である。

カキモチもシトギも原材料はお米。

甘くて美味しいお米の味なのだ。

当番が云った。

「今年は隠し味を入れてみた」である。

どおりで甘い味がするシトギに感動する。

とんどを囲んで世間話をする婦人たち。

柳生では「ハミ」を「ハメ」と呼んでいたので驚いたという婦人の出里は山添村だった。

とんど場の横に立ててあった二股の木。

それを「マタギ」と呼んでいた。

洗濯干しにも使う「マタギ」はクリやカキの実を採る道具にもなる。

その場合は「ハサンバリ」と呼んでいる。

「ハサンバリ」は「挟み張り」。

枝が張っているからそう呼ぶと云う。



そのような会話をしていた「山ノ口講」の人たち。

時間ともなれば会食に出かける。

かつては当番の家でもてなす会食の場であったが、負担を避けるために近くの料亭を利用するようになったと話す。

山脇の長老が「ゴンゴ」と呼んでいた竹筒。

この月の1日に訪れた奈良市茗荷町。

イノコのクルミモチを作っていたOさんも同じように「ゴンゴ」と呼んでいた。

茗荷町を含めた田原の里の幾つかの地域では山の神参りがあるらしい。

1月10日辺りだったという山の神参りは「山の口」。

いわゆる山仕事に入る日である。

参る際には「ゴンゴ」と呼ぶ竹で作った筒に酒を注いて供える。

節目、節目を残して竹を伐る。

中央は竹の皮一枚を残して伐る。

細くなった部分を曲げてできあがった竹筒に酒を注ぐと話していた。

「ゴンゴ」は決して「五合」が訛ったものではないようだと云ったのは奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲さんだ。

写真家のKさんが調べた室生市史によれば「ゴンゴ」と書いてあったそうだ。

また、十津川の大字旭では竹筒を「タケノゴンゴ」と呼ぶようだ。

「ゴー」と呼ぶのは大字竹筒であると「十津川かけはしネット」に書いてあったが「ゴンゴ」を充てる漢字は一体何であろうか。

類似例を調べなくてはならない。

(H26.12. 7 EOS40D撮影)

茗荷町イノコのクルミモチ

2015年08月31日 08時47分45秒 | 奈良市(東部)へ
先月の11月16日に「なら民博ふるさとフェスタ」で千本杵の餅を搗いていたOさんは田原の里の住民だ。

家族総出でやってきた。

県立大和民俗公園内に動態保存されている旧臼井家住居前広場で披露されていた。

訪れた人たちがリョウブ(サルスベリ)の木の千本杵で餅を搗いていた。

1回目は興味をもった人たちが群がるように搗いていた。

搗いた餅はふるまい。

キナコを付けた餅を味わっていた。

キナコの原材料は青大豆。

スーパーで一般的に売られている。

この年の「私がとらえた大和の民俗」写真展は「食」が大テーマだ。

私は「干す」をテーマに3点を発表した。

キリコモチ・キリボシダイコン・カンピョウにソーメンの天日干し景観である。

その後も探し続けてきた「干す」モノモノ。

稲架けもあれば梅干し、吊るしカキもあった。

11月ともなれば畑でハダに掛けてあった豆干しもある。

干した豆はどのような形の「食」になっていくのか、農家の作業を通して記録しておきたいと思った。

「キナコ」が引き金に思い出した亥の日に作られるイノコのクルミモチ。

毎年の12月1日は家で作って食べているというOさん。

平成19年にも伺ったことがあるO家のイノコのクルミモチ。

千本杵で餅を搗いて石臼で挽いた大豆を餅に塗して食べるのだ。

挽いた大豆は大量の砂糖を塗して餅にくるむ。

東山間の民家では「クルミモチ」を作って食べる家は割合ある。

何軒で行われている事例を収録させていただいた。

多めに作ってくださったイノコのクルミモチはパックに詰めてもらって持ち帰った。

その味がとても気にいったかーさん。

もっぺん食べたいとこの季節になれば口にする。

そんな話しをすればO婦人が食べにおいでと云うのだ。

ありがたい言葉についつい甘えてしまう。

O家に関係する学芸員や知人のカメラマンにも声をかけた。

Oさんは田原の里の情景をとらえているカメラマンにも声をかけた。

その人たちもともに行動することもある知りあいである。

奥さんの都合もあるし、仕事の都合もあって午後にセットしたイノコのクルミモチ作り取材。

モチ搗きは早めたいと電話が入った。

仕事は休むわけにはいかない。

直ちに手配して3名は先に行っていただくことにした。

仕事が終わったのは午後1時過ぎ。

昼食を摂る時間もなく急行する。

1名は昼過ぎに着いていた。

搗いたモチは千本杵。

Oさん夫妻とともに搗いたそうだ。

できあがったモチは砂糖をいっぱいいれたクルミで食べていたと話す。

O家のクルミは茹で大豆。

クルミの実も入れて挽いたそうだ。

搗いた餅をある程度の大きさにちぎる。

手で丸めていく。

どっさり作って下さるO夫妻。

ミキサーで挽いた茹で小豆を上から落として塗す。

砂糖は混ぜなかったので上から振りかけた。

少々では美味さを引き立てられない。



たっぷり落として食べたイノコのクルミモチはやっぱり美味しい。

とろとろ感もあってクルミモチは1個ですまない。

何個も何個もよばれてしまう。

皿にはキナコモチもあるが、断然うまいクルミモチ。

前回に挽いてもらった豆は青大豆だった。

こっちのほうが香りもあって上をいく。

この日は毎月初めに六人衆がいとなむツイタチ参り。

パック詰め料理をいただいたとテーブルに置いてあった。

仕出し料理なのか、それとも手作り料理なのか聞くことも忘れてよばれてしまう美味しさだ。

茗荷町には氏神さんを祀る天満宮がある。

秋祭りは隣村の中之庄町に鎮座する天満宮で両町合同で行われる。

宵宮に千本杵で餅を搗いて夜には子供相撲があると聞いている。

その日だったか、宵宮だったか覚えてないが、マツリの最中に当家渡しが行われることも聞いている。

Oさんがいうには「ネンニョ」の引き継ぎのようだ。

今年に勤めたネンニョは3人。

次のネンニョを勤める人も3人。

向かい合わせに座って酒を飲む。

酒杯を注ぐのは自治会長。

波々と酒を注いで飲み干す。

その際にはザザンダーと呼ぶ謡曲を披露される。

一曲謡って飲み干す。

これを繰り返すネンニョの引き継ぎに使われる酒盃は「武蔵野」と呼ばれる朱塗りの盃である。

武蔵野膳に置かれた大小5枚の盃。

どの盃で飲むのかはネンニョが希望する大きさだ。

酒好きなら大を。

少し落として3杯目の盃になる場合もあるらしい。

酒を飲んで次のネンニョに残り酒を渡す。

次から次へと飲み渡す。

いわゆる廻し飲みである。

こうして引き継ぎをされる。

何故に盃を「武蔵野」と呼ぶのか。

武蔵野はとても広くて見尽くせない。

大きな盃に注いだ酒は「のみつくせない」。

とてもじゃないが、ひと息では飲みきれない大きな盃という洒落でその名がついたようだ。

奥さんが炊いてくれた栗ご飯もでてきた。

ほくほくの栗ご飯も美味しいのだ。

酒杯をいただきたいが、そういうわけにはいかない。

飲酒運転では帰れない。

辛いが香りだけとする場はまるで忘年会のような感じになってきた。

この前に干したというズイキを持ってこられた。

太めのズイキは赤ズイキ。

細めの棒に挿して吊っていたそうだ。

ズイキは水に浸けて戻す。

熱湯で茹でてアク抜きをする。

アゲとともに炊いて味付けする。

それより美味しいのは酢和えである。

甘酢に浸けていただくズイキは酒のアテによろしい。

それがいちばんだと話すOさんが続けて話した風習。

干しズイキは産後の祝いの土産折りの上に乗せて持っていったそうだ。

ズイキを寄せた祝いの品は「血が湧く」という意味がある。

産後は貧血症に陥りやすい。

そういうわけがあって産後祝いにズイキを寄せるのである。

田原の里には各地域で十九夜講がある。

以前は毎月の19日が集まりの日。

寄ってくるのは若い婦人たち。

姑の悪口を言える場でもあった。

昨今は地域によって異なるが中之庄では春(3月)、夏、秋の三回。

いずれも19日にしていると云う。

朝に境内などを清掃して昼ごろには炊き込みご飯を炊いてよばれる。

それから唱える十九夜念仏。

「きみょうちょうらい・・・」の念仏を思い出す。

十九夜講は此瀬町にもあるという。

田原の里の幾つかの地域では山の神参りもあるらしい。

1月10日辺りだったという山の神参りは「山の口」。

いわゆる山仕事に入る日だ。

参る際には「ゴンゴ」と呼ぶ竹で作った筒に酒を注いて供える。

節目、節目を残して竹を伐る。

中央は竹の皮一枚を残して伐る。

細くなった部分を曲げてできあがった竹筒に酒を注ぐ。

柳生で聞いた神酒入れ竹と同じ様相である。

柳生では木の枝にぶら下げていた。

中之庄では山の神を祀る祠がある。

そこに参るようだ。

でかけるのは男たちだけだ。

山の神は女。

婦人は参ることはできない。

逆に十九夜講は婦人だけ。

男はその場に加わることはできない。

マツリ参拝に男女の棲み分けである。

話題はつきないイノコの日。

この年の亥の日は3日であるが、茗荷町では12月1日に決まっている。

O家の前は旧伊勢街道。

かつては往来する伊勢参りの人たちで賑わったそうだ。

今では旧街道を行く人は文化歴史を訪ねる人しか見られない。

多くは北にある車道を闊歩する。

横田町を通り抜ける車道は昭和の時代に新設された。

完成したときには祝いの渡り初めがあった。

渡り初めをする人は夫婦三世代。

揃ってなければ渡ることはできない式典であったと話す。

そのような式典は月刊「田原」に書いてあるらしいが探すのは困難だった。

開けた昭和11年2月の記事には多くの子供たちが寄せた「大じしん」があった。

マグニチュード6.4の大地震は大阪・奈良府県境で発生した河内大和地震であったろう。

奈良県内の地震に昭和27年7月18日に発生した吉野地震があった。

そのころはまだ一歳だった私はまったく記憶がない。

話題はあっちことに飛んでいく。

「天然の麹菌を見たことがあるか」、である。

天然どころか麹菌そのものは見たことがない。

Oさんの話しによれば、実った稲穂が出穂するころに黒い粒が着く。

それがカビの塊の麹菌。

「稲霊(いねだま)」と呼ばれる麹菌が出穂すれば豊作になると云われているが関係性は証明されていない。

平坦ではおそらく天然の麹菌を見ることはなさそうだ。

薬剤散布によって発生することはない麹菌。

自然農法では希に発生すると云い、脱穀しているときに見つかる場合もあると話す。

黒い塊に混じって自然発酵した麹菌は白っぽかったそうだ。

黒と白を分けるのが一苦労したと云う。

話題は尽きないO家。



そろそろ始めようかとわざわざ座敷に置かれた石臼。

挽く棒はないから上部の石を手で回すしかない。

ぐるぐる回す石臼回転は反時計回しだ。



茹でた豆を穴に落とし込んでぐるぐる回す。

けっこうな力が要る。

「あんたが今回の発案やから、やってみなはれ」と云われてぐるぐる回す。

始めは重たい石臼。

しばらく回せばやや軽くなった。



豆が挽かれて汁がでる。

それで軽くなるのだ。

茹で汁を入れてやればもっと軽くなるといってスプーンで掬った茹で汁を投入した。

明らかな違いがでる。

何度も何度も回転していけば上部・下部の合せ目から液体がずるずると出てきた。

これが大豆を挽いた、というよりもすり潰した液体状のクルミである。

かつておばあさんは一人でこなしていた。

左手で臼を回して右手で茹で大豆を落としながら作業をしていたと云う。

何十回も臼を回していたら汗がじんわりと湧いてきた。

労働は汗をかくものだ。

労働体験は汗を流して民俗を知る。

クルミの液体は下に流れ落ちる。

どろっとした固体がクルミになる。

それを包丁の刃でぬぐい取る。

今回はスプーンでしたが、それでは取り難い。

知人たちも入れ替り立ち替わり交替して汗を流す。

この日の体験は講演など身振り手振り、なんらかの形で伝えていきたいと思うのである。

貴重な体験ですり潰したクルミ大豆はきめが細かい。

お土産にいただいたクルミはミキサー挽き。

食感は石臼に軍配を挙げる

(H26.12. 1 EOS40D撮影)

阪原南明寺重陽薬師会

2015年04月08日 08時07分39秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市阪原に建つ南明寺は真言宗御室派。

いずれも重要文化財に指定されている本尊薬師如来・釈迦如来・阿弥陀如来の藤原三仏を安置している。

本堂に初めてあがったのはこの年の3月16日だった。

その日は南明寺の涅槃会だった


すべての扉は閉められた本堂は真っ暗闇。

ローソクの灯りや僅かに挿しこむ日中の光りに見えた涅槃図であった。

大きな涅槃図の後方にあるのが三仏だ。

この日、初めてお会いした住職は平成14年に副住職。

平成21年より住職を勤めてきた米田弘雅住職である。

涅槃会を終えてご挨拶をさせていただいた。

取材の意図、心がけなど話せば、「そうであれば、写真を撮ってもらってよかったのに」と伝えられた。

その後、阪原で行われた地蔵盆に念仏を唱えられた住職。

顔は覚えてもらったようで、これより始まる重陽薬師会の撮影許可をいただいた。

但しである。

本堂での立ち位置は限定。

中央は決して入らない。

立ち位置は決めた以上、その場から動いてはならぬ、ストロボは厳禁であるというお達しである。

涅槃会の際にご挨拶をさせてもらった檀家総代らも私の顔を覚えておられた。

ありがたいことであるが、入堂許可をいただいたのは私だけだった。

舞楽を奉納される天理大学の記録係は本堂柱、若しくは本堂内。

決して法要の妨げにならないよう気を配る緊張したなかでの撮影となった。

平安時代に寺を再興したという公家の信西入道(藤原通憲)を偲び、長寿を祈る重陽薬師会を興したのは平成18年。

舞楽や読経の後、菊の花を浮かべた酒を振る舞われる。

本堂にあがる人たちは大師講の婦人もおれば、村人檀家も、である。

南明寺に出向く直前に伺った富士講中

お世話になったOさんやYさんも参られた。

受付を済ませば三仏に手を合わせる村人たち。

その前にはたくさんの菊の花を盛っている。

重陽に相応しい菊の盛りだ。

その横には樽酒や菊の花びらを入れた大きな深皿も置いてある。

さらに置いてあった金属鉢には菊の花びらを浮かべた酒もある。

菊の節句に相応しい振る舞いの菊酒である。

南明寺の重陽薬師会法要は、かつて南都や京都の諸寺などで行われていた法要などの次第から新しくした式次第をつくっている。

工夫を凝らした式次第は毎年異なる。

この年は「唄・散華・梵音・錫杖の四声明・作法からなる「四箇法要」に舞楽を加えた法要とされた。

始め1.は「振鉾(えんぶ)」である。

最初に舞われる儀礼的な舞いである。

式次第の詳しいことは受付でいただいた資料に書いてあるが、ここでは以下、引用・略記しておく。

左方(唐楽)と右方(高麗楽)より、それぞれ一人の舞人が鉾を持って舞台に登って場を清めるように振る。

舞い作法は廃絶した東大寺の華厳会の振鉾作法を参考に復元したそうだ。

次は2.「庭讃(ていさん)」。

真言宗では「曼茶羅供」や「伝法灌頂」のような大儀の法会・法要では、堂内に入る前に「庭讃」を唱えられる。

独特の抑揚で唱えた「庭讃」は「四智梵讃」。終わりに鈸が打たれ、法螺を吹く。

次は3.「惣礼」。導師以下職衆が道場に入って本尊や聖衆を三度礼拝する。



次は4.「供花」。本堂奥内より登場した天童、迦陵頻(かりょうびん)が整列して菊花を手渡し仏前に供える。

次は5.「如来唄」。佛の妙なる身体と、その教えの常住なることを称える声明を唱える。



次は6.「散華」。初段・中段・後段の三段からなる声明で各段の終わりに花弁をかたどった紙を散らす。

次は7.「讃」。この年は大日如来の四つの徳を賛美する「四智梵語(しちぼんご)」を唱える。



次は8.「満歳楽」。平舞の四人舞。襲装束の袍を片肩袒にし、鳥甲を被って四人で舞う。

涅槃の場合はすべての扉を閉めた本堂内でお勤めをされていたが、重陽薬師会は舞楽を披露される場と繋げた本堂。

すべての扉を開放する。



外は真夏とも思える日照りで暑いが、お堂の内部は爽やかな風を撫でるように通り抜ける。

次は9.「錫杖」。「満歳楽」を演舞している終わりごろに迦陵頻が錫杖を職衆に手渡していた。

錫杖は僧侶が山野を遊行する際に用いる杖。

錫杖を鳴らして村人に来訪を知らせ、獣を追い払う金属製の環がある。

音色を聞いた人たちが発心修行して成仏することを願った「九条錫杖経」を声明する。

次は10.「延喜楽(えんぎらく)」。「満歳楽」と同じくおめでたいときに舞う平舞の四人舞。

襲装束に鳥甲を被って舞う延喜楽は別名に「花栄舞」の名がある。

次は11.「表白」。導師が本尊前にて仏事の目的や趣旨を告げる。

次は12.「分経」。供花作法と同様に雅楽を奏そうする最中に聴衆が読誦(どくじゅ)する経巻を天童・迦陵頻(かりょうびん)が分配する。

次は13.「神分・勧請」。道場に佛・菩薩・諸神を勧請して読経や法要の功徳を分かち合う。そして、魔隙から法会を擁護する。

次は14.「経釈」。般若心経を講釈する。

次は15.「読経」。般若心経を読誦し、本尊薬師如来などにご加護を願う。

次は16.「惣礼」。法要の終わりに再び本尊や聖衆に三礼して退出する。



導師以下職衆が退出されたあとは、左方舞楽<蘭陵王>を舞う。



17.「入調舞楽」。走舞に属する一人舞である。



この年は徳川宗武(徳川吉宗の息子)が『楽曲考』で考証した舞楽作法に則り奏舞された蘭陵王の舞。

9回目の重陽薬師会は。本尊薬師さんの供養に法要を終えた。

配られた資料には翌年の行事日も案内されていた。

10回目は「十種供養次第による舞楽法要」になるそうだ。

ちなみにこの年の10月26日から11月2日までは本堂が特別公開される。

その本堂で参拝者へ振る舞われる菊酒に行列ができあがった。

(H26. 9. 7 EOS40D撮影)

別所町の花咲かせ運動

2015年02月27日 08時56分07秒 | 奈良市(東部)へ
かつては七日に行われていた奈良市別所町の弘法大師の井戸替え。

七日盆の井戸替えはいつしか第一日曜に移った。

この日がそうだと認識して出かけた別所町。

集会所の前には人だかり。

軽トラには花を積んでいた。

寺や神社行事に度々伺っている別所町。

村の人に聞いた答えは前週に済ませたと云うのだ。

取材は来年に持ち越しだ。

で、この日の集まりはと聞けば、臨時の人足作業。

別所の墓の土手が崩れたことから人足が出動する。

修復作業を委託するには村の費用が要る。

村人のできる範囲であれば人足の作業。

たいがいはそうしていると云う。

別所の人たちは結束力をもって結集する。

この日はもう一つの作業もある。

村に彩りで紡ぐ花壇作りだ。

いっぱい買ってきたお花で村に潤いを広げるということである。

花壇はすでにある会所の前。

プランター花壇に花を植え替える。

それで終わり、ではなく辻ごと3カ所に花壇を設けるのである。

村に帰ってくるときも、客人が来るときも花があれば心が癒される。

村に潤いを与える花咲かせ運動の第一歩である。

人足に出費はないが、お花は買う。

村の出費は大きな金額。

補助金がでるわけでもない花壇の花植作業である。

土手崩れ修復作業の人足は12人。

花植作業は10人だ。

区長・副区長の挨拶とお願いを受けて、力仕事の修復作業は若手が向かった。

花植作業はどちらかと云えば年寄りと婦人たち。

力はそれほど要らないが、手間がかかる作業である。



決めていた辻の一つで始まった作業。

田起しをするように鍬を入れて雑草を掘り起こす。

土を均して整地した場に杭を打ち込む。

長さを測った側板をそこに嵌めこむ。



一方、会所前にあったプランターの植え替え。

Yさんが見立てた並びに買ったポット苗のお花を並べた。

背丈の高い植物に赤やピンク、黄色の花をつけたランタナ類の寄せ植え。

赤い花をつけていた小さなケトは掘り起こして家で再生利用すると云って除けた。

軽トラに積んだ土は山土。

大きい・小さいなど小石がふんだん含まれている。



プランターにポット苗が入る程度に穴を開けて植えていく。

土も入れる植え替え作業は揃って座り込んだ。

その間も次の辻へ向かう男性たち。

道路脇にと決めた場所の地面を掘り起こす。

アスファルトの路面近くだけに小石がごろごろでてくる。



堅い地面はツルハシの出番。

力がいるなと云いながら掘り起こす。

一方では測量した側板を作っている。

丁度の大きさに作った花壇がすっぽりはまるように作業を進める。

花壇作りは地面を均すことから始まる。

雑草を刈り取って均す。

木製の花壇を作る人。

雑草を刈り取る人。

地面を均して花壇を設置する人。

それらの作業が終われば花植え作業。

Yさんと婦人がそれを担う分担作業である。

こうした花壇作りをする合間に別所の景観に見惚れていた。



田んぼの稲はすくすく育って穂をつけだした。

来月半ばには収穫できるであろう。

集落民家をバックに撮っておいた。



少し歩けば角にヤマユリが咲いていた。

近くに寄れば香ってくる甘い香り。

稲の葉の香りもいいが、やはりヤマユリでしょという「・・♪匂いやさしい白百合の♪・・」の唄声が聞こえてきそうだ。

ここも集落民家をバックに撮っておいた。



赤いノアザミや黄色い花も咲いている長閑な別所の田園に癒される。

黄色い花はキク科のルドベキア。



咲いている場から考えれば、植えたルドベキアの零れ種によって野性化したものと思われる。



違う種類のルドベキアも咲いていた。

花壇作りをしていた辻にも民家が建つ。



石垣で組んだ上に建つ白い土壁で囲んだ民家の姿が美しい。



外庭にはアクセントになるヤマユリが咲いている。

正面からも斜めからも、どこから見ても美しい民家の前に壕がある。



黒い鯉が泳ぐ壕にはアオサギが飛んできて食べてしまっては困るからと鳥除けのピアノ線を引いている。



民家の前の田んぼ傍にはアゼマメを植えてあった。

近年はあまり見かけなくなったアゼマメ栽培である。

別所では六所神社の宵宮祭の際に供えるエダマメがある。

神事を終えた座中は当家が配るエダマメをいただく。

これがそうかも知れない。

マツリにエダマメを食する地域は少なくない。山添村切幡では「マメタバリ」という呼び名もあるぐらいだ。

しばらく歩いてみた別所の集落。

点々と建っているが、それほど遠くない。



コスモスの花が咲いていた民家の前には赤い郵便ポストがある。

どことなく風情を感じる山里の景観である。



もう少し下れば郷愁を誘う萱葺き家があった。



屋根は寄せ棟の萱葺き。

別所にはもう一軒の萱葺き民家がある。

度々伺う二老さんの住まいだ。



この映像は平成24年4月21日に撮らせてもらった。

こうした萱葺き民家は隣村の杣ノ川や水間にもあるらしい。

集落民家の散策は心地いい。



午前中は雨も降らずの曇天。

ピーカン照りであれば汗も吹き出すであろう。

散策している間も花壇作りは進んでいる。

木製の花壇を設えて山土を入れる。

スコップで降ろしていたが、面倒だと云って積んでいた軽トラを動かした。

レバーを動かしてダンプを作動する。



一挙に滑り落ちる山土。

レバー操作の程度が難しい。



山土を入れたら買ってきた培養土も入れる。

土をまぜこぜして固まらないようにする。



土が入れば花植え作業。

赤い花が咲く背の高い食物は後ろ。

手前はそれより低い色とりどりの花を植える。



こうしている間も男性たちは移動して辻の花壇に山土、培養土を入れていく。

土入れが終わればそこへ移動する花植えたち。

一挙にできるのは土入れだが、花植えはそうはいかない。

花を植えて水やり。

たっぷりとジョウロの水を注いでいく。

辻の花壇の道路には土が被っており雑草が生えていた。

それも奇麗にしようと動きだす。



力尽いた長老は花植え作業を見ながら一休み。

後方にも民家が建っている。



奇麗に並んだ赤花にピンク色の花が美しいランタナ。

黄色いランタナは数週間後には花を咲かせるであろう。

ひと息いれた長老も花植えをする。

残りは六所神社に向かう角地。

疲れた身体を癒す時間もとれずの作業はもうひと踏ん張り。



アジサイ花は枯れどきだったが新しい花で明るくしてくれる。



花壇手前には大き目の土管を寄せた。

土管には底がない。

土を入れる迄に位置づける。



孫を連れて散歩していた長老。

今回の役目は担っていない。

作業を見届けて腰をさすりながら去っていく姿が愛おしい。

花植えだけでも4時間ぶっ通しの作業だった。

墓の土手改修の人たちは午後もかかると云う。

雨が降らなければいいのだが・・・。

そう云えば作業中に村人が話したこと。

植えた花は黄色いランタナ以外は一年草。

枯れてしまえばどうするのか。

水やりもいるし、維持管理は決めてなかったと云う。

(H26. 8. 3 EOS40D撮影)