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この年の5月8日である。
下見取材を終えて岐路につく。
どこをどう誤ったのか、もう記憶にない行程。
なんだか山の方に向かっているような気がしていた。
ほぼ集落を離れた地に不思議なものが目に入った。
車を降りて立ち寄れば注連縄である。
しかも不可思議な形のものも吊っていた。
「山神 山中・・」の文字を刻んだ大岩。
その前に建てた社に祭る、それは山の神。
村の人を探して下ったところにお二人。
散歩の途中に一息つけていた二人に、そのことを尋ねれば、まさに山の神。
不可思議なものはすぐ近くに住む高齢の方が作って祭るというから、N家まで押しかけて詳しいことを教えてもらった。
Nさんは昭和3年生まれ。
歴史文化にも詳しい、地域の生き字引のようなお方だった。
ここは78戸からなる吉野町千股(ちまた)である。
間違って入り込んだ山の方を臨んでみる。
峠を越えたら明日香村の栢森にたどり着く。
かつて飛鳥に住む宮中の人たちが吉野町の宮滝までを行幸していた峠道である。
聞取りから5カ月後の10月9日。
取材の許可取りに再び訪れた千股である。
大淀町・岩壺の行事に取りすがりにお会いした矢走の路上売り夫妻の取材を終えて車を走らせた。
時間帯は夕刻。日が暮れるまでに代表のK(総代区長にお会いでき、当日取材の承諾を得た。
それから20日も経ったころだった。
台風22号の影響によって川は増水。
上流にある上水道施設の濁り。
本来ならば山の神の前を流れる川で米を洗う。
洗った米で赤飯を炊く。
清流の濁りでできなくなった関係で赤飯は市販品に切り替えた。
また、その関係によって行事日程も変更することになったという。
こうした状況もあったが、ようやく拝見できる千股のささいわ行事。
これくらいの時間であれば山の神に何人かが集まっているだろうと思ってやってきた午後2時。
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ついさっきまでは山の神周りを綺麗に清掃していたそうだ。
午後1時より始めた「デアイ」の道作りは、草刈り清掃。
作業を終えて一段落していた村の人たちはトンド火にあたって暖を取っていた。
K区長や事前に教えてくださったNさんもおられる。
神饌はお神酒に塩、水。
大きな鯛に丸太の鯖一尾を供える。
サトイモ、ハクサイ、ニンジン、サツマイモにダイコン、ピーマンの作物。
キノコに果物のリンゴ、キウイも供えていた。
山の神の前に吊るした藁細工は三種。
この年もNさんが3日前に作っていたそうだ。
宮さん(※氏神社の葛上白石神社)の注連縄を作る要領で太く作っていたという。
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そのNさん、デアイに集まってその状況を見届けてから先に参拝を済ませて川渡り。
堤の端を渡って、足元は濡れずに帰ったようだ。
張った鉄線に吊り下げた注連縄。
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三か所それぞれに何束もある房を垂らしていた。
右側の頭部分は黄色に紅白の水引で縛っている。
中央に針金で引っかけたモノ。
ひと際大きいというか、丸太いのを「キンダマ」と呼んでいる。
その「キンダマ」の内部には大豆を12粒納めている。
旧暦の閏年の場合は13粒。
ここ千股にも旧暦閏年、つまり大の月もある13の月数を一年間とする暦があった。
形態はさまざまであるが奈良県内事例にこうした13の月数がいろんなところに登場する。
そのことによって、明治時代より前の時代にもしていたということがわかる史料でもある。
右に吊っているのは見た目でわかる細身。
これは男のシンボルだという。
山の神に近寄れるのは男性のみ。
「女性は近寄ることさえ許されないのです」と村の人はいう。
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左に吊っているのはナベツカミ。
牛の草鞋ではなくナベツカミだという。
武蔵野美術大学の民俗資料室に鍋掴みと牛の草鞋資料を掲載されているので参照されたい。
ちなみにこの日の取材にもう一人。
写真家のHさんも興味をもたれて、朝から滞在しているという。
山の神の御供上げが調ったところでローソクに火を点ける。
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村の人、一同揃っての参拝でなくめいめいが参って頭を下げる。
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場は鬱蒼とした樹木下。
午後3時半であっても夕刻のような暗さに錯覚する。
山の神の前の道はコンクリート造り。
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平坦な道に長机を4枚据えた場にご馳走が並ぶ。
ささいわ行事のメインでもある松明行列を終えた村の人は再びここへ戻ってきてよばれる直会の場である。
台風22号の影響で濁り川になったから米洗いができなくなった。
そういうことで市販のパック詰め赤飯になったが、実は場も替えようとされていた。
尤も急な雨天になった場合の対応であるが、その際はお家でしようという意見もあったらしい。
紙製の大皿に盛ったのは酒の肴。
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練り物の天ぷらにたくあん、コウコ。
胡瓜を詰めた竹輪など。
写真は撮っていないがお造りなど多様な肴がいっぱい並べて、そのときを待つ。
午後4時半も過ぎれば辺りはもう暗くなってきた。
山の神の場はもう夜の時間帯に移ろうとしていた。
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トンド火にあたっている人たちは松明行列が終わって戻ってくるまではここで待つ。
料理狙いの動物の目にでも食べられないようにして見張っている当番の人たちだ。
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一旦、家に戻って自作の松明を持って集合場所に出かける。
火を点けた松明行列が出発する時間帯は午後5時半。
これより始まる松明行列は千股川を挟んで村二手の東西地区に分かれて行われる。
長老の話しによれば、西千股は池田郷。
東千股は龍門郷になるそうだ。
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火の点いた松明を持って下る道。
両地区の道の間隔はままある。
距離にして60mも離れている。
身体は一つなので選択はどちらか。
西地区の出発地がわかったから川向こうの長い坂道の手前。
東地区の道外れにある広地に集まりかけた人たちにお声をかけて撮影に入る。
到着寸前に始まった火点け。
大慌てにカメラを構える余裕などなくシャッターを切る。
明るくなった火点け場に子供の姿が見える。
大人に混じって火点け。
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かつてささいわ行事は主に子供、若衆たちとともに松明を翳して練り歩いたそうだ。
少子化の流れはここ千股も同様。
若年層も少なくなった近年は、年齢に関係なく大人たちが占めるようになった。
松明に火が移ったら、道を下って歩き出した東千股の人たち。
辻を曲がって千股川沿いの道を行く。
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川沿いといっても距離はある。
里道にぽつぽつと立つ街灯の灯りよりも煌々と燃える松明の火。
辺りは赤々色に染まると同時に持ち手の人たちのお顔も火照る。
向こう岸は西千股。
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囃しているのか、それとも声が届かないのか、辺りは静かに松明の火だけが動いていく。
声がなければと、こっちからと云いつつ、大きな声で「ほっからかせ まめかせ」。
続けて「西の国の こばせくい」。
「もっと声ださな」とみなにも伝えて「ほっからかせ まめかせ」、「西の国の こうばせくい」と囃す。
西の国とは西千股をさす。
「こうばせくい」は、若干訛っているようだが、記録によれば「西の国の こうばし喰い」である。
「こうばしくい」とは米の屑、つまり米糠につく蟲のことであるという。
「こうばし」とは「麦こがし」である。
焼いて焦がした麦は食べ物。
麦粉菓子の漢字を充てる。
ブリタニア百科事典によれば「大麦とか裸麦を炒って粉にしたもの。関西ではハッタイコ」といえば、思い出す懐かしい味。
ハッタイコで育った私の記憶にあるのはお湯を注いで練った食べ物。挽いた粒は粗かった。
おーい、おーいと対岸に向かって声を揚げるが西の国からの反応が聞こえない。
静かに流れる千股川に声は響けども、反応があるような、ないような・・。
「ほっからかせ まめかせ」、「ほっからかせ まめかせ」、「ほっからかせ まめかせ」を連呼する東千股の人たち。
西千股から却ってくる囃しは「ほっからかせ まめかせ」に続いて「東の国の せんちむし」であるはずだが、小さな声では西千股までは届かなかったようだ。
ちなみに「せんちむし」とは何ぞえ、である。
西千股の人がいうには「せんちむし」は便所の蟲。
ぽっとん便便所に居た蟲の「せっちんむし」。
充てる漢字は雪隠蟲。
まさにその通りである。
私の子供のころはぽっとん便所。
ぶーんと羽根音がする便所蟲はいつもいた。
大阪市内に住んでいた市営住宅はぽっとん便所。
尤も、落ちた便の跳ね返りは「ぼっとん」だったから「ぼっとん便所」である。
当時、木造だった市営住宅はやがて鉄筋コンクリート造になった。
昭和50年代初頭のころである。
そのときから文化的衛生面のある水洗便所に移っていった。
それはともかく「せんちむし」に「こうばし喰い」は西と東がお互いに揶揄する詞を言い合ったというわけだ。
昭和18年生まれのYさんが子どものころ。
千股にあった小学校の生徒数は70人。
およそ60年前の小学校は複式学級だったそうだ。
平成6年12月24日に発行された吉野小学校PTA広報誌の「川波 第52号」によれば、その年に参加した子供の人数は5人だったと記す。
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向こう岸の里道を行く西千股の松明と合流する場所は”ミツバトウゲ“に架かる橋である。
里道から下って橋に集まってきた両地区の松明。
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欄干から川を覗き見る顔、顔。
ころあいを見計らって一斉に松明を投げ入れる。
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その際、何人かの子どもの声がしたから複数人だったようだ。
川にいる村の人は水際に集めた松明のすべてを燃やして水に流す。
安全のため、消火を考えた到着地点である。
昔のことであるが、「松明行列を終えた子どもたちは区長の家に行って小遣い銭をもらっていた」。
「竹代をくれ、と云って村中一軒ずつ歩いて廻っていた」と「川波 第52号」が伝えていた。
さて、「ささいわ」とは何であるか、だ。
村の長老が遺したメモ書きによれば、起源は150年前。
明治時代初めのころのようだ。
山の神の前を流れる清流は水泳の場であった。
その場で何の争いかわからないが、山の神さんの祠が原因だった、と。
山の神さんの所有をめぐって、東千股と西千股で争いが起こった。
生じた争いは和解、成立し、それを祈念して平和の誓いをたて、「笹祝」の行事として、毎年行うようになったとある。
何故に「笹」「祝い」なのか、メモ書きにはないが、取り合いになったと思われる山の神の祠。
争い詞に「祠を返せ」。
つまり「ほこらをかえせ」から「ほっこらかせ」に、と。
「豆返せ」はお互いが罵る一番嫌いなものが、せんち蟲、つまり便所の蛆虫。
こばし喰いは、麦の皮の食べられない部分。
だから「豆返せ」という論であった。
なんとも納得しがたい面もあるが・・。
明治時代になるまでは西千股は池田郷。
東千股が龍門郷。
明治維新後の町村合併によって合わさった行政区にどちらの村が優位性を保っているのか、住民同士が罵り始めたのでは、と推定したが・・。
そうであったとしても、長老が充てた漢字は「笹祝」。
私自身、今のところ理由は思いつかない。
千股のささいわはかつて旧暦の9月晦日に行われていた。
1953年(昭和28年)に調査報告の上、奈良縣教育委員会から発刊された『奈良縣総合文化調査報告書―吉野川流域龍門地區―』に、そう記す。
旧暦から新暦の10月30日に移したのは明治時代の初めであろう。
『奈良縣総合文化調査報告書』によれば、子ども仲間でするのと、若衆仲間でする2部構成になっていたとある。
夕方に集まる子どもたちは学校へ行く年ごろから15歳までの青年団に入るまでの年齢層であった。
火振りの竹を幾つも束ねて、先端を割り、燃えやすいように枯れた杉葉、松葉を詰めた松明であった。
両地区に分かれた子供たちは、お互いが罵りあいながら里道を下って、ヒトツヤ(一つ家)という処で、燃やしていた。
その場に集まった子どもたちの声。
よく燃えた場合は自慢しあい、相手の東(或いは西)の燃え方が悪いと“東(或いは西)の奴は燃えへん、ヒンソ(貧相)な”などと悪口を云った。
それから東西の子どもたちはそれぞれが“竹代をくれ”と云って、村中を1軒ずつ廻って小遣い銭をもらっていた。
千股川上流の家でもらったお金を分配していた。
年長の子どもは多め、余計に多く取って、年少の子らに残りを分配していた。
その後、やり方は替わり、子どもたちに任すことをせずに区長家で一括化。
一人当たり5円ずつ渡すようにしたと書いてある。
昭和27年のときの子どもは37人。
子供組というものは特になく、ただただ年長の子どもが世話をしていたとあるから、その後において区長預かりになったようだ。
その時代以前の子ども。
カコ(※刈り取った稲を干すために架ける竹の棒)の先端に藁の玉を括り付け、若い衆たちも手伝って、ダメ(※一番最後の意)にそれを振ったとある。
さて、山の神である。
松明送りを終えた人たちは、北に向かう。
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5分ほど歩けば山の神の場である。
火の番をしていた当番さん。
真っ暗な場にサーチライトを照らして食事の料理が見えるようにしている隣のテーブル。
松明送りをしてきた男たちが集まる場に灯りが点いたら、山の神に吊るした藁作り捧げものが浮かび上がった。
お神酒をいただいて料理を愉しむ。
話題はさまざま。
トンドの火に近寄って暖を取る人たち。
飲んで身体を温める人もあれば、火に温まる人も賑やかに山の神の恵みをいただいていた。
山の神まつりにおいても『奈良縣総合文化調査報告書』より引用し、一部抜粋、補正の上、記しておく。
「青年團は、各戸から60歳までの男一人について、二合五勺に少しずつの小豆をもらい、夜の10時ころに村の北外れにある山の神の場に集まった。山の神の場。以前は樫の大木があったが、大風で倒れたために石に「山神」と彫って納めた」とある。
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それは今もなお山の神の社の後方に建つ「山の神」の指標である。
また、「家の神棚に祭っていた古いお札は山の神に納める」、とある。
「山の神の前を流れる千股川の清流で米を洗った。洗う回数は、“七度半”」。
その都度、川の水を入れ替えて洗っていたようだ。
「山道の真ん中に設えた簡単な石の籠。2カ所に大鍋を2個も架けて赤飯を炊いていた。ひと寝入りした男の子や、60歳までの男は、赤飯が炊きあがる時間。深夜時間の午前1から2時ころ。“ささいわの握り飯をもらいに行こうや”と声をかけ合って、集まってきたら、一人ずつ3個のおにぎりをくれた」とある。
「若い衆は、別に新しいシトギ(※シトギ、つまり米粉で作る粢であるが、千股では粢はなく藁で作った“ホデ”をシトギと呼んでいた)、ミミツカミ(※前述したナベツカミであり、鍋の耳を掴むことからミミツカミとも称する)、箕に注連縄の太いものと注連縄の“タスキ”を作る」
「藁で作ったシトギの内部に、米と12粒(※旧暦閏年は大の月数になるから13粒)の小豆を入れ込み、注連縄とともに山の神の傍に立つ樹木にかけた」。
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また、「ミミツカミと箕は握り飯とともに山の神に供えた。また、竹のゴーを二つ作り、その竹筒にお神酒を注いで木にぶら下げた」とある。
この日に拝見した山の神の御供に箕と竹のゴーは見られない。
失念したようでもない。
と、いうのも、今年の10月9日に訪れたとき、すでに山の神にはなかったから、毎年そうしてきたのであろう。
作り手のNさんの口からもその件は話しにでなかった。
気になるのは文中の“竹のゴー”である。
竹のゴーとは竹で作ったお神酒入れである。
これを“オミキドックリ”と呼んでいたのは宇陀市榛原の額井である。
充てる漢字はお神酒徳利。
まさにその通りである。
“竹のゴー“の呼び名は「十津川かけはしネット」にある。
執筆は十津川村教育委員会の教職者。
学校教育の一環に構成されたネットである。
「十津川かけはしネット」の「十津川探検」、「十津川郷民語彙」に「※ タケノゴー(竹筒のこと)」とある。
山行きさんが山の神さんに参る際の道具である。
その事例に紹介しておく奈良市柳生町・山脇の山の口講の祭り方。
ここでは竹のゴーという呼び名でなく、「竹のゴンゴ」である。
この呼び名は田原の里と呼ばれる奈良市東部山間地で伝わる詞。
平成26年12月1日にイノコのクルミモチ作りに訪問した際に教えてもらった地域の語彙が「竹のゴンゴ゙」であった。
話しは戻すが、千股にあった“竹のゴー”も同じような形状であったと推定されるのである。
また、シトギについても柳生町・山脇の山の口講の祭り方を参照していただきたい。
千股のささいわ行事に話しを戻そう。
『奈良縣総合文化調査報告書』に次のことも書いてあった。
「ささいわの握り飯は、女が買いに、行きにもせず、たべもせず。山の神のまつりをしているとき、女の人が通りかかると、石が転げて飛んでくるという。昭和26年、千股のある女の人がささいわ行事の日を忘れて、火を焚いているところを通る際、川の向こう道に切り替えて息を殺しながら通りすぎたという」。
今もなお千股の山の神は女を嫌う。
山の神は男やから、その場に女は一切立ち入り禁ズ、という。
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さらに次のことも伝えていた。
「女ばかりでなく、ささいわ行事のときは人通りが少なかった。この道は、芋峠を越えて高市郡の飛鳥に。或いは磯城郡の多武峰に出る道なので、平常の人通りは多かったのだが、昔は一度、刀を差したシニビキヤク(※死に飛脚、つまり死亡を伝える通知便を運ぶ飛脚)が、二人も通ったのを見た記憶がある」という証言もあったそうだ。
民俗の断片を知る手掛かりになる記憶証言である。
「だいたい、ささいわ行事はキラダメル(※地域語彙と思われるが意味不明である)とて、死を忌み、不幸の家は“ここの家、火や悪い”と云って、その家だけは別にした。忌みのかかった家は“今年はブク(※服忌)かかっとるから握り飯もらいに行こまい”と、云ってもらいに行かなかった」。
「40年ほど前(※仮に昭和26年を基点として計算すれば明治44年辺り)、米が不作の年だったというが、若い衆の全部が出てする山の神まつりは廃せられた。明治42年、小学校建設の地均しをするために、千股を7組の垣内に分けて、それをもとに垣内単位で交代する山の神まつりにした。その結果、青年團は特に参興することがなくなった。それからも続く山の神まつりは垣内が当番組の男の子は交代するが、お供えは替えることなく・・」、毎年が同じであった。
それから65年後の今日。
山の神のまつりに寄り合う男たちは青年どころか壮年時代に移っていた。
子どもの少子化は県内どころか全国的。
男の子だけでするには無理がある。
十数年前からは女の子も受け入れて継承してきた地域行事がある。
なんとか繋いできたが、それすらも難しくなった絶対数も少ない少子化時代。
外孫も受け入れて継続している地域もまた増えている。
子どもが主体で行われてきた地域行事は、今後、どうなっていくのだろうか。
近い将来の問題は喫緊の課題であるが・・・。
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千股でいただいた赤飯をよばれながら、伝統を紡いできた日本の民俗の将来像に夢をみていた。
(H29. 5. 8 EOS40D撮影)
(H29.11. 5 EOS40D撮影)
下見取材を終えて岐路につく。
どこをどう誤ったのか、もう記憶にない行程。
なんだか山の方に向かっているような気がしていた。
ほぼ集落を離れた地に不思議なものが目に入った。
車を降りて立ち寄れば注連縄である。
しかも不可思議な形のものも吊っていた。
「山神 山中・・」の文字を刻んだ大岩。
その前に建てた社に祭る、それは山の神。
村の人を探して下ったところにお二人。
散歩の途中に一息つけていた二人に、そのことを尋ねれば、まさに山の神。
不可思議なものはすぐ近くに住む高齢の方が作って祭るというから、N家まで押しかけて詳しいことを教えてもらった。
Nさんは昭和3年生まれ。
歴史文化にも詳しい、地域の生き字引のようなお方だった。
ここは78戸からなる吉野町千股(ちまた)である。
間違って入り込んだ山の方を臨んでみる。
峠を越えたら明日香村の栢森にたどり着く。
かつて飛鳥に住む宮中の人たちが吉野町の宮滝までを行幸していた峠道である。
聞取りから5カ月後の10月9日。
取材の許可取りに再び訪れた千股である。
大淀町・岩壺の行事に取りすがりにお会いした矢走の路上売り夫妻の取材を終えて車を走らせた。
時間帯は夕刻。日が暮れるまでに代表のK(総代区長にお会いでき、当日取材の承諾を得た。
それから20日も経ったころだった。
台風22号の影響によって川は増水。
上流にある上水道施設の濁り。
本来ならば山の神の前を流れる川で米を洗う。
洗った米で赤飯を炊く。
清流の濁りでできなくなった関係で赤飯は市販品に切り替えた。
また、その関係によって行事日程も変更することになったという。
こうした状況もあったが、ようやく拝見できる千股のささいわ行事。
これくらいの時間であれば山の神に何人かが集まっているだろうと思ってやってきた午後2時。
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ついさっきまでは山の神周りを綺麗に清掃していたそうだ。
午後1時より始めた「デアイ」の道作りは、草刈り清掃。
作業を終えて一段落していた村の人たちはトンド火にあたって暖を取っていた。
K区長や事前に教えてくださったNさんもおられる。
神饌はお神酒に塩、水。
大きな鯛に丸太の鯖一尾を供える。
サトイモ、ハクサイ、ニンジン、サツマイモにダイコン、ピーマンの作物。
キノコに果物のリンゴ、キウイも供えていた。
山の神の前に吊るした藁細工は三種。
この年もNさんが3日前に作っていたそうだ。
宮さん(※氏神社の葛上白石神社)の注連縄を作る要領で太く作っていたという。

そのNさん、デアイに集まってその状況を見届けてから先に参拝を済ませて川渡り。
堤の端を渡って、足元は濡れずに帰ったようだ。
張った鉄線に吊り下げた注連縄。
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三か所それぞれに何束もある房を垂らしていた。
右側の頭部分は黄色に紅白の水引で縛っている。
中央に針金で引っかけたモノ。
ひと際大きいというか、丸太いのを「キンダマ」と呼んでいる。
その「キンダマ」の内部には大豆を12粒納めている。
旧暦の閏年の場合は13粒。
ここ千股にも旧暦閏年、つまり大の月もある13の月数を一年間とする暦があった。
形態はさまざまであるが奈良県内事例にこうした13の月数がいろんなところに登場する。
そのことによって、明治時代より前の時代にもしていたということがわかる史料でもある。
右に吊っているのは見た目でわかる細身。
これは男のシンボルだという。
山の神に近寄れるのは男性のみ。
「女性は近寄ることさえ許されないのです」と村の人はいう。
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左に吊っているのはナベツカミ。
牛の草鞋ではなくナベツカミだという。
武蔵野美術大学の民俗資料室に鍋掴みと牛の草鞋資料を掲載されているので参照されたい。
ちなみにこの日の取材にもう一人。
写真家のHさんも興味をもたれて、朝から滞在しているという。
山の神の御供上げが調ったところでローソクに火を点ける。
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村の人、一同揃っての参拝でなくめいめいが参って頭を下げる。
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場は鬱蒼とした樹木下。
午後3時半であっても夕刻のような暗さに錯覚する。
山の神の前の道はコンクリート造り。
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平坦な道に長机を4枚据えた場にご馳走が並ぶ。
ささいわ行事のメインでもある松明行列を終えた村の人は再びここへ戻ってきてよばれる直会の場である。
台風22号の影響で濁り川になったから米洗いができなくなった。
そういうことで市販のパック詰め赤飯になったが、実は場も替えようとされていた。
尤も急な雨天になった場合の対応であるが、その際はお家でしようという意見もあったらしい。
紙製の大皿に盛ったのは酒の肴。
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練り物の天ぷらにたくあん、コウコ。
胡瓜を詰めた竹輪など。
写真は撮っていないがお造りなど多様な肴がいっぱい並べて、そのときを待つ。
午後4時半も過ぎれば辺りはもう暗くなってきた。
山の神の場はもう夜の時間帯に移ろうとしていた。
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トンド火にあたっている人たちは松明行列が終わって戻ってくるまではここで待つ。
料理狙いの動物の目にでも食べられないようにして見張っている当番の人たちだ。
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一旦、家に戻って自作の松明を持って集合場所に出かける。
火を点けた松明行列が出発する時間帯は午後5時半。
これより始まる松明行列は千股川を挟んで村二手の東西地区に分かれて行われる。
長老の話しによれば、西千股は池田郷。
東千股は龍門郷になるそうだ。
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火の点いた松明を持って下る道。
両地区の道の間隔はままある。
距離にして60mも離れている。
身体は一つなので選択はどちらか。
西地区の出発地がわかったから川向こうの長い坂道の手前。
東地区の道外れにある広地に集まりかけた人たちにお声をかけて撮影に入る。
到着寸前に始まった火点け。
大慌てにカメラを構える余裕などなくシャッターを切る。
明るくなった火点け場に子供の姿が見える。
大人に混じって火点け。
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かつてささいわ行事は主に子供、若衆たちとともに松明を翳して練り歩いたそうだ。
少子化の流れはここ千股も同様。
若年層も少なくなった近年は、年齢に関係なく大人たちが占めるようになった。
松明に火が移ったら、道を下って歩き出した東千股の人たち。
辻を曲がって千股川沿いの道を行く。
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川沿いといっても距離はある。
里道にぽつぽつと立つ街灯の灯りよりも煌々と燃える松明の火。
辺りは赤々色に染まると同時に持ち手の人たちのお顔も火照る。
向こう岸は西千股。
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囃しているのか、それとも声が届かないのか、辺りは静かに松明の火だけが動いていく。
声がなければと、こっちからと云いつつ、大きな声で「ほっからかせ まめかせ」。
続けて「西の国の こばせくい」。
「もっと声ださな」とみなにも伝えて「ほっからかせ まめかせ」、「西の国の こうばせくい」と囃す。
西の国とは西千股をさす。
「こうばせくい」は、若干訛っているようだが、記録によれば「西の国の こうばし喰い」である。
「こうばしくい」とは米の屑、つまり米糠につく蟲のことであるという。
「こうばし」とは「麦こがし」である。
焼いて焦がした麦は食べ物。
麦粉菓子の漢字を充てる。
ブリタニア百科事典によれば「大麦とか裸麦を炒って粉にしたもの。関西ではハッタイコ」といえば、思い出す懐かしい味。
ハッタイコで育った私の記憶にあるのはお湯を注いで練った食べ物。挽いた粒は粗かった。
おーい、おーいと対岸に向かって声を揚げるが西の国からの反応が聞こえない。
静かに流れる千股川に声は響けども、反応があるような、ないような・・。
「ほっからかせ まめかせ」、「ほっからかせ まめかせ」、「ほっからかせ まめかせ」を連呼する東千股の人たち。
西千股から却ってくる囃しは「ほっからかせ まめかせ」に続いて「東の国の せんちむし」であるはずだが、小さな声では西千股までは届かなかったようだ。
ちなみに「せんちむし」とは何ぞえ、である。
西千股の人がいうには「せんちむし」は便所の蟲。
ぽっとん便便所に居た蟲の「せっちんむし」。
充てる漢字は雪隠蟲。
まさにその通りである。
私の子供のころはぽっとん便所。
ぶーんと羽根音がする便所蟲はいつもいた。
大阪市内に住んでいた市営住宅はぽっとん便所。
尤も、落ちた便の跳ね返りは「ぼっとん」だったから「ぼっとん便所」である。
当時、木造だった市営住宅はやがて鉄筋コンクリート造になった。
昭和50年代初頭のころである。
そのときから文化的衛生面のある水洗便所に移っていった。
それはともかく「せんちむし」に「こうばし喰い」は西と東がお互いに揶揄する詞を言い合ったというわけだ。
昭和18年生まれのYさんが子どものころ。
千股にあった小学校の生徒数は70人。
およそ60年前の小学校は複式学級だったそうだ。
平成6年12月24日に発行された吉野小学校PTA広報誌の「川波 第52号」によれば、その年に参加した子供の人数は5人だったと記す。
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向こう岸の里道を行く西千股の松明と合流する場所は”ミツバトウゲ“に架かる橋である。
里道から下って橋に集まってきた両地区の松明。
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欄干から川を覗き見る顔、顔。
ころあいを見計らって一斉に松明を投げ入れる。
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その際、何人かの子どもの声がしたから複数人だったようだ。
川にいる村の人は水際に集めた松明のすべてを燃やして水に流す。
安全のため、消火を考えた到着地点である。
昔のことであるが、「松明行列を終えた子どもたちは区長の家に行って小遣い銭をもらっていた」。
「竹代をくれ、と云って村中一軒ずつ歩いて廻っていた」と「川波 第52号」が伝えていた。
さて、「ささいわ」とは何であるか、だ。
村の長老が遺したメモ書きによれば、起源は150年前。
明治時代初めのころのようだ。
山の神の前を流れる清流は水泳の場であった。
その場で何の争いかわからないが、山の神さんの祠が原因だった、と。
山の神さんの所有をめぐって、東千股と西千股で争いが起こった。
生じた争いは和解、成立し、それを祈念して平和の誓いをたて、「笹祝」の行事として、毎年行うようになったとある。
何故に「笹」「祝い」なのか、メモ書きにはないが、取り合いになったと思われる山の神の祠。
争い詞に「祠を返せ」。
つまり「ほこらをかえせ」から「ほっこらかせ」に、と。
「豆返せ」はお互いが罵る一番嫌いなものが、せんち蟲、つまり便所の蛆虫。
こばし喰いは、麦の皮の食べられない部分。
だから「豆返せ」という論であった。
なんとも納得しがたい面もあるが・・。
明治時代になるまでは西千股は池田郷。
東千股が龍門郷。
明治維新後の町村合併によって合わさった行政区にどちらの村が優位性を保っているのか、住民同士が罵り始めたのでは、と推定したが・・。
そうであったとしても、長老が充てた漢字は「笹祝」。
私自身、今のところ理由は思いつかない。
千股のささいわはかつて旧暦の9月晦日に行われていた。
1953年(昭和28年)に調査報告の上、奈良縣教育委員会から発刊された『奈良縣総合文化調査報告書―吉野川流域龍門地區―』に、そう記す。
旧暦から新暦の10月30日に移したのは明治時代の初めであろう。
『奈良縣総合文化調査報告書』によれば、子ども仲間でするのと、若衆仲間でする2部構成になっていたとある。
夕方に集まる子どもたちは学校へ行く年ごろから15歳までの青年団に入るまでの年齢層であった。
火振りの竹を幾つも束ねて、先端を割り、燃えやすいように枯れた杉葉、松葉を詰めた松明であった。
両地区に分かれた子供たちは、お互いが罵りあいながら里道を下って、ヒトツヤ(一つ家)という処で、燃やしていた。
その場に集まった子どもたちの声。
よく燃えた場合は自慢しあい、相手の東(或いは西)の燃え方が悪いと“東(或いは西)の奴は燃えへん、ヒンソ(貧相)な”などと悪口を云った。
それから東西の子どもたちはそれぞれが“竹代をくれ”と云って、村中を1軒ずつ廻って小遣い銭をもらっていた。
千股川上流の家でもらったお金を分配していた。
年長の子どもは多め、余計に多く取って、年少の子らに残りを分配していた。
その後、やり方は替わり、子どもたちに任すことをせずに区長家で一括化。
一人当たり5円ずつ渡すようにしたと書いてある。
昭和27年のときの子どもは37人。
子供組というものは特になく、ただただ年長の子どもが世話をしていたとあるから、その後において区長預かりになったようだ。
その時代以前の子ども。
カコ(※刈り取った稲を干すために架ける竹の棒)の先端に藁の玉を括り付け、若い衆たちも手伝って、ダメ(※一番最後の意)にそれを振ったとある。
さて、山の神である。
松明送りを終えた人たちは、北に向かう。
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5分ほど歩けば山の神の場である。
火の番をしていた当番さん。
真っ暗な場にサーチライトを照らして食事の料理が見えるようにしている隣のテーブル。
松明送りをしてきた男たちが集まる場に灯りが点いたら、山の神に吊るした藁作り捧げものが浮かび上がった。
お神酒をいただいて料理を愉しむ。
話題はさまざま。
トンドの火に近寄って暖を取る人たち。
飲んで身体を温める人もあれば、火に温まる人も賑やかに山の神の恵みをいただいていた。
山の神まつりにおいても『奈良縣総合文化調査報告書』より引用し、一部抜粋、補正の上、記しておく。
「青年團は、各戸から60歳までの男一人について、二合五勺に少しずつの小豆をもらい、夜の10時ころに村の北外れにある山の神の場に集まった。山の神の場。以前は樫の大木があったが、大風で倒れたために石に「山神」と彫って納めた」とある。
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それは今もなお山の神の社の後方に建つ「山の神」の指標である。
また、「家の神棚に祭っていた古いお札は山の神に納める」、とある。
「山の神の前を流れる千股川の清流で米を洗った。洗う回数は、“七度半”」。
その都度、川の水を入れ替えて洗っていたようだ。
「山道の真ん中に設えた簡単な石の籠。2カ所に大鍋を2個も架けて赤飯を炊いていた。ひと寝入りした男の子や、60歳までの男は、赤飯が炊きあがる時間。深夜時間の午前1から2時ころ。“ささいわの握り飯をもらいに行こうや”と声をかけ合って、集まってきたら、一人ずつ3個のおにぎりをくれた」とある。
「若い衆は、別に新しいシトギ(※シトギ、つまり米粉で作る粢であるが、千股では粢はなく藁で作った“ホデ”をシトギと呼んでいた)、ミミツカミ(※前述したナベツカミであり、鍋の耳を掴むことからミミツカミとも称する)、箕に注連縄の太いものと注連縄の“タスキ”を作る」
「藁で作ったシトギの内部に、米と12粒(※旧暦閏年は大の月数になるから13粒)の小豆を入れ込み、注連縄とともに山の神の傍に立つ樹木にかけた」。
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また、「ミミツカミと箕は握り飯とともに山の神に供えた。また、竹のゴーを二つ作り、その竹筒にお神酒を注いで木にぶら下げた」とある。
この日に拝見した山の神の御供に箕と竹のゴーは見られない。
失念したようでもない。
と、いうのも、今年の10月9日に訪れたとき、すでに山の神にはなかったから、毎年そうしてきたのであろう。
作り手のNさんの口からもその件は話しにでなかった。
気になるのは文中の“竹のゴー”である。
竹のゴーとは竹で作ったお神酒入れである。
これを“オミキドックリ”と呼んでいたのは宇陀市榛原の額井である。
充てる漢字はお神酒徳利。
まさにその通りである。
“竹のゴー“の呼び名は「十津川かけはしネット」にある。
執筆は十津川村教育委員会の教職者。
学校教育の一環に構成されたネットである。
「十津川かけはしネット」の「十津川探検」、「十津川郷民語彙」に「※ タケノゴー(竹筒のこと)」とある。
山行きさんが山の神さんに参る際の道具である。
その事例に紹介しておく奈良市柳生町・山脇の山の口講の祭り方。
ここでは竹のゴーという呼び名でなく、「竹のゴンゴ」である。
この呼び名は田原の里と呼ばれる奈良市東部山間地で伝わる詞。
平成26年12月1日にイノコのクルミモチ作りに訪問した際に教えてもらった地域の語彙が「竹のゴンゴ゙」であった。
話しは戻すが、千股にあった“竹のゴー”も同じような形状であったと推定されるのである。
また、シトギについても柳生町・山脇の山の口講の祭り方を参照していただきたい。
千股のささいわ行事に話しを戻そう。
『奈良縣総合文化調査報告書』に次のことも書いてあった。
「ささいわの握り飯は、女が買いに、行きにもせず、たべもせず。山の神のまつりをしているとき、女の人が通りかかると、石が転げて飛んでくるという。昭和26年、千股のある女の人がささいわ行事の日を忘れて、火を焚いているところを通る際、川の向こう道に切り替えて息を殺しながら通りすぎたという」。
今もなお千股の山の神は女を嫌う。
山の神は男やから、その場に女は一切立ち入り禁ズ、という。
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さらに次のことも伝えていた。
「女ばかりでなく、ささいわ行事のときは人通りが少なかった。この道は、芋峠を越えて高市郡の飛鳥に。或いは磯城郡の多武峰に出る道なので、平常の人通りは多かったのだが、昔は一度、刀を差したシニビキヤク(※死に飛脚、つまり死亡を伝える通知便を運ぶ飛脚)が、二人も通ったのを見た記憶がある」という証言もあったそうだ。
民俗の断片を知る手掛かりになる記憶証言である。
「だいたい、ささいわ行事はキラダメル(※地域語彙と思われるが意味不明である)とて、死を忌み、不幸の家は“ここの家、火や悪い”と云って、その家だけは別にした。忌みのかかった家は“今年はブク(※服忌)かかっとるから握り飯もらいに行こまい”と、云ってもらいに行かなかった」。
「40年ほど前(※仮に昭和26年を基点として計算すれば明治44年辺り)、米が不作の年だったというが、若い衆の全部が出てする山の神まつりは廃せられた。明治42年、小学校建設の地均しをするために、千股を7組の垣内に分けて、それをもとに垣内単位で交代する山の神まつりにした。その結果、青年團は特に参興することがなくなった。それからも続く山の神まつりは垣内が当番組の男の子は交代するが、お供えは替えることなく・・」、毎年が同じであった。
それから65年後の今日。
山の神のまつりに寄り合う男たちは青年どころか壮年時代に移っていた。
子どもの少子化は県内どころか全国的。
男の子だけでするには無理がある。
十数年前からは女の子も受け入れて継承してきた地域行事がある。
なんとか繋いできたが、それすらも難しくなった絶対数も少ない少子化時代。
外孫も受け入れて継続している地域もまた増えている。
子どもが主体で行われてきた地域行事は、今後、どうなっていくのだろうか。
近い将来の問題は喫緊の課題であるが・・・。
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千股でいただいた赤飯をよばれながら、伝統を紡いできた日本の民俗の将来像に夢をみていた。
(H29. 5. 8 EOS40D撮影)
(H29.11. 5 EOS40D撮影)