これまで何度か取材したことがある大和神社のちゃんちゃん祭。
昨年のことである。
還幸祭に戻る渡り行列についていく人足に遭遇した。
御供箱をオーコで担ぐ人足は大字成願寺町の人だった。
御供箱に墨書された文字は「寛永貮拾壹年(1644) 大和大明神 卯月朔日成願寺村」だった。
372年前から今でも祭りに使っている箱を地元では「ホッカイ」と呼んでいた。
充てる漢字は行器であろう。
これには還幸祭に供えられる牛の舌餅と呼ばれる御供餅が納められていた。
餅は大字の頭屋家で搗く。
その家を探していた。
餅粉に塗れた板を掃除していた家があった。
そこには大和神社を表記した門神のお飾りを立てていた。
この日のお供えは塩、洗米、水にシイタケ、コンブ、インゲンマメだった。
この年の頭屋家は門神さんの飾り付けで見つかる。
天理市の成願寺町は大和神社一の鳥居前の街道筋にある大字。
江戸時代に発展した上街道(初瀬街道若しくは長谷街道とも)であるが、かつては古代の街道の一つに挙げられる上ッ道である。
この年の大字成願寺町の頭屋家は北垣内。
前年は東垣内で翌年は南垣内。
次の年は西垣内になる垣内廻りの全容を拝見するには4年もかかる。
ちなみに新町は入氏子ではないことから廻り垣内に該当しない。
御供餅は二種類ある。
大和神社に供える牛の舌餅と吉野参りに供える吉野御供と呼ばれる餅である。
着いたときには既に終わっていた。
木臼に杵で搗いていた。
一息ついた北垣内の住民はキナコを塗したテイワイモチ(手祝餅)をよばれていた。
香りがいいキナコモチは柔らかめ。
杵で搗いたから美味しいという。
餅搗きを終えた垣内一同は大和神社に参拝する。
「御供餅搗きを終えました。明日は宵宮、明後日のちゃんちゃん祭が無事に終わりますように・・」と願って拝礼する。
ちなみに成願寺町にはトーニンゴは存在しない。
牛の舌餅が主体であるからトーニンゴは古来より免除されているという。
かつては成願寺町に頭屋講があった。
一の鳥居からずらりと並べた竹を渡すように立てていた。
縦の長さが270cmぐらいもあったという。
それを「シンダテ」と呼んでいたが、何代か前の当主がこの地に建てたときにはすでに衰退していたと話す。
大和神社の参拝を済ませた一行は搗きたての吉野御供を置いてある頭屋家でもてなし料理をいただく。
いわゆる直会である。
今では主料理がオードブルになっているが、かつては生茹のカマスゴとカマボコだけが肴だったという。
カマスゴは稚魚イカナゴの成魚。
もっと大きくなったらカマスになると思っている人は多い。
カマスはスズキ目サバ亜目のカマス科。
カマスはスズキ目ワニギス亜目のイカナゴ科。
魚の種類が違う。
カマスゴを食べるのが苦手で辛いんやという人も多く、一尾で「堪忍してや」といいながら食べていた。
頭屋家の床の間に掛軸がかかっていた。
「トコガミ」と呼ばれる神さんは一年ごとに垣内で廻される。
頭屋家で掲げる「トコガミ」は大和神社の祭神である(日本)大國魂大神、八千弋大神、御歳大神の三神。
23日の宮入の日に掲げたという。
「トコガミ」はそれほど古いものではなく、戦後数年経った昭和30年(32年かも)に新調されたようだ。
ということはもっと古いものがあったはずだ。
ちなみに「トコガミ」はちゃんちゃん祭を終えたら次当番の垣内に引き継がれる。
掛図を下ろして講箱に納めて引き継ぐようだ。
御供餅搗きを終えた頭屋家に「こんなのがあるんや」と紹介してくださったガラス瓶。
それには「お医者がススメル滋養のお菓子 乳菓カルケット 一包一○セン」の凹み文字があった。
瓶を整形する際に作られるエンボス加工である。
もう一つの面には「ビンハ常ニ店頭ヘ 品ハイツモ一パイニ」の文字がある。
調べてみれば大正時代に中央製菓が発売したカルシウム入りビスケットを入れていた瓶だった。
かつて頭屋家は街道筋で乾物のほかいろんな商品を売っていたなんでも屋さんだった。
店はやめたが瓶は果実酒作りで再利用をしていた。
ところで、「十銭」で売っていた時代はいつだろうか。
「そんなん記憶がないで」という住民たち。
調べてみれば、「銭」の時代は昭和28年末までだった。
かつてはボンネットバスが通っていた上街道筋で商売をしていた頭屋家。
テイワイモチをいただいていた場で目線を上げた。
そこには網目が大小さまざまなトーシを架けていた。
粗い目もあれば細かい目もある。
奥さんの話しによれば今でも使っている現役ふるいのトーシ。
横から見れば文字があった。
下ろしてもらって拝見した文字は墨書で「山辺郡朝和村学校前 □□ 昭和22年7月新調」とある。
戦後間もないころに作られたトーシであった。
他のものも昭和22年の記銘墨書がある。
カルケット瓶もそうだが、これもまた頭屋家のお宝だと思った。
(H27. 3.30 EOS40D撮影)
昨年のことである。
還幸祭に戻る渡り行列についていく人足に遭遇した。
御供箱をオーコで担ぐ人足は大字成願寺町の人だった。
御供箱に墨書された文字は「寛永貮拾壹年(1644) 大和大明神 卯月朔日成願寺村」だった。
372年前から今でも祭りに使っている箱を地元では「ホッカイ」と呼んでいた。
充てる漢字は行器であろう。
これには還幸祭に供えられる牛の舌餅と呼ばれる御供餅が納められていた。
餅は大字の頭屋家で搗く。
その家を探していた。
餅粉に塗れた板を掃除していた家があった。
そこには大和神社を表記した門神のお飾りを立てていた。
この日のお供えは塩、洗米、水にシイタケ、コンブ、インゲンマメだった。
この年の頭屋家は門神さんの飾り付けで見つかる。
天理市の成願寺町は大和神社一の鳥居前の街道筋にある大字。
江戸時代に発展した上街道(初瀬街道若しくは長谷街道とも)であるが、かつては古代の街道の一つに挙げられる上ッ道である。
この年の大字成願寺町の頭屋家は北垣内。
前年は東垣内で翌年は南垣内。
次の年は西垣内になる垣内廻りの全容を拝見するには4年もかかる。
ちなみに新町は入氏子ではないことから廻り垣内に該当しない。
御供餅は二種類ある。
大和神社に供える牛の舌餅と吉野参りに供える吉野御供と呼ばれる餅である。
着いたときには既に終わっていた。
木臼に杵で搗いていた。
一息ついた北垣内の住民はキナコを塗したテイワイモチ(手祝餅)をよばれていた。
香りがいいキナコモチは柔らかめ。
杵で搗いたから美味しいという。
餅搗きを終えた垣内一同は大和神社に参拝する。
「御供餅搗きを終えました。明日は宵宮、明後日のちゃんちゃん祭が無事に終わりますように・・」と願って拝礼する。
ちなみに成願寺町にはトーニンゴは存在しない。
牛の舌餅が主体であるからトーニンゴは古来より免除されているという。
かつては成願寺町に頭屋講があった。
一の鳥居からずらりと並べた竹を渡すように立てていた。
縦の長さが270cmぐらいもあったという。
それを「シンダテ」と呼んでいたが、何代か前の当主がこの地に建てたときにはすでに衰退していたと話す。
大和神社の参拝を済ませた一行は搗きたての吉野御供を置いてある頭屋家でもてなし料理をいただく。
いわゆる直会である。
今では主料理がオードブルになっているが、かつては生茹のカマスゴとカマボコだけが肴だったという。
カマスゴは稚魚イカナゴの成魚。
もっと大きくなったらカマスになると思っている人は多い。
カマスはスズキ目サバ亜目のカマス科。
カマスはスズキ目ワニギス亜目のイカナゴ科。
魚の種類が違う。
カマスゴを食べるのが苦手で辛いんやという人も多く、一尾で「堪忍してや」といいながら食べていた。
頭屋家の床の間に掛軸がかかっていた。
「トコガミ」と呼ばれる神さんは一年ごとに垣内で廻される。
頭屋家で掲げる「トコガミ」は大和神社の祭神である(日本)大國魂大神、八千弋大神、御歳大神の三神。
23日の宮入の日に掲げたという。
「トコガミ」はそれほど古いものではなく、戦後数年経った昭和30年(32年かも)に新調されたようだ。
ということはもっと古いものがあったはずだ。
ちなみに「トコガミ」はちゃんちゃん祭を終えたら次当番の垣内に引き継がれる。
掛図を下ろして講箱に納めて引き継ぐようだ。
御供餅搗きを終えた頭屋家に「こんなのがあるんや」と紹介してくださったガラス瓶。
それには「お医者がススメル滋養のお菓子 乳菓カルケット 一包一○セン」の凹み文字があった。
瓶を整形する際に作られるエンボス加工である。
もう一つの面には「ビンハ常ニ店頭ヘ 品ハイツモ一パイニ」の文字がある。
調べてみれば大正時代に中央製菓が発売したカルシウム入りビスケットを入れていた瓶だった。
かつて頭屋家は街道筋で乾物のほかいろんな商品を売っていたなんでも屋さんだった。
店はやめたが瓶は果実酒作りで再利用をしていた。
ところで、「十銭」で売っていた時代はいつだろうか。
「そんなん記憶がないで」という住民たち。
調べてみれば、「銭」の時代は昭和28年末までだった。
かつてはボンネットバスが通っていた上街道筋で商売をしていた頭屋家。
テイワイモチをいただいていた場で目線を上げた。
そこには網目が大小さまざまなトーシを架けていた。
粗い目もあれば細かい目もある。
奥さんの話しによれば今でも使っている現役ふるいのトーシ。
横から見れば文字があった。
下ろしてもらって拝見した文字は墨書で「山辺郡朝和村学校前 □□ 昭和22年7月新調」とある。
戦後間もないころに作られたトーシであった。
他のものも昭和22年の記銘墨書がある。
カルケット瓶もそうだが、これもまた頭屋家のお宝だと思った。
(H27. 3.30 EOS40D撮影)