大和中央道は南北を結ぶ幹線道路。
起点は京都府精華町。
終点は大和川を越えた川西町・結崎。
地域を往還する片側2車線の都市計画道路は、普段の暮らしになくてはならない生活道路であるが、朝の出勤時に、仕事終わりの時間帯は、信号待ちの車が多く、前に進む時間がいやに伸びて苛立ちストレスが増える。
平成24年、県は奈良市宝来から大和郡山市城町までの約3.7kmを、決まっていた都市計画を廃止したが、奈良市宝来から押熊までは、引き続き整備する姿勢は崩さず、令和4年の完成を目指している。
その計画とは、直接関連のないと思われる工事が始まっていた。
ざわざわと境内の樹木が動いていたときがあった。
何がそうしているのか、移動中の車内からでは正確な情報は得られない。
変化がはじまった、その日がいつだったのかさえ記憶にない。
えっ、この変貌ぶりはいったい何が起こったんだ、と気づいた池之内町・八幡神社境内。
境内樹木をばっさり伐った状態。
鎮守の森の変貌ぶりは、遠くからでもわかる姿になっていた。
数日おきに通る池之内町。
角地に鎮座していた八幡神社の全容がわかるくらいに樹木が消えた。
工事を進めている事業主は藤本建設。
発注者は池之内八幡神社。
神社が発注するってことは宮司さんなのか。兼務社にも出仕される神社行事の取材になにかとお世話になっている植島熈一宮司。
池之内町に住まいする宮司の兼務社は多い。
伊豆七条町は牛頭神社に子守神社。
北西町は八幡神社。
小南町の小南神社に、新木町の新城神社・南郡山町の矢田口御旅所、新庄町の素盞嗚神社、外川町の八幡神社、満願寺町の古田神社、南井町の大神社、矢田町の春日神社、豊浦町の八幡神社、横田町の素盞嗚神社、櫟枝町の八幡神社。
13地区、15社にもおよぶ。
植島宮司と初めてお会いしたのは、平成21年10月3日に行われた秋季例祭の宵宮だった。
その宵宮に御湯神事が行われる。
その様相を写真に収めて欲しい、と地区の自治会役員からお願いされた記録撮影である。
座に居られた役員さんからはよく来てくださった、と喜んでくださったが・・・
そのような話は聞いていない。
帰ってくれ、と植島宮司が云われたのである。
自治会からお願いされた記録写真の件は、当社で行われている映像を届けなくてはならない事業者があるからだ。
事業者は県の郡山土木事務所。
自治会長他役員から聞いた話によれば、神社を動かすということだった。
神社を囲むように車道が通っている。
神社東側の抜ける道路を付け替えることになった。
神社の後背。
北側に進入路を新たに造る工事である。
神社の後背は大切な場所。
新設するためには神社の位置を移さなくてはならないという案件に、年中行事をしている状態を記録し、その映像をもって郡山土木事務所に申請することになったそうだ。
八幡神社は併設する住吉神社も建つ。
その2社ごと移すという大工事に、村としては大切な行事をしているから、と申請に写真を添えることになった。
池之内町に、昔からしているという牛の宮参りがある。
子どもが主役の伝統行事。
対象年齢の子どもたちは、5月5日の日にしんこ餅をもって参る行事である。
少子化の近年は、対象となる年齢の子どもがいない年もある。
そういう場合は、自治会役員が子どもの代わりに参ることにしている。
そのときの様相は、平成20年の5月5日に取材した。
まだ朝の光が差し込まない真っ暗な中で行われる牛の宮参り。
御供のしんこ団子は代行する大人たちが、真っ暗なその場で食べていた。
翌年の平成21年も同じ日の5月5日の牛の宮参り取材は、主に村の改善構造センターで行われるしんこ団子の接待。
接待を終えた対象の子どもが、村に配るしんこ配りを主体に撮っていた。
その日、施主としてセンターに付き添っていた自治会役員のTさんが話された神社移設工事の件。
移設工事申請に重要な神社行事がある。
その様相を撮ってもらいたいという依頼であった。
下見に訪れた平成21年7月29日、31日。
村の人たちが「シャゴシャゴ」と呼んでいる湯立てをしていると聞いて立ち寄った八幡神社。
落ち葉もなく奇麗に整備されていた。
そのときに拝見した神社の由緒書。
「祭神 誉田別命(※應神天皇) 素盞嗚命 三筒男之命」、「主神誉田別命は第十五代應神天皇の別名で八幡大菩薩と称し、武神で源氏の氏神として知られています。又、素盞嗚命は天照大神の弟神で、八俣遠呂智(※やまたのおろち)退治で有名な武神で神仏融合時は、牛頭(※ごず)天皇(※天王の誤記であろう)と称し、国土の総べてを支配される神として昔から天皇(※天王の誤記であろう)さんと称賛されています。三筒男之命は、底筒男之命、中筒男之命、上筒男之命といい、住吉三神と称され、いずれも商売繁盛、縁結び、子授けなどにご利益があると云われている。当神社の創設年代は不詳ですが、天文年間(※1532年から1555年)池之内村の東北隅に樫木神社を奉祀していたが、富雄川の氾濫によって社殿が流出したので、現在地に遷座したと伝えられている。当神社は、昔より池之内町の守護神としてご信望厚く、当村の繁栄と氏子達の家内安全、五穀豊穣、受験祈願、疫病退散、安産等にご利益が顕著であります」。
「神社の祭典は先のとおりであります」と書いてあった「年中行事は、1月1日の元旦祭をはじめに、3月13日の祈年祭、7月14日の祇園祭、7月30日の住吉祭、10月第一土曜、日曜日の秋季例祭、12月13日の新嘗祭。平成20年9月吉日 池之内八幡神社社務所」。
訪れた前年に記された由緒書であった。
その年の秋である。
10月3日は、秋季例祭の宵宮がある。
その後の12月29日、撮らせてもらった祭りの写真を元自治会長のAさんに手渡したときに聞いた氷解の件。
植島宮司他、地区にも了解してもらっているから、と・・。
その背景に、別途に動いていた県教委職のS氏は、郡山土木事務所に撮影した行事写真の許諾要請をしていた。
11月11日のことだった。
翌日の12日である。
郡山土木事務所から状況説明を受けた植島宮司は、工事の件に関わる撮影について許諾されたそうだ。
その証に、事務所のK女史が許諾書を持って来られた。
許諾書を受け取った私は、撮影したデジタルデータとフイルムを事務所に提出した。
受け取ったK女史は、数日後の18日にフイルムを返却してくださった。
翌年の、平成22年2月24日である。
一度、ご自宅に伺う方がいいだろう、と判断し、表敬訪問した。
お会いした植島宮司。
すまんことした、と頭を下げられる宮司。
地区のために撮影してくれた、と逆に喜んでくださった。
翌月の3月13日に行われる祈年祭の撮影取材。
どうぞ、来て撮ってくだされ、と云われた。
これら一連の動きは、今でも覚えている件である。
そして続く、その年の撮影行事は夏の祭り。
7月14日は祇園祭。
7月30日は別名にお祓いとも呼ぶ住吉祭。
2行事続けての撮影取材の際に、さまざまなことを植島宮司が話してくださった。
こうした経緯があってから、丁度の11年目。
神社の移設工事が始まったのである。
工事中の現場に立ててあった「労災保険関係成立票」によれば、保険関係の成立日は、平成1年4月1日であるが、事業期間は令和2年3月2日から同年の12月30日まで。
新しくなった池之内八幡神社は、新年を祝って翌年の令和3年1月1日に元旦祭が行われるであろう。
前述したように発注者は池之内八幡神社。
自治会長名と思われる名で事業主代理人を記していた。
今年いっぱい行われる社殿移設工事。
5月半ば過ぎともなれば、社殿が南に移転する処も工事していた。
途中経緯、気にかけつつときどき立ち止まって状況を見ていたくもなる。
なお、神社の移設、遷宮経緯を振り返り、未公開の写真が見つかった。
境内からすべて、なにもかも変貌した神社の景観に、ひとつ残しておきたい映像がある。
それは、社殿前に植えていた松の木である。
新年を迎えた神社に葉付きの竹を立て、梅も木も添えた目出度い松竹梅。
今後は、見ることのない貴重な映像になるのでは、と思い、平成23年1月3日に撮った映像を掲載しておく。
(R2. 4.16、30 SB805SH撮影)
(R2. 5. 3、19 SB805SH撮影)
(H21. 7.29 SB912SH撮影)
(H23. 1. 3 SB932SH撮影)
起点は京都府精華町。
終点は大和川を越えた川西町・結崎。
地域を往還する片側2車線の都市計画道路は、普段の暮らしになくてはならない生活道路であるが、朝の出勤時に、仕事終わりの時間帯は、信号待ちの車が多く、前に進む時間がいやに伸びて苛立ちストレスが増える。
平成24年、県は奈良市宝来から大和郡山市城町までの約3.7kmを、決まっていた都市計画を廃止したが、奈良市宝来から押熊までは、引き続き整備する姿勢は崩さず、令和4年の完成を目指している。
その計画とは、直接関連のないと思われる工事が始まっていた。
ざわざわと境内の樹木が動いていたときがあった。
何がそうしているのか、移動中の車内からでは正確な情報は得られない。
変化がはじまった、その日がいつだったのかさえ記憶にない。
えっ、この変貌ぶりはいったい何が起こったんだ、と気づいた池之内町・八幡神社境内。
境内樹木をばっさり伐った状態。
鎮守の森の変貌ぶりは、遠くからでもわかる姿になっていた。
数日おきに通る池之内町。
角地に鎮座していた八幡神社の全容がわかるくらいに樹木が消えた。
工事を進めている事業主は藤本建設。
発注者は池之内八幡神社。
神社が発注するってことは宮司さんなのか。兼務社にも出仕される神社行事の取材になにかとお世話になっている植島熈一宮司。
池之内町に住まいする宮司の兼務社は多い。
伊豆七条町は牛頭神社に子守神社。
北西町は八幡神社。
小南町の小南神社に、新木町の新城神社・南郡山町の矢田口御旅所、新庄町の素盞嗚神社、外川町の八幡神社、満願寺町の古田神社、南井町の大神社、矢田町の春日神社、豊浦町の八幡神社、横田町の素盞嗚神社、櫟枝町の八幡神社。
13地区、15社にもおよぶ。
植島宮司と初めてお会いしたのは、平成21年10月3日に行われた秋季例祭の宵宮だった。
その宵宮に御湯神事が行われる。
その様相を写真に収めて欲しい、と地区の自治会役員からお願いされた記録撮影である。
座に居られた役員さんからはよく来てくださった、と喜んでくださったが・・・
そのような話は聞いていない。
帰ってくれ、と植島宮司が云われたのである。
自治会からお願いされた記録写真の件は、当社で行われている映像を届けなくてはならない事業者があるからだ。
事業者は県の郡山土木事務所。
自治会長他役員から聞いた話によれば、神社を動かすということだった。
神社を囲むように車道が通っている。
神社東側の抜ける道路を付け替えることになった。
神社の後背。
北側に進入路を新たに造る工事である。
神社の後背は大切な場所。
新設するためには神社の位置を移さなくてはならないという案件に、年中行事をしている状態を記録し、その映像をもって郡山土木事務所に申請することになったそうだ。
八幡神社は併設する住吉神社も建つ。
その2社ごと移すという大工事に、村としては大切な行事をしているから、と申請に写真を添えることになった。
池之内町に、昔からしているという牛の宮参りがある。
子どもが主役の伝統行事。
対象年齢の子どもたちは、5月5日の日にしんこ餅をもって参る行事である。
少子化の近年は、対象となる年齢の子どもがいない年もある。
そういう場合は、自治会役員が子どもの代わりに参ることにしている。
そのときの様相は、平成20年の5月5日に取材した。
まだ朝の光が差し込まない真っ暗な中で行われる牛の宮参り。
御供のしんこ団子は代行する大人たちが、真っ暗なその場で食べていた。
翌年の平成21年も同じ日の5月5日の牛の宮参り取材は、主に村の改善構造センターで行われるしんこ団子の接待。
接待を終えた対象の子どもが、村に配るしんこ配りを主体に撮っていた。
その日、施主としてセンターに付き添っていた自治会役員のTさんが話された神社移設工事の件。
移設工事申請に重要な神社行事がある。
その様相を撮ってもらいたいという依頼であった。
下見に訪れた平成21年7月29日、31日。
村の人たちが「シャゴシャゴ」と呼んでいる湯立てをしていると聞いて立ち寄った八幡神社。
落ち葉もなく奇麗に整備されていた。
そのときに拝見した神社の由緒書。
「祭神 誉田別命(※應神天皇) 素盞嗚命 三筒男之命」、「主神誉田別命は第十五代應神天皇の別名で八幡大菩薩と称し、武神で源氏の氏神として知られています。又、素盞嗚命は天照大神の弟神で、八俣遠呂智(※やまたのおろち)退治で有名な武神で神仏融合時は、牛頭(※ごず)天皇(※天王の誤記であろう)と称し、国土の総べてを支配される神として昔から天皇(※天王の誤記であろう)さんと称賛されています。三筒男之命は、底筒男之命、中筒男之命、上筒男之命といい、住吉三神と称され、いずれも商売繁盛、縁結び、子授けなどにご利益があると云われている。当神社の創設年代は不詳ですが、天文年間(※1532年から1555年)池之内村の東北隅に樫木神社を奉祀していたが、富雄川の氾濫によって社殿が流出したので、現在地に遷座したと伝えられている。当神社は、昔より池之内町の守護神としてご信望厚く、当村の繁栄と氏子達の家内安全、五穀豊穣、受験祈願、疫病退散、安産等にご利益が顕著であります」。
「神社の祭典は先のとおりであります」と書いてあった「年中行事は、1月1日の元旦祭をはじめに、3月13日の祈年祭、7月14日の祇園祭、7月30日の住吉祭、10月第一土曜、日曜日の秋季例祭、12月13日の新嘗祭。平成20年9月吉日 池之内八幡神社社務所」。
訪れた前年に記された由緒書であった。
その年の秋である。
10月3日は、秋季例祭の宵宮がある。
その後の12月29日、撮らせてもらった祭りの写真を元自治会長のAさんに手渡したときに聞いた氷解の件。
植島宮司他、地区にも了解してもらっているから、と・・。
その背景に、別途に動いていた県教委職のS氏は、郡山土木事務所に撮影した行事写真の許諾要請をしていた。
11月11日のことだった。
翌日の12日である。
郡山土木事務所から状況説明を受けた植島宮司は、工事の件に関わる撮影について許諾されたそうだ。
その証に、事務所のK女史が許諾書を持って来られた。
許諾書を受け取った私は、撮影したデジタルデータとフイルムを事務所に提出した。
受け取ったK女史は、数日後の18日にフイルムを返却してくださった。
翌年の、平成22年2月24日である。
一度、ご自宅に伺う方がいいだろう、と判断し、表敬訪問した。
お会いした植島宮司。
すまんことした、と頭を下げられる宮司。
地区のために撮影してくれた、と逆に喜んでくださった。
翌月の3月13日に行われる祈年祭の撮影取材。
どうぞ、来て撮ってくだされ、と云われた。
これら一連の動きは、今でも覚えている件である。
そして続く、その年の撮影行事は夏の祭り。
7月14日は祇園祭。
7月30日は別名にお祓いとも呼ぶ住吉祭。
2行事続けての撮影取材の際に、さまざまなことを植島宮司が話してくださった。
こうした経緯があってから、丁度の11年目。
神社の移設工事が始まったのである。
工事中の現場に立ててあった「労災保険関係成立票」によれば、保険関係の成立日は、平成1年4月1日であるが、事業期間は令和2年3月2日から同年の12月30日まで。
新しくなった池之内八幡神社は、新年を祝って翌年の令和3年1月1日に元旦祭が行われるであろう。
前述したように発注者は池之内八幡神社。
自治会長名と思われる名で事業主代理人を記していた。
今年いっぱい行われる社殿移設工事。
5月半ば過ぎともなれば、社殿が南に移転する処も工事していた。
途中経緯、気にかけつつときどき立ち止まって状況を見ていたくもなる。
なお、神社の移設、遷宮経緯を振り返り、未公開の写真が見つかった。
境内からすべて、なにもかも変貌した神社の景観に、ひとつ残しておきたい映像がある。
それは、社殿前に植えていた松の木である。
新年を迎えた神社に葉付きの竹を立て、梅も木も添えた目出度い松竹梅。
今後は、見ることのない貴重な映像になるのでは、と思い、平成23年1月3日に撮った映像を掲載しておく。
(R2. 4.16、30 SB805SH撮影)
(R2. 5. 3、19 SB805SH撮影)
(H21. 7.29 SB912SH撮影)
(H23. 1. 3 SB932SH撮影)