写真家のKさんがFBで伝えていた画帳展示会である。
展示ポスターにあるキャプションに「文部科学省平成29年度私立大学研究ブランディング事業採択/帝塚山プラットフォームの構築による学術的「奈良学」研究の推進」とある事業の一環であろう。
要は素晴らしい事業採択であれば、文部科学省が支援補助金を出すみである。
つい最近、事件報道されたキーワードが「文部科学省私立大学研究ブランディング事業採択」。
その事業を悪用し事件を起こしたのは東京の某大学に文部科学省の役員だった。
真面目に事業をしている大学にとってはえらい迷惑な事件であった。
アプローチは帝塚山大学文学部日本文化学科現代生活学部居住空間デデザイン学科。
今回の展示に一役買って出たグループであるが、私が注目しているのは故永井清繁氏が70歳のころから記憶を手繰って思い出したように描いてきた天理市福住の民俗である。
初めて画帳を拝見したのは生誕の地の天理市福住。
福住公民館で行われていた展示作品の一枚、一枚に感動の連続だった。
今回展示される作品展は、福住展示とはまた違って職人の仕事をテーマに繰り広げる画帳展。
職人の姿もまた民俗である。
かつて、されていた当時の姿をまた画帳で見せてくれる。
気がついたら最終日であった。
この機会を逃したらもう見ることは不可能だろう。
そう思って弾む心を抑えつつ車を走らせた。
展示会場は奈良県立図書情報館。
展示作品一切は撮影禁止である。
以前、同館で展示していた私の写真作品であるにも関わらず断られたことがある。
著作権者であろうが、それはダメというから厄介な展示施設と認識している。
平成28年10月28日。
作品は同じ県立の奈良県立民俗博物館の事業である第5回「私がとらえた大和の民俗―衣―」写真展のサテライト展示。
いわば巡回展のような形態であるが、図書情報館も奈良県立。
同じ県であるのに撮影禁ズである。
4月10日に拝見した第3回山の辺の道“奈良道”写真展にも撮影禁ズ。
うち一枚は入選した私の写真さえ、記録も撮れない図書情報館の展示にはいささか面倒なことである。
撮影できなければ目で記憶するしかない。
しかし、だ。
30枚もある作品のすべてを記憶するには到底無理である。
貴重な民俗を今に伝える作品は、どうか、ご本の形で出版してくださいとアンケートに書いてお願いしたが・・・。
作者である明治38年生まれの永井清繁さんはすでに故人。
80歳のころにそれまで暮らしてきた情景を思い出しながら描いたという画帳である。
つまりは絵画の現場でスケッチしたわけではなく、すべてが記憶で描いていたというから、真似のできないすごい能力をお持ちだったようである。
一枚、一枚をじっくり鑑賞していたときである。
数人のご婦人たちがお話されているのが自然と耳に入る。
どうやら地元の人たちに説明と、いうか、生前の永井清繁さんをよくご存じだったのか、素晴らしい画帳をどういう具合にして描いていたか、感心しておられた。
話しぶりから永井さんに近しい家族さんのようだ。
感動する画帳作者の家族さんとの出会いにお声をかけさせていただいた。
伺えばなんと永井清繁さんの娘さんのSさんだった。
Sさんが話してくれた製作当時の父親の姿。
70歳を迎えた昭和50年代である。
生活文化どころか世の中の潮流。
急速に変化する状況に子どもたちや孫さんに福住の昔の生活はこうだったんだよと伝えたい思いから絵を描き始めたという。
私はてっきり永井清繁さんが暮らしていた時代を描いていたものだと思っていた。
70歳になられた永井清繁さんが自身の記憶を辿り、その記憶の情景を思い出し描いた、という画帳。
鉛筆で下書き、自宅に戻ってすぐさま絵付け。
毛筆を用いて顔彩で彩色する日本画の手法で描かれた絵の素晴らしさ。
背景も人物も当時の姿のまんまを描いたのだろう。
嫁入り、出産などの人生儀礼に、正月、お盆、亥の子などの年中行事。
地元氏神さんを祭る氷室神社の秋祭り大行列に農作業、山仕事、茶製造などの生業。
桶屋、鋳掛け屋などの職人の姿もあれば村議会から小学校の様子に衣服、髪型などの絵もある。
永井清繁さんは呉服屋さんを営んでいたこともあって衣服のち密さには以前に拝見した福住公民館展示を思い出す。
当時の絵に説明文も付記していたのは、まさに子孫に伝えたい、今では見ることのない福住の暮らしである。
Sさんは、前日の7月7日に「父を語る―思い出すままに―」をテーマに特別講演をされた。
そのときの資料がありますから、送ってあげますと云ってくれた。
後日に届いた資料は、今展示のチラシパンフだった。
そのチラシに氷室神社・秋祭りの縁日・売り子の姿とか木こり作業の「さき山し」の絵を添えていた。
また、裏面には木挽き、さき山し、こうや(※染物の紺屋)、かごや、小間物や、魚や、露店(※よみせ)などもある。
数事例であるが、頭で記憶のできなかった画帳映像の一部が蘇る。
この場を借りて厚く御礼申し上げる次第である。
※ その後のその後である。
展示の日から数えること9カ月後である。
アンケートにも書かせていただいた出版希望。
民俗詩誌としても十分に活用できる記録図絵。
お願いが通じたのか、平成31年3月31日付けで天理大学出版会から出版された『奈良の山里の生活図誌』画・解説は永井清繁。
著者は天理大学高田照世氏。
価格は私にとって高額であるが、価値のある本誌は急ぎ求めるに至った。
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映像は我が家の藪庭に咲いていたカサブランカ。
(H30. 7. 8 SB932SH撮影)
展示ポスターにあるキャプションに「文部科学省平成29年度私立大学研究ブランディング事業採択/帝塚山プラットフォームの構築による学術的「奈良学」研究の推進」とある事業の一環であろう。
要は素晴らしい事業採択であれば、文部科学省が支援補助金を出すみである。
つい最近、事件報道されたキーワードが「文部科学省私立大学研究ブランディング事業採択」。
その事業を悪用し事件を起こしたのは東京の某大学に文部科学省の役員だった。
真面目に事業をしている大学にとってはえらい迷惑な事件であった。
アプローチは帝塚山大学文学部日本文化学科現代生活学部居住空間デデザイン学科。
今回の展示に一役買って出たグループであるが、私が注目しているのは故永井清繁氏が70歳のころから記憶を手繰って思い出したように描いてきた天理市福住の民俗である。
初めて画帳を拝見したのは生誕の地の天理市福住。
福住公民館で行われていた展示作品の一枚、一枚に感動の連続だった。
今回展示される作品展は、福住展示とはまた違って職人の仕事をテーマに繰り広げる画帳展。
職人の姿もまた民俗である。
かつて、されていた当時の姿をまた画帳で見せてくれる。
気がついたら最終日であった。
この機会を逃したらもう見ることは不可能だろう。
そう思って弾む心を抑えつつ車を走らせた。
展示会場は奈良県立図書情報館。
展示作品一切は撮影禁止である。
以前、同館で展示していた私の写真作品であるにも関わらず断られたことがある。
著作権者であろうが、それはダメというから厄介な展示施設と認識している。
平成28年10月28日。
作品は同じ県立の奈良県立民俗博物館の事業である第5回「私がとらえた大和の民俗―衣―」写真展のサテライト展示。
いわば巡回展のような形態であるが、図書情報館も奈良県立。
同じ県であるのに撮影禁ズである。
4月10日に拝見した第3回山の辺の道“奈良道”写真展にも撮影禁ズ。
うち一枚は入選した私の写真さえ、記録も撮れない図書情報館の展示にはいささか面倒なことである。
撮影できなければ目で記憶するしかない。
しかし、だ。
30枚もある作品のすべてを記憶するには到底無理である。
貴重な民俗を今に伝える作品は、どうか、ご本の形で出版してくださいとアンケートに書いてお願いしたが・・・。
作者である明治38年生まれの永井清繁さんはすでに故人。
80歳のころにそれまで暮らしてきた情景を思い出しながら描いたという画帳である。
つまりは絵画の現場でスケッチしたわけではなく、すべてが記憶で描いていたというから、真似のできないすごい能力をお持ちだったようである。
一枚、一枚をじっくり鑑賞していたときである。
数人のご婦人たちがお話されているのが自然と耳に入る。
どうやら地元の人たちに説明と、いうか、生前の永井清繁さんをよくご存じだったのか、素晴らしい画帳をどういう具合にして描いていたか、感心しておられた。
話しぶりから永井さんに近しい家族さんのようだ。
感動する画帳作者の家族さんとの出会いにお声をかけさせていただいた。
伺えばなんと永井清繁さんの娘さんのSさんだった。
Sさんが話してくれた製作当時の父親の姿。
70歳を迎えた昭和50年代である。
生活文化どころか世の中の潮流。
急速に変化する状況に子どもたちや孫さんに福住の昔の生活はこうだったんだよと伝えたい思いから絵を描き始めたという。
私はてっきり永井清繁さんが暮らしていた時代を描いていたものだと思っていた。
70歳になられた永井清繁さんが自身の記憶を辿り、その記憶の情景を思い出し描いた、という画帳。
鉛筆で下書き、自宅に戻ってすぐさま絵付け。
毛筆を用いて顔彩で彩色する日本画の手法で描かれた絵の素晴らしさ。
背景も人物も当時の姿のまんまを描いたのだろう。
嫁入り、出産などの人生儀礼に、正月、お盆、亥の子などの年中行事。
地元氏神さんを祭る氷室神社の秋祭り大行列に農作業、山仕事、茶製造などの生業。
桶屋、鋳掛け屋などの職人の姿もあれば村議会から小学校の様子に衣服、髪型などの絵もある。
永井清繁さんは呉服屋さんを営んでいたこともあって衣服のち密さには以前に拝見した福住公民館展示を思い出す。
当時の絵に説明文も付記していたのは、まさに子孫に伝えたい、今では見ることのない福住の暮らしである。
Sさんは、前日の7月7日に「父を語る―思い出すままに―」をテーマに特別講演をされた。
そのときの資料がありますから、送ってあげますと云ってくれた。
後日に届いた資料は、今展示のチラシパンフだった。
そのチラシに氷室神社・秋祭りの縁日・売り子の姿とか木こり作業の「さき山し」の絵を添えていた。
また、裏面には木挽き、さき山し、こうや(※染物の紺屋)、かごや、小間物や、魚や、露店(※よみせ)などもある。
数事例であるが、頭で記憶のできなかった画帳映像の一部が蘇る。
この場を借りて厚く御礼申し上げる次第である。
※ その後のその後である。
展示の日から数えること9カ月後である。
アンケートにも書かせていただいた出版希望。
民俗詩誌としても十分に活用できる記録図絵。
お願いが通じたのか、平成31年3月31日付けで天理大学出版会から出版された『奈良の山里の生活図誌』画・解説は永井清繁。
著者は天理大学高田照世氏。
価格は私にとって高額であるが、価値のある本誌は急ぎ求めるに至った。
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映像は我が家の藪庭に咲いていたカサブランカ。
(H30. 7. 8 SB932SH撮影)