マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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吉野町・西谷/佐々羅の水口まつり

2019年09月17日 09時28分39秒 | 吉野町へ
4月末、知人の写真家Kさんが伝えてくれた水口まつりの所在地。

場所は吉野町の上市に“吉野山口神社”のお札が苗代にあったという情報である。

上市町も吉野山口神社も認識できるが、その吉野山口神社の鎮座地は吉野町の大字山口になる。

神社の氏子域は郷村の山口、香束(こうそく)、西谷、平尾、佐東、峯寺の六カ大字と聞いている。

よくよく聞けば地域は吉野川流域の龍門地区の一つである大字西谷・佐々羅であった。

場所は新鹿路トンネルを下った地区にあったというから探してみる。

下った道の一番最初に出くわした処は、道路の左右に建つ6、7軒の民家。

民家より先に出会った白い幌で被せた苗代場が見つかった。

走行中に見た一瞬に白いモノが目に入った。

車を停車するような広地はない。

ほんの1分もあればいいと思って緊急的措置をとった路上駐車。

車から降りて見たそれは、護符であった。

杉苗もある護符に文字の一部、「吉野山・・」に「高・・」が読めた。

1枚の写真を撮ってさらに下ったところに筋道があった。

車を寄せるところはここしかないと判断して停めた。

場は民家が建つ真ん前。



田に水を張っていたお家だった。

そろそろ田植えを始めようとされるお家にご高齢のご夫婦が椅子に座って日向ぼっこをしていた。

お声をかけて、カドニワにあがらせてもらって、ご夫婦の前に立って、緊急停車の承諾をしてもらった。

「まぁ、こっちに座りや」と云われて行事などの四方山話。

尤も、この時季に相応しい、共通項になりそうな話題に、田んぼ、苗代、護符、神社行事に岳ノボリなどを投げかけて拾った民俗話題、である。

神社行事はさておいて、ダケノボリは4月17日。

あの山道の尾根つたいに行ったことがある、と話した吉野山口嶽神社の岳ノボリに驚かれたご主人。

岳ノボリのこと、村の人以外の人が知っているってことが、驚きだったようだ。

ご主人はやや耳が遠かったが、会話は通じる。

生まれは新鹿路トンネルのもっと山の上にあった20から30数軒の集落があった「細峠」。

そこを下ってきて、ここ「西谷」に住んでいる、と云う。

つい先ほどに見た苗代の護符にイロバナ。

そこにあったと話したら思い出された。

何十年も前のことである。

苗代をしていたころは吉野山口神社・高鉾神社の護符とともにイロバナを立てていた。

おっぱん(※御飯のこと)も供えて、拝んでいたという。

花は何でもいいわけでなく、ヤマブキは立てない。

なぜに、である。

ヤマブキは実がならないから相応しくないというのである。

実ができない花を植えたことで稲に穂がつかなかったらエライことである。

なるほど、と頷けた花である。



記憶は鮮明に蘇ったらしく、話がつきない高齢の男性は大正12年生まれの94歳。

「身体も耳も目もあかんようになったから苗代はようしやん。苗はJAで購入してこの3日に持ってきよる。その日は息子らが田植えをしてくれる」と話すOさん。

田植えは5月連休に入れば、息子家族が手伝ってくれるから水を張っていたという農家さんだった。

「苗代はしなくなった。今はJAから苗を購入している。田植えをする畦に立ててあるから、見てみな」と云われて移動する。

水を張った田んぼの一角にあった護符は神社役員が配ってくれたもの。



なるほどの位置に立ててあった護符はビニール袋包み。

Oさんがいうには「雨に打たれてはあかんやろ」ということだ。

「これは神さんがくれはった護符や。神棚に置いておくもんではない。苗代とか田んぼに挿して豊作にしてもらうんや」と、強く云われた農家さんの心に、ごもっとも、である。

専業農家は少なくなり、ほとんどがサラリーマン兼業農家。

県内事例もそうだが、全国的な傾向に吉野山口神社の氏子たちもまた神棚のまつり方に移っている状況である。

Oさんの話題提供はまだある。

今年かどうかわからないが、岳ダケノボリのときに乾杯の音頭もとったし、導師の務めをしていた、そのときである。

突然に息が苦しくなって、嵩神社の裏に隠れていた、という。

急に発症したのは心筋梗塞。

今は独りで出歩くのも難しくなった、という。

話だけでは時間が過ぎていくばかり。

腕時計を見れば午後4時。

田んぼが山陰に隠れてしまいそうになるから一旦は西谷から離れることにしたが、さきほど撮ったばかりの護符に杉葉の映像をビューで見てもらった。

上のお家の方が立てたと思う護符の映像を見たOさん。

「神さんごとは疎かにしたらあかん。昔は拝んでいたもんや」と、涙ぐんでいた。

大字西谷からさらに下った所に十字路に信号佐々羅がある。

そこからすぐ近くだった。

ネットで囲った苗代は2列。



それぞれに護符・杉苗にイロバナを立てているから2家の苗代である。

護符に模擬苗の杉苗もあることから4月に行われると聞いていた吉野山口神社の祈年祭で奉られたものであろう。

萎んでいたイロバナの具合からある程度の日数が経過していることがわかる。



護符にある文字は「式内 高鉾神社 吉野山口神社 五穀豊饒御祈祷牘」。

豊作を願った祈祷札である。



ネット囲みの苗代御供を撮っていたら単車に乗ってきた男性がやってきた。

不審者が何かをしていると思ったらしく、数十メートルも離れたところから凝視していた。

視線を感じた私はその男性に大声をかけていた。

「苗代田を見ているんで親戚の者と思った」と、いう男性。

実は、と申し出た取材主旨。

「それならうちの家の苗代にも立てている」という。

みなは短いが、うちのは長いススンボの竹に括っている。



ただ、イロバナはしていないという男性は二日後には田植えをするという。

そういえば周辺数か所で田植え作業をしていた家もある。

2日後には雨が降る予報に急遽早めたそうだ。

ところで苗代はいつされたのか。

バイク乗りのNさんの話しによれば、村全体が前月の4月半ばの日曜にする予定だったそうだ。

ところが、また雨の予報に前日の土曜に切り替えたという。

その際に護符と杉苗を立てた、のではなく翌週の日曜日。

つまり22日に行われた吉野山口神社の祈年祭で奉り、終わってから神社役員が各戸に配ったというから、当日或いは以降である。

受け取ったその日に立てたという人もあれば翌日に、という家もある。

これまでいくつもの苗代・水口まつりを地域ごとに拝見してきたが、まず間違いなく苗代作りをしたときに、である。

行事の日程によって一週間遅れに立てる事例もある、と初めて知った。

ちなみに私がもつデータによれば、吉野山口神社の祈年祭は4月22日。

固定日であるが、今ではどうされているのだろうか。

昨今は日曜日に移す地域が増えつつある現代。

4月半ばには訪ねたいものだ。

聞いている範囲であるが、お札型の杉葉苗に小正月の小豆ガイ(粥)にカヤの箸で作った御供をするとか・・・。

すっかり失念していた吉野山口神社・高鉾神社の祈年祭行事。

今年はすでに終わっている。

できるだけ早くに取材したいと考えさせられた両社名で祈祷された「五穀豊饒御祈祷牘」の護符がきっかけになってくれたらいいのだが・・。

この日は数軒のお家が、苗代の幌を外して田植えをしていていた。

護符を立てることなく、田植えをしておれば早生品種。

さきほど、拝見させてもらったN家の作付品種はヒノヒカリ。

米を買いたい人が何人かいるらしく、90枚の苗箱を並べた、という。



明治22年の町村制時代の龍門村に属する大字村は佐々羅村・峯寺村・河原屋村・千股村・志賀村・滝畑村・三津村・西谷村・平尾村・津風呂村・山口村・香束村・柳村・色生村・小名村・大熊村・北大野村・牧村・栗野村・田原村・東平尾村・上片岡村・下片岡村。

広大な旧地区であるが、ほとんどが未だ行けていない。

(H30. 5. 1 EOS7D撮影)


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