マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

阪原の富士講午後の部

2015年02月19日 09時08分20秒 | 奈良市(東部)へ
もくもくと白い雲が山の稜線から顔をみせてきた。

そのまま成長するのかと思っていたが、すっと消えた。

入道雲になりそこねたのか、それとも幻影だったのか。

夏の景観の入道雲を捉えたくて期待してはいるもののなかなか遭遇しない。

午前中は岩陰で肉彫りが見えにくかった北出来迎阿弥陀磨崖仏。



午後はうってかわって彫り込まれた石仏に陽があたっていた。

午後の部は16時ころから行われた阪原の富士講。

昼寝を済ませて一旦帰宅した講中は再び公民館に参集していた。

帰宅した際は普段着姿だったが水行は白装束。

公民館で着替えて斎場に向かう。



午前の部と同じように忌竹の廻りを囲ってご真言を5回唱える。

3度目の水行の撮影位置は講中のほぼ背中から。

ここはついさっきまでマムシがいた場所である。

マムシは小さなトノサマガエルを飲み込んでいた。

脚がマムシの口からはみ出していた。

満腹であっても危険なマムシに近寄ることは避けたい。



午前と同じように川に浸かって「ひー、ふー、みー、よー、いーっ、むー、なな、やっー」と声を掛けながら川水を川面に飛ばす人もおれば、水辺際にある岩に乗ってかける人もいる。

午前中とは違う位置で水行作法である。

水行を終えた講中の一人。

川から上がって岩に登ろうとした際に滑って体勢を崩された。

身体ごと川にドブンである。

雪駄は底面が滑りやすく「こういうことになりますんや」ということだが、決定的写真は・・・ない。

川面にはハグロトンボが飛び交っていた。

生息はわりあい多いようだ。



こうして3度目の水行を終えた講中はこれで終わることなく、柄杓にいっぱいの川水を汲んで長尾神社に向かっていく。

数年前までの水行。

終えたときには草鞋の鼻緒を切って川に流したそうだ。

午後の部に参集された講中は6人。

一人は役所の仕事の関係もあってやむなく断念された。



先頭を歩いていく講中は唯一草鞋を履いていた。

長尾神社へ向かう道は村の里道。

急坂な里道を歩く。

この日の最高気温は36.8度。

立っているだけでも汗が流れ落ちる日である。



そこより数百メートル先にあった井戸。

この場所がかつて水を汲んでいたといいます谷脇だそうだ。

「高台であるのになんで井戸に水が湧くのが不思議だ」と云う。



水行場より250メートルも歩けば長尾神社に辿りつくのだが、急坂な道ではけっこうな体力を要する。



長尾神社の鳥居を潜って本殿に向かっていく。

本殿は春日大社の本殿を遷した社殿になるそうだ。



着いた順に柄杓の水を少し垂らして手を合わせる。

八幡社、愛宕社、天照皇大神宮社、御霊社、戸隠社、厳島社、五穀社、白山比社、金刀比羅社、稲荷社、愛宕石塔、八王子社、天照皇太宮石塔、恵比須社などそれぞれの神さんにも水を垂らして参る。



こうした行為は柳生にも上深川にも見られない阪原特有の在り方である。

それにしても柄杓に入る水量はそれほど多くない。

しかも歩いている途中で少しずつ減っていくと云う。

零したのではなく、竹筒柄杓の隙間から抜けていくのだと云うのだが、それぞれの神さんに分けるぐらいの量が残っているのは、なんらかの技があるのでは、と思った。

氏神さんに参ったあとは公民館に戻ってくる。

講中の作法は神社参拝で終わることなく、川で掬っておいた水を持参したボトルに入れていくのだ。



講中は群がるような感じで水器に集まる。

講中が持参したポットとかボトルに柄杓で掬って入れ合う。

この時点の水は普通の川の水。



富士山の掛軸を掛けた斎壇に供え、ご真言を5回唱える。

こうして川の水は「ご神水」に転じたのである。



ありがたいご神水は家に持ち帰り、おかいさん(粥)を炊いて美味しく食べると云って解散した。

これもまた、阪原特有の在り方である。

しばらく歓談してこの日の水行を終えた講中は講箱等を次の当番の人に引き継がれる。

特に儀式もなく、この日のことを講帳に記載して引き継ぐそうだ。

(H26. 7.26 EOS40D撮影)

阪原の富士講午前の部

2015年02月17日 09時03分28秒 | 奈良市(東部)へ
朝10時ころ、公民館に参集する奈良市阪原の富士講中。

講箱に「干時宝暦七年(1757)九月吉日・・・講中八人名 施主名」の墨書文字があることから250年以上も継承されてきた講中である。

当時からごく最近までは8軒の特定家「尾上、田中、中田、中、吉野、山本、阪本、立川」で代々営まれてきたが、今では7軒になったようだ。

講中は阪原に在住する7人。

先代から引き継ぐ一子相伝の富士講には30歳代の若者もおられる。

7人の内訳は門出垣内の3人、北出の2人(かつて3人)、中村の2人だ。

講中が保存する古文書に「安政六年(1859)七月□□ 富士講仲箱入□残覚附帳 坂原寺講中」がある。

ただ、江戸時代を残す年代期は表紙だけであって、中身の綴りは明治時代以降である。

昭和の時代には富士山に3度も登って浅間神社に参ったと云う。

その行程は詳細に書き残されていた。

参集した講中、しばらくはお茶をすすって公民館で村のことなどを話していた。

かつては前夜に泊りでお籠りをしていたそうだ。

夕方に集まって夜食を摂って、ひと晩過ごしたと云う身を清めのお籠りである。

その晩はお酒を飲んで歓談していたと話す。

家から持ってきた布団や枕もあった。

ひと晩ずっと起きているわけではなく就寝していたそうだ。

ひと晩寝て朝起きる。

朝食はヒヤゴハンで炊いたアズキガユだった。

前夜に食べ残したカマボコや缶詰めも食べていた。

朝・昼のおかずはナスビ、カボチャ、タマネギを入れたごちゃ混ぜ料理。

それは「たいたん」と呼ぶ煮もの料理だったと話す婦人たち。

これまでは男性だけの集まり。

炊事もしていたが、今では講中当番の婦人がお手伝いをするようにしたと云う。

数年前までは2段に盛ったお重もあった。

家の料理を詰めたお重だったと云う。

時間ともなれば、木綿の白襦袢に着替える講中。

装束の腰紐は藁縄だ。

履物は自作の草鞋と決まっていたが、数年前に雪駄でも構わないということになった。



が、この年は一人の講中は草鞋を履いていた。

30年前に記録された史料によれば、草鞋は毎年新しく作っていたようだ。

作り置きをしていた人もおられた。

いざ、出発するというときに草鞋がないことに気がつかれた人。

大慌てで邑地にある店まで行って買ってきたこともあると云う。

草鞋を毎年作っていたのは、3度の水行を終えて鼻緒を切って川に流すからであるが、今ではそうした行為はしなくなった。

下着はふんどし姿であったようだが、今では普段の下着を見につけている。

かつては日の出とともに参っていた。

この年は11時ころに出発した。

出発する際に初めの儀式が行われる。



斎壇を設えた後ろに掲げた掛軸の中央に「富士山」の文字がある。

光背は富士山であろう。

その上に描かれた地蔵菩薩立像。

左右には菩薩のような仏画を描かれている。

来迎阿弥陀尊であろうか。

下部に猿のような獣が2体ある掛軸は「富士山牛玉」と思われる。

「浅間神社」の文字があるやや丸みを帯びた三角形のご神体石も祭壇に置く。

水行の数取り数珠も置いてローソクに火を灯した。

講中一同が並んで、導師は前に座る。



ご真言の「ウ(オ)ンタラタカマーノ マクサンバン(ー)ダー サラサラセンダン(ー)バー(カ) シャータヤ ソワカ(ヤ)」を5回唱える。※( )内は残された史料に基づき補足する。



真言を唱えたら、草鞋や雪駄を履いて白砂川の祭場に向かう。

当番の人はご神体の「浅間神社」石を抱えている。

到着すればご神体を忌竹内に納めて手を合わせる。

次に川へ下りて、柄杓で川の水を掬ってご神体に掛ける。



それから、忌竹周りを囲んで、「ウ(オ)ンタラタカマーノ マクサンバン(ー)ダー サラサラセンダン(ー)バー(カ) シャータヤ ソワカ(ヤ)」を5回唱える。

これより始まるのが水行。

足元を川に浸けて始まった。



「ひー、ふー、みー、よー、いーっ、むー、なな、やっー」と声をかけながら川の水を柄杓で汲んで前方川面に投げるような感じで水を飛ばす。

「やっー」のときには、勢いをつけて遠くまで水を飛ばす。

この作法を八回繰り返す。

導師が手にもつ黒い数珠の数取りは八珠ずらし。

およそ3分間に亘って行われる水行の作法だ。

以前は一旦終えて公民館に戻って小休止。

再び川にやってきて水行をしていたが、今では戻ることなく続けて2回目の水行が行われる。



再び忌竹周りを囲んでご真言を5回唱える。



先ほどと同じように川に浸かって「ひー、ふー、みー、よー、いーっ、むー、なな、やっー」と云いながら川水を川面に飛ばす。

2回目のときも同じ作法で八回繰り返す。



再び忌竹に戻ってご真言を5回唱えて午前の作法を終えた。



水汲みをした柄杓は忌竹に引っかけて吊るすような形にして祭場を去っていった。

この後の会食は撮影禁。

この場を離れて思い出した柳生下町の土用垢離。

サバの缶詰めが神饌御供の一つにあったことである。

阪原の缶詰めもサバ缶であったかも知れない。

(H26. 7.26 EOS40D撮影)

阪原富士講の斎場造り

2015年02月16日 07時13分44秒 | 奈良市(東部)へ
診療していた歯医者の待ち時間。

ロビーに奈良の情報雑誌「naranto(奈良人)2013春夏号」があった。

ぱらぱらとページをめくれば石仏特集が目についた。

そこに書いてあった奈良市阪原の北出来迎阿弥陀磨崖仏。

「疫病から村を守った阿弥陀石仏・お籠りしてご利益に感謝」すると書いてあるのだ。

紹介文に「地元の男衆で作る富士講がお祀り。かつては泊りこみでお籠りをしていた。仏さんを囲んで酒を酌み交わし宴に興じていた。住民の話しによれば、富士講の起源は地区で疫病が流行って男衆が次々と亡くなった。村の人が阿弥陀さんに一心に祈ったら疫病は収束した。以来、講を作ってお礼の籠りをするようになった。今でも信仰篤い七人衆が7月末の農閑期に公民館に籠る。泊りはなくなったが、30代の若者も新たに加わり地域の話題で連帯感を育んでいる」とあった。

富士講の県内事例は、これまで柳生町柳生下町および都祁上深川の様相を取材したことがある。

ただ、柳生では富士講の呼び名はなく、神社祭祀を勤める十二人衆が行う「土用垢離」である。

上深川は6人の富士講中によって行われる富士垢離であるが、長く途絶えていたものを年寄りの記憶がある間にということで、平成21年に復活された。

昭和50年代にされていた上深川の富士垢離は県立民俗博物館に動画映像で残されている。

行事名は浅間講の富士垢離だった。

近年までは都祁小倉町にも残っていたが、いつのころか判らないが「講」は廃れて八柱神社の石段の下に浅間さんの石碑を建てるだけになっている。

富士講或いは浅間講の石碑は山添村広瀬・吉田・勝原や天理市長柄、生駒市長久寺など県内各地にその存在を現認してきた。

この月の8日に取材した古市町の仙軒講も富士講の一つとしてあげられるが、水行の作法はされていない。

また、富士講碑でなく、浅間神社を奉る地域もある。

末社に浅間神社がある在所は奈良市鹿野園町・八阪神社、三郷町薬隆寺・八幡神社などが知られる。

「naranto」に来迎阿弥陀磨崖仏写真が掲載されていた文中表現を手掛かりに阪原の富士講を訪れた。

3月に行われた南明寺・涅槃会の際に宮総代から教えていただいた祭場は北出垣内の来迎阿弥陀磨崖仏

ネット検索すればどなたがアップされたのか存知しないが、ある人がブログで公開していた北出垣内の来迎阿弥陀磨崖仏

その映像には石仏前横に立てた忌竹があった。

目を凝らして見れば柄杓を吊っていた。

柄杓があることから水行をされている様子が判るが、アップした人はそれを「オコナイ」と書いていた。

間違ってもそれは「オコナイ」の道具ではない。

柳生と同様に土用垢離であれば、土用入りであろうと判断して出かけた阪原の北出垣内。

文中に書いてあった講中の家を探してみる。

家におられたご主人に訪れた理由を伝えたら一週間後にすると云うのである。

それなら所有している講箱を当番家が持っているとわざわざ運んでくれた。

講箱は柄杓・数珠・ご真言などを納めてあった。

水行作法に使う柄杓・数珠もある。

内部にはやや小さめの講箱もあった。

その箱蓋に「干時宝暦七年九月吉日・・・講中八人名 施主名」の墨書文字があった。

宝暦七年といえば西暦1757年。今から257年前である。

講中は代々が継承してきた特定家の8軒。

うち1軒は継ぐ者がなく、辞退されて現在は7軒になったと云う。

「古文書もありますので」と云われて拝見した。

表紙に「安政六年七月□□ 富士講仲箱入□残覚附帳 坂原□講中」と書かれていた。

安政六年は1859年。今から155年前であるが、綴じた文書は明治時代以降のものばかりだった。

理由は判らないが、なぜか江戸時代の記載文書は綴じられていないのである。

柳生・上深川には講箱や古文書は残されていない。

阪原には富士講の歴史を示す記録があったのだ。

257年間を特定家で営まれてきたことが歴史を残すことになったのだろうと思える貴重な富士講史料に感動する。

講箱には阪原の富士講を取材された記事が『読売奈良ライフ』1979年7月号も保管されていた。

同誌に書いてあった作法はほぼ克明に、である。。

当時の講中(尾上、田中、中田、中、吉野、山本、阪本、立川)の名も書いてあった。

発刊は昭和54年。35年前の様相を記録した阪原富士講の在り方だ。

ちなみに読売奈良ライフの創業は1976年(昭和51年)。

この号を発刊する2年前に創業された。

阪原富士講の史料ともなる記事を残してくれたことに感謝する。

1979年7月号には富士講とともに地蔵講の行事も書いてあった。

講中から案内されて緊急取材した門出垣内の地蔵盆は一週間前の20日に行われた。

富士講には中央に「富士山」の文字を配置した掛軸もある。

中央に地蔵菩薩、左右にも菩薩のようだが判別不能の来迎図。

下部には猿のような獣が2体ある掛軸は明日の水行前に掲げるようだ。

かつての富士講は27日に公民館で泊ってお籠り、翌日28日の朝に1回の水行、休憩を挟んでもう1回の水行。

昼食を摂ってからは昼寝。

夕方近くに3度目の水行をしていたそうだ。

今ではお籠りをすることもなく、水行前日に忌竹を設えるだけであると話していた。

こうした富士講の予備知識を頭に入れて訪れたこの日の午後4時。

石仏前の雑草を刈り取って奇麗に清掃されていた。

北出来迎阿弥陀磨崖仏を眼痛地蔵と呼んでいる地元民。

調べによれば、石仏は文和五年(1356)の作の阿弥陀磨崖仏。

彫りは深い。

湿気が多い日には目の辺りから水が流れる。

その水を目に浸けると難病が治ると伝えられている。

祭場を設えるのは2軒の当番さん。



四方に忌竹を立てて注連縄を張る。

そこに紙垂れを取り付ける。

手前の二本の竹には太めの青竹を括りつける。

そこへお花やサカキを挿し込んで汲んだ川の水を注ぐ。

こうした作業を経て、明日に行われる斎場ができあがった。

夏場の作業は汗びっしょり。

顔から汗がタラタラ流れ落ちる作業を終えて一段落。



飲料水を飲んで水分を補給する。

祭場前に流れる川は白砂川。

「ハイジャコ・アユ・ウナギ・ドジョウもおった。ウナギは生きたドジョウがエサだった」と云う。

針の先に挿して岩場の隙間に一晩寝かしたら釣れていたと話してくれた。

豪雨ともなれば川は洪水状態。

石仏の下半分ぐらいまでに水量があがると云う。

大量に流された川砂があがって石仏下の足場は砂地になっていた。

水が奇麗な白砂川にはハグロトンボが生息している。

翌日にはカエルを飲み込んでいたマムシも目撃した。

かつては祭場を設えたその夜に公民館で籠りをしていたと云う。

翌日の水行は午前中に2回連続。

川の水を柄杓で掬って「ひーふーみーよーいつむーななやっ」と声をかけて8回の水かけを繰り返す。

昼食を摂った夕方4時ころ。

3回目の水行をする。

そして、柄杓で掬った水を零れないように持って長尾神社に参ると云う。

掬う水は川の水ではなく、昔は道中にある谷脇の水だったと話す。

その付近には井戸があると話していた。

(H26. 7.25 EOS40D撮影)

阪原門出垣内の地蔵盆

2015年02月05日 07時56分08秒 | 奈良市(東部)へ
富士講調査に立ち寄った奈良市阪原町。

講家が話していた地蔵盆はその日の夕刻であった。

「辻に建つ2mぐらいの石仏地蔵尊の前で地蔵盆をしますんや」と云うのである。

石仏地蔵尊を祀る地はマツリの際に担ぎだされる太鼓台が渡御人とともにお旅所に向かう処だ。

長尾神社を出発した太鼓台は辻の地蔵堂前を急カーブで下る。



安置しているのは足痛にご利益があるという天文五年(1536)銘がある足痛地蔵さん。

足元にはずらり石仏が並ぶ。

天保十一年(1840)の刻印があった右手前にある石仏は何であろうか。



目を凝らしてみれば、僅かに彩色が残る如意輪観音の石仏であった。

阪原には如意輪観音さんに手を合わせる十九夜講があると聞いている。

天明四年(1784)製作の如意輪観音のお軸を掲げるヤド家での営みであるが、ここへもお参りに来るかも知れない。

この場は門出垣内。門出と書いて「もんでん」と呼ぶが、1700年代の正徳年代は門前であった。

地蔵盆の場は足痛地蔵尊下の里道である。

地蔵さんは足痛にご利益があるという地蔵さん。

石仏巡りする人が度々訪れているそうだ。



地蔵さんの前に設えた地蔵盆の場はゴザを敷いて座布団を並べていた。

オードブル料理を置いたテーブルも用意して村の人を待っていた。

10年ほど前までは各家が持ちよった料理や手作りのおはぎがあったそうだ。



真言宗派南明寺の住職が来られて法要が始まるのは18時。

村の人とともにご真言を唱える。

住職が就くまでは村の人が導師を勤めていたと云う。

席に座った村人の人数は多い。

数えてみれば50人にもおよび、老若男女・・赤ちゃんまで来ていた。

普段は子供の姿がほとんど見られない阪原。

この日の地蔵盆には10人ほどの外孫も連れていた。

秋のマツリと同じように子供さんが多くなるのは、故郷に戻って一家団欒の村行事。

これまで数多くの地蔵盆を拝見してきたが、これほど多くの人たちが参拝される地蔵盆は他所では見られない光景だ。

阪原は門出・北出・中村の三垣内。

地蔵盆は阪原全体の村行事ではなく、門出(もんでん)垣内(江戸年間の正徳時代は門前)の行事、いわば垣内の行事である。

門出垣内は全戸で18戸、うち地蔵講は16戸であるが、地蔵盆には全戸が参拝されるようだ。

本来は23日が行事日であったが、できる限りみんなが集まりやすい日曜日に移された。

法要は10分ほどで終えて住職は寺に戻っていった。

会食の費用分も入っているのであるが、遠慮されての帰還である。

毎月、いくらかの集金で会食を賄っていると云う地蔵盆の用立て。

集めたお金で会所とか地蔵堂の修理費用に用立てをする。

「旅行にも行きますねん」と云う会費の使い方は村の楽しみでもあるようだ。



お酒やビール・お茶などで乾杯されて会食に移った垣内の地蔵盆。

この日は納涼と垣内の親睦を兼ねて寛ぐ時間帯である。

「家に留守番がいなけりゃ盗人が来ますやん」と云ってもお構いなし。

だが、実際は高齢者の「じっちゃん、ばあちゃんが留守番してますねん」と話していた。

陽が暮れる時間帯は大宴会。



期待していた夕陽は奇麗に出なかったが、提灯の灯りが増していく。

そのうちに一人増え、また、二人と増えていく大宴会。

遠くに住んでいる息子・娘夫婦は赤ちゃん連れて戻ってくるし、大和広陵高校の高校野球を応援していた生徒も戻ってきた。

大和広陵高校はその後も勝ち続けて7月27日の奈良智弁学園と対する準決勝戦まで至った。

応援は潰えて11対6で無念の夏を閉じた。

阪原の地から大和広陵高校に通学できるわけがなく「高校近くに住んでいる」と生徒は笑っていた。

最終的には61人にもなった門出垣内の地蔵盆は、年に一度の顔合せだ。

垣内の地蔵盆には奈良市青少年野外活動センターに勤める職員さんも参加している。

住まいは阪原であることから顔馴染み。

一住民も参加を受け入れているのだ。



それから1時間半後、費用で賄った花火は子供たちのお楽しみ。

提灯は電灯の灯り。

カメラでとらえた写真を見れば一目瞭然の白っぽさ。

背景の宴の様子も撮っておきたかったが写りこむこともない。



近くに寄ってきた母親が「娘を撮ってください」と願われてシャッターを押す。

線香花火が光る状況を写し込めたが父親は影になってしまった。

声を掛けた母親はこの日に地蔵盆を紹介してくださった娘さんだった。

阪原で育ったと云う母親は「兄ちゃん家族とも会えるし、毎年が楽しみなんです」と笑顔で応える。



花火の火点けは兄ちゃんと旦那さん。

この夜の当番である。

「そろそろ始めましょう」と声があがって宴のテーブルを片付ける。

場は数珠繰りに転じるのだ。

時間帯は丁度、夜8時。

とにかく人数が多い数珠繰りの場。



対面に座って数珠を繰っていく。

導師もなく、鉦もなく、「なんまんだー」を唱えながら、地蔵さんの真下で数珠を繰っていく。

お酒がたっぷりお腹に染みている男性たち。

「酔っ払いの数珠繰りや」と婦人たちから声があがる。

「今、何回目やー、朝までやろかー・・・」とか、口々に発声すれば、その都度に笑いが出る。



「夜9時ぐらいに始まりますねん」と云っていたが、一時間早めたようだ。

「なんまんだー」って唱えていた人も声が小さくなって、とにかく賑やかな数珠繰りだ。

みなが揃って楽しんでいるような雰囲気が夜の気配を忘れてしまう。

その間、供えた御供を分け分けで当番家は忙しい。

「あと半分やー」の声にどこで数えている人がいるのかもさっぱり判らない門出垣内の数珠繰りである。

あと5回やと云う人も居られたが、数珠の房がどこで廻っているのか、さっぱり判らない。

子供たちも一緒になってする門出垣内の数珠繰り。



娘時代には入っていたが「娘は怖がって・・・」と云う親子も居る。

「あと一回、これで最後の33回の数珠繰りやで、ようおがんどきや」。

「一年間は無事に暮らせる、風邪もひかんわ」と云って終わった。

盛りあがったご近所付き合いは至近距離。

「絆」とか「つながり」とか云うような言葉で表せない垣内が一体となった情景に心惹かれてシャッターを押していた。

(H26. 7.20 EOS40D撮影)

阪原富士講の所有物

2015年02月04日 07時17分23秒 | 奈良市(東部)へ
これまで県内の富士講事例を調査してきた。

事例はごく僅かである。

奈良市阪原にその存在があると知ったのは奈良の情報雑誌「naranto(奈良人)2013春夏号」の記事だ。

『疫病から村を守った阿弥陀石仏・お籠りしてご利益に感謝・・・地元の男衆で作る富士講がお祀り。かつては泊りこみでお籠りをしていた』という一文である。

何人かの村人に伺って辿りついた講中。

籠りはしなくなったが、前日には彫りが深い文和五年(1356)作の阿弥陀磨崖仏前に忌竹を設えていると話す。

翌週もお伺いする講家のO家に保管されていた講箱を拝見した。

その蓋の裏面には墨書があった。

「干時宝暦七年(1757)九月吉日・・・講中八人」の名に施主名があった。

当時の講中である「尾上、田中、中田、中、吉野、山本、阪本、立川家」が代々続けてきた富士講の講箱だ。

古文書には「安政六年(1859)七月□□ 富士講仲箱入□浅覚附帳 坂原□講中」と書かれてあったが表紙だけだ。

江戸時代における講中記録はなく、綴書は明治始めころからであった。

「昭和云年には富士山に登って浅間神社に参った。3度登っていた」と云う。

富士講の作法は朝10時半ころから始まる。

公民館で白装束(木綿の白襦袢)に着替えて、北出来迎阿弥陀磨崖仏辺りに集まる。

締める帯は縄で、履き物は毎年作る草鞋。

ふんどし姿に普段着になって集まると云う。

講中は近年まで8軒だった。

昔から決まっている特定家で継承されてきた富士講。

そのうちの1軒は何年か前に村を出ることになって、現在は7軒の営みになったと云う。

以前は27日が籠りの泊りがあった。

夕方に集まって夜食を摂って、ひと晩過ごす。

翌日28日の朝は日の出とともに参る富士講。

昼も参って食事を摂る。

籠りの場は神社の参籠所であったが、かつては会所だった。

そこで身を清めるお籠り。

食事を調えるのも作法をするのもすべてが男性であったが、昨今は下支えに婦人たちが料理を作るようになった。

今では忌竹を前日に設営して、翌日の一日、一回限りのお参りになった。

忌竹は富士山の来拝所。数珠を手にして白砂川に足を浸ける。

川の水を柄杓で汲んで、ご真言を唱えながら「ひー、ふー、みー、よー、イーツ、ムー、ナナ、ヤッー」。

その際には汲んだ水を川面で投げかける。

これを八回繰り返す。

ご真言は「ウ(オ)ンタラタカマーノ マクサンバン(-)ダー サラサラセンダン(-)バー(カ) シャータヤ ソワカ(ヤ)」だ。

鎮守社の長尾神社に参って「水」を汲みとっていたが、本来は谷脇の「水」であった。

それを汲んで家に持ち帰る御神水は家人に飲ませていたと云う。

今では神社は参拝をする場となったが、主たる場は公民館。

古い「富士山」の掛軸を掲げて会食するそうだ。

来迎阿弥陀磨崖仏を地蔵さんと呼んでいる阪原の富士講

講中が残した三角形の石があるらしい。

それには「浅間神社」と書いているようだ。

講箱に収納されていた雑誌『読売奈良ライフ』があった。

発刊は1979年7月号(昭和54年)。



阪原富士講や地蔵講を紹介する記事が載っていた。

詳細はそれほど詳しくはないが、当時の様相が判るくらいに書き記されていた。

35年前の様相が判る貴重な史料でもある。

当番は2軒の人によって整えられる。

作法を終えたその日のうちに講箱一式を引き継ぐようだ。

(H26. 7.20 SB932SH撮影)

田原横田の子供のねはんこ

2014年10月14日 07時46分26秒 | 奈良市(東部)へ
地域ごとで行われている奈良市田原の里の子供の涅槃を取材したことがある。

お米集めをした子供は涅槃図を掲げた講ヤドで会食をしていた日笠町

大野町では講ヤドで遊び回るが、涅槃図を掲げていたのは十輪寺だった。

須山町では講ヤドに涅槃図もなく、お菓子集めをした子供が地蔵石仏にメシを塗りつける作法であった。

麻緒で括ったヒカゲノカズラやタロ(タラ)の箸で食べる大盛りのシロゴハンの作り膳があったのは矢田原だ。

田原の里の子供の涅槃講は地域によって異なる在り方である。

先月末に立ち寄った田原の横田町

神社役員の男性が神社にヒサカキをおますと話していた。

そうであればこれまで拝見した他所とも違う在り方である。

これまで拝見した他所とも違う在り方を拝見したく予め取材願いをしていた横田町の子供のねはんこである。

かつては大勢の子供が行っていたが、今は少人数。

一度は止めようかという意見もあったが、大切な村の文化を継ぐ子供たちの行事は絶やすことをせずに続けてきた。

プライバシー保護の観点を重要視されている横田。

子供の顔は写さず、後ろ姿でという条件付きの取材である。

田原の小・中学校教育課程を受けて、親たちもその理念を厳守している。

村を巡る子供たちがお金集めをする様子も拝見したかったが、「親の許可は得ていないから許可できない」というこの年の当番さんも教育者。

天理市の藤井町のヤドを勤めた母親たちも同じ考えであった現代教育の教えである。

2時間ほどでお金集めを終えた子供たちが白山神社会所にやってきた。

その間に聞いていた体験談。

お話しは忙しい合間を縫ってわざわざ足を運んでくださった北森重人宮司だ。

田原の里の各神社を兼務する。

これまで誓多林や長谷の神社行事でお世話になった方だ。

その場で知った当番さん。

なんと実弟であったのだ。

若干の年齢差で経験は違うようだ。

当番さんが話していたヒサカキは誤りで、「ほんとうはツバキの花や」と北森宮司が云う。

サカキは神事に用いられるが、ツバキは一般的に仏事。

そのようなことを知らずに継承してきた子供たちは白山神社のサカキの葉っぱを採っていく。

その場におられた幼児の父親もそうしていたと云うが、今回は北森宮司の教え通りに生えていたツバキの葉を摘み取った。



ツバキの葉は白花、赤花・・なんでも構わないと云う。

当番の人が炊いてくれた重箱のセキハン。

箸で摘まんでツバキの葉に乗せる。

葉はお皿代わりである。

子供たちは先輩らがしていたように葉っぱの表麺に乗せようとするが、皿であれば反り返った裏面でなければならない。

葉っぱを皿にする数々の県内事例には表面に乗せることはない。



「そうなんや」と頷く二人の当番婦人。

何十年にも亘って子供たちが引き継いできた在り方は、ある時代に誤った形式に移っていたようだ。

本来、こういう話はしたくなかったのであるが、思わず声が出てしまったことに反省する。

モチ米で作るセキハン。

かつては三合程度のウルチ米を集めてシロゴハンを炊いていたという話もあった。

それは随分前にお金集めに替ったようだが、北森宮司の話しによれば、かつてセキハンでなくウルチ米に小豆を入れたアカゴハン(アカメシ)だったと話す。



ツバキの葉に盛ったセキハンは十九夜の石仏や庚申石、供養石塔、地蔵石仏の前にそれぞれ供える。



幼児も見習って供えるが・・・理解するのは大人になってからであろう。

横田は15戸の東地区と10戸の西地区。

北森宮司が子供のころは総勢で30人も居たぐらいの時代であった。

白砂川を境の東・西地区それぞれの子供がお金集めをしてセキハン御供をしていた。



当時はどちらの地区が早く供えるか、競い合うようにしていたが、少子化の時代になってからは両地区合同になったと云う。

御供は白山神社にも供える。

年長の中学2年生はさすがに手を合わせていた。



お参りを済ませたら社務所にあがってセキハンをよばれる。

かつては手ゴクで受けて食べていたと当番の女性が云っていた。



昼食時間まではまだまだ時間がある。

子供たちはケータイ、マンガの子もおれば学習書をもちこんで勉強する子もいる。

昔はカウテンと呼ぶマイカワラを投げて遊んでいたとか、境内でタカラフミ、カカシをしていたと話すのは当番の女性たち。

社務所ではテーブルなどを組み立てた「基地」と呼ぶスベリ台で遊んでいたとも・・。

遊び方で時代変化の様相を知るのである。

この日は小雪ちらつくぐらいのぐっと冷え込む寒い日。

用意しておいたお菓子に手を伸ばすこともなく各自が思い思いの自由な時間の過ごし方。

かつては東・西地区のヤド家であったが、14、5年前に社務所になったと云う。

「一昨年ぐらいやった、子供がぐっと減った、横田の涅槃を続けるのは難しいから止めようという意見もでたが、一旦止めてしまえば横田の文化が途絶えてしまうから・・・」と云ってなんとか継承したと話すのは北森宮司さんだ。



昼時間ともなればサラダにカレーライスをいただく。

以前はサラダ、ハンバーグにカヤクゴハンの昼食であったが、今ではカレーライス。

条件付きの撮影は手ばかりの出演である。

晩ごはんのおかずは半分に切ったカマボコ、梅の形をしたウメヤキ、キントキマメ、練りものの三色のダンゴにホウレンソウのおひたし。

ごはんは白ごはんもあったが、ゴンボが入っていたイロゴハンもあったのは随分昔のことである。

午後も遊んで15時ぐらいで終わる横田の「ねはんこ」は「涅槃講」が訛ったようだ。

かつては晩ごはんも食べて夜遅くまで遊んでいたが、今ではクラブ活動が忙しくなって15時で終える。

晩ごはんのおかずは半分に切ったカマボコ、梅の形をしたウメヤキ、キントキマメ、三色のダンゴの練りものにホウレンソウのおひたし。

ごはんは白ごはんもあったが、ゴンボが入っていたイロゴハンもあったと云う。

こうして横田町の子供のねはんこを拝見させていただいたが、涅槃図は見られなかった。

ちなみに十九夜さんの如意輪観音石仏には「奉高顕供養者・・云々」と書かれてあった真新しい奉塔婆が置いてあった。

日付けは平成26年とあるからつい最近のものであろう。

おそらく大野町十輪寺住職に塔婆つきをしてもらったと思われる願文である。

取材させていただいたお礼に自治会長へ電話で伝えた十九夜さん。

毎年の3月19日に婦人たちが集まって和讃を唱える十九夜講があると話していた。

田原の里の各地域で多く行われている十九夜講。

その一つに横田町も存在していたことを知ったこの日、自治会長に取材願いをしたのはいうまでもない。

(H26. 4. 5 EOS40D撮影)

阪原富士講の石仏

2014年09月21日 09時03分40秒 | 奈良市(東部)へ
檀家総代に教えてもらった北出来迎阿弥陀磨崖仏。

北出橋付近にある対岸に彫られた磨崖仏は南北朝時代前期の文和五年(1356)の作らしい。



深い部分まで彫ってある磨崖仏。

拝見するに、劣化はそれほどでもないようだ。

檀家総代の話によれば宮さんに参ってから石仏の前で富士講の作法をして、会所でお籠りをしているらしいということだ。

講中は7軒。

かつての籠りは夜半までだった。

今では短時間に済ましているようだと話す。

いずれ尋ねてみなければと思った。

ここら辺りで佇んでいたら北出橋傍に3体の双体石仏が見つかった。

道祖神であろうか。



北出橋の傍らに祀られた石仏のお顔が愛おしい。

石仏右横には一本の竹が立ててあった。

先端部分に乾涸びたダイコンが残っていた。

姿・形からおそらく葬送に立てたチョーローソクであろう。

道向かいの場にも一本あったから間違いないだろう。

訪れて知る阪原の民俗。

マツリの田楽神事スモウ以外に大師講・十九夜講・富士講などの講中の存在を知った日は葬送の一部も確認させてもらった。

(H26. 3.16 EOS40D撮影)

阪原町南明寺の涅槃会

2014年09月20日 08時57分47秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市阪原の真言宗医王山南明寺で涅槃会が行われると知って出かけた。

取材目的は涅槃会の在り方と村に伝わる石仏である。

本堂が建つ地は秋のマツリの際にお旅所だ。

平成16年10月10日平成23年10月9日に拝見した田楽や裸姿の神事スモウが演じられる場である。

涅槃会が始まる直前に着いたお堂には村の男性らがおられた。

本堂には婦人たちが座っていた。

取材を伝えたところ入堂は構わないが、撮影は一切御法度である。

掲げられていました涅槃図の横幅は271cmで、縦が211cm。

とてつもなく大きい涅槃図である。

江戸時代初期に作られたと受付されていた檀家総代らは話す。

絹本著色の涅槃図は旧暦2月15日の涅槃会(常楽会)や涅槃講の本尊として祭られてきたようだ。

「京都のあるお寺の涅槃図は横・縦が10mもあるんや、それには負けるが奈良市内で一番大きんとちゃうか」と口々に話される。

堂内は僅かな光がさしこむが、真っ暗な状況である。

お供えに立て御膳があった。

寺住職が入堂されて会式が始まった。

立礼、五体投地に頭を下げて法要の詞を述べる。

涅槃会は観たまま、ありのまま覚え書きとして以下に記述する。

抑揚をつけた詞は念仏のような感じに聞こえた。

ときおり判る詞は「檀信徒・・入滅・・釈迦牟尼・・二千五百年のこんにちこの日・・沙羅双樹のもとに・・今月今日・・供物を捧げ・・願いも・・安穏・・沙羅双樹に横たわり・ついに2月15日無情なり・・終(つい)のことばに声を揚げた。弟子は涙する・・あーーーこの悲しみ・・」。

およそ15分の長文を詠みあげる。

もしかとすれば絵解き説法を念仏で唱えているのでは、と思った。

そして、般若心経を唱える。

次に、受付していた檀家総代らが一人ずつ住職の前に座った。

手を合わせたら住職が手にした何らかのモノで頭の上から・・・押しているように見えた。

一人替って同じように頭の上に押していく作法はまるでごーさんの額押しのようであるが、作法は頭の上だ。

目を凝らしてみれば袋に入ったままである。

何人もの人が同じようにご加持を受ける。

お一人、お一人されるご加持は参拝者全員だった。

村人以外に来られていた人もしてくださった。

私も受けた身体堅固。

頭の上から押すという感触であった。

「なーむしゃかむにー なーむしゃかむにむーぶ」を繰り返して、「がんにしくどく」を唱えて下りて立礼で終えた。

およそ1時間余りの会式だった。

住職の話しによれば頭の上から押していたのはお釈迦さんの仏舎利。

「お釈迦さんが悟りを開いたように皆さん方も悟りを開いたことになる」と話す。

仏舎利はタイの国の人に貰ったそうで、今回初めての作法だと云う。

大きな涅槃図の話しもされた住職。

お釈迦さんの周りにいる僧侶の目は涙で赤く潤んでいるとか、二本の沙羅双樹は悲しみで枯れてしまったとか、お軸は絵師の絵心だと話される。

会式が終われば寺の摂待でふるまいぜんざいをよばれる。

一般参拝の人たちは帰られたが、庫裏座敷に上がったのは大師講の婦人と檀家総代の男性らだ。

「あんたも食べてや」と云われていただいた。

ありがたい摂待ぜんざいをよばれて、あらためてご住職に挨拶させていただいた。

ご出身は大阪の八尾。この日のふるまいぜんざいには母親も応援したと云う。

平成9年ころに副住職として入山され、何年か後に晋山式をされて住職についたと話される。

涅槃図はあったものの開けることもできずボロボロだったそうで、5年くらい前に修復したと云う。

寺行事は、たしか平成19年に重陽の節句の薬師会を始めたやに聞く。

「お寺の法会はどこでも同じ。ただ経典を詠みあげるのではなく、住職の願いを詞で表現したオリジナルで勤めた」と話す。

それがこの日の絵解き念仏であったのだ。

さまざまな話題に心が弾む会談。

取材の意図、心がけなど話せば、「そんなんだったら写真撮ってもらってよかったのに」と伝えられた。

阪原の大師講は3月・8月・9月を除く毎月の21日が本堂でお勤めをしているそうだ。

ご婦人が集まる大師講や村の行事などを話せば、十九夜講もあると云う。

阪原の十九夜講は北出垣内と門出(門前とも)垣内の二組であったが、北出は近年に解散されてお軸を南明寺で預かっていると云う。

中村垣内にも十九夜講があったそうだが、随分前から中断してような気配であった。

それならば、と紹介してくださった門出の十九夜講中の婦人の話しによれば講中は5軒で、ヤドの家での営みだそうだ。

特に日にちは固定されているわけでもなく、ヤドおよび講員の都合で決めていると云う。

ヤドは私の家になれば連絡してくださるそうだが、いつになるか判らないと話す。

後日、調べてみれば門出垣内の如意輪観音のお軸は天明四年(1784)ものになるそうだ。

阪原を訪れた目的はもう一つある。

北出垣内にある来迎阿弥陀磨崖仏である。

南北朝時代前期の文和五年(1356)の作らしいが、場所が判らず檀家総代に教えてもらった。

マツリに「道中でお練りをする太鼓台が巡行する道沿い、白州川向こうにある大きな岩に彫ってあるで」と云う。

その場所は北出橋が目印だと云う。

(H26. 3.16 EOS40D撮影)

別所町六社権現の宵宮祭

2014年02月26日 07時25分43秒 | 奈良市(東部)へ
奈良県庁の『宮座調』によれば、奈良市別所町は添上郡東山村にあり、宮座があった。

大字に居住する氏子の17歳以上の男のなかで最年長者が神主を勤め、次の年長者二人とともに神事を行うとある。

當人は氏子の年長者が歳の順に4人がなる。

座中の親父さんが亡くなれば、一旦は座を外して出当(でとう)となる。

服忌期間を空けてあらためて座に入る入当(いりとう)に儀式を伴う。

そういう作法をして座につく(参列する)ことができる別所町のマツリ。

数年前に二老から伺っていた六社権現のヨイミヤマツリは宵宮祭とも呼んでいる。

大当家家で氏子がヨバレをしてからお渡りすると話していたが、摂待がたいそうになったことから当家家ではなく、金刀比羅神社の社務所に場を替えた。

別所町の戸数は22戸。

以前は25戸もあったが、少なくなったと云う。

注連縄を張った笹竹を立てた神社社務所。

場は替ったが大当家の印しに氏子たちを迎える在り方は替らない。

日が暮れた時間帯は一段と気温が下がる。

境内にはとんどの場を設けていた。

宵宮祭の座に出仕するのは4人の当家。

一番当が大当家で、二番当・三番当・四番当の3人がつく。

年齢順の一番当、二番当、三番当、四番当である。

時間ともなれば社務所にやってきた氏子たち。

二日後に百歳を迎える長老は上座に腰かけた。

座席は一老を筆頭に二老、三老・・交互の席は年齢順。

氏子たちも座についた。

宵宮祭の座は小・中・大の盃に酒を並々と注ぐ三献の儀だ。

座についた人たちに酒を注ぐのは4人の当家たち。

献の始めに一番当が「よばれてください」と口上を述べる。



「献をする」と云う三献の儀の始めに差し出される二本のゴンボ。

摂待役の当家たちは席についた座中の小皿に盛っていく。

お酒を注いだ小盃でいただく一献である。

酒盃は黒の塗り盃。

並々と注がれたお酒を飲み干す。

料亭並みに酢でしめたゴンボを肴に飲み干す一献である。

しばらくすれば二献に移った。



献の料理は三角に切ったコンニャクだ。

酒盃はやや深めの中盃に替った。

注ぐ酒の量が少しずつ増えていく。

徐々に酔いが回ってきた二献である。



見た目はそうでもないが、トンガラシが入ったコンニャクは酒がすすむ味。

これなら「なんぼでも食べられるから、来年は三角にしなくてもいいんじゃないか」と座中は口々に云う。



「ハシヤスメ」と云って、座の中盤に配膳されたドロイモ・ニンジン・ダイコンの煮ものも座に回す当家たち。

座が始まってから30分後、早くも三献目となるニシンも配膳される。



かつてはカンカンに干したニシンだった。

年寄りには口に合わんという意見がでて今では半生干の焼きニシンになった。

「これが美味いんじゃ」と座中は揃って美味しさを伝える。

ゴンボ、コンニャク、ニシンを差し出す献立、「なんでそのようなものであるのか判らん」と話す座中たち。

思い出したのが桜井市脇本の座の献である。

座中が云うには「ゴボウは男で、コンニャクは女。できた子どもがカズノコだ」と話していた。

座中の子孫繁栄を願う座の「食」である。

別所町においてもほぼ同じであったゴボウ、コンニャク、ニシンの順。カズノコはニシンの子。

成魚の親と子である卵の違いがあっても同じ在り方である。

遠く離れた地域であるが、別所町の座も子孫繁栄を願った「食」に違わない。

県内各地で拝聴した祝詞奏上には必ずといっていいほど子孫繁栄の詞がある。

また、旧暦閏年に行われている庚申講が奉る庚申杖には子孫繁栄の祈願文がある。

いずれも詞や文字である。

「食」に子孫繁栄が込められていることを知った脇本と別所の座の献に感動した夜である。

三献の酒はさらに大きく深めの盃。

酒量が増えていく三献の座に酔いがまわって口も軽やかになっていく。



翌日のマツリでは中盃から始まって大盃。

三献目の盃は飯椀になるので大酒にぶっつぶれるとも話す座中。

三献に出される飯椀の酒を飲み干せば頭の上に揚げて空っぽになった状態を座中に示す。

それで座が終わりの〆の作法。

酒宴では相当な量の酒を飲む。

〆に大量の酒を飲むのがたいへんだ。

助っ人に頼むこともあるが、すべてではないから、ベロンベロンになってしまう〆の作法だと話す。



1時間半も経過した三献の儀の締めはマツタケご飯と手作りの香物が配膳される。

あれほど飲んだお酒であるが、美味しい料理に何度もおかわりをされて三献の座食を終えた夜八時。



当屋接待を支えてきた下働きの家族たちはほっとして笑顔をみせる。

境内に設えたとんどに火を点ければ灯りと暖の場になった。



「とんどは篝火であったのでは」と話すのは一番当の長老だ。

座の接待役を終えた4人の当家は黒紋付袴姿に着替えてきた。

これより始まるのは氏子たちのお渡りだ。



竹で作った金刀比羅神社の高張提灯を掲げて先頭を歩く一人の当家。

何年か前までの提灯の火はローソクだった。

高張提灯を斜めにした際に燃えてしまった。

安全を期してペンライト風の灯りに替えたと云うから電源は電池だ。

お渡りは村外れの家まで歩いていく。

そこからUターンして鳥居を潜って神社に参進する。

出発するときから始まった氏子たちの掛け声は「ホォーーイ ホイ ホイ ホイ ホイ ホーイ」だ。

一人が大声を挙げて「ホォーーイ ホイ ホイ ホイ ホイ ホーイ」と発声すれば、後続の氏子たちは揃って「ホォーーイ ホイ ホイ ホイ ホイ ホーイ」と叫ぶ。

神社に参進する道中はずっと「ホォーーイ ホイ ホイ ホイ ホイ ホーイ」である。

暗闇になった別所にこだまする掛け声が山々に響き渡る。

最初の「ホォーーイッ」の詞章がとてもよく似ている奈良豆比古神社のスモウ

詞章は「ホォーオイッ」である。

もしかとすれば同意語ではないか。

この掛け声に思い出した2事例。

大和郡山市の小林町の「トリオイ(鳥追)」と馬司町の「トリオイの唄」である。

小林町の詞章は「ホーイ」、馬司町の詞章は「オーー」である。

両地区ではどちらも「トリオイ」と呼んでいる作法に発する詞章は、実った稲田にやってきて稲穂を喰い荒らすスズメを追い払う作法に発せられる。

「なんでこんな掛け声を発するのか判らなかったが、意味は通じるな」と話す座中であった。



神社に辿りついた座中は高張提灯を鳥居に括りつけて真っ暗ななかで神事を執り行う。

今年の5月に亡くなった神主のあとを継いだ俄神主が祝詞を奏上する。



お供えは前日にモチ搗きをした二段のコモチと枝付きのエダマメ、味噌和えのダイコバ(大根の葉)だ。

神事を終えた座中はとんどの周りに集まって暖をとる。



当家が座中に配られるエダマメと味噌和えのダイコバ。

特にダイコバはおつな味である。

(H25.10.13 EOS40D撮影)

誓多林の行事が変容する

2013年09月11日 07時01分19秒 | 奈良市(東部)へ
山田町、長谷町を渡り歩いた。

歩いたというわけではなく車で行脚である。

昨年の4月中旬にはミトマツリ、5月初旬は田植え初めのサビラキをされていた誓多林住民のN家を訪れた。

いずれも終えたN家。

ミトマツリの場は変わりないがサビラキで挿した笹は位置が替った。

笹には御幣や田造りを中に入れたフキ葉は変わりない。

夫妻が話すには3月に行われる彼岸講のオコナイに変化があると云う。

オコナイで作法されるウルシ棒がある。

この年も取材をしたオコナイではウルシ棒で縁叩きをいていた。

ウルシにかぶれるからと手袋をはめての作法である。

どうやらこのウルシ棒を止めるらしいと云うのだ。

そうなればミトマツリで立てたウルシ棒が消える。

仕方なくプラスチック製の支柱にせざるを得ないと云う。

そうであれば縁叩きはどうするのかと聞けば、竹である。

少しずつ変容する村の行事の在り方である。

そういえば4月13日に大野町の十輪寺の落慶法要でお会いした上誓多林住民のⅠさんが竹を探してでもミトマツリをしなければと云っていた。

そういうことなのか。

その上誓多林では春の土用入りから十数日間にかけたある日にサビラキをしているそうだ。

N家ではされていないが、稲刈りが終われば「カキヌキ」にアカメシを神さんに供えているという。

「カキヌキ」とは何ぞや。

昨年の11月初旬に取材した大和郡山市田中町の「カリヌケ」。

稲刈りに使ったカマを箕に納めてアズキメシやアツアゲを供える農家の行事である。

誓多林では「カキヌキ」と呼ばれる行事は「カリヌケ」と同じようである。

(H25. 5.12 聞き取り)