前日の宵宮までにオカリヤを玄関前に立てる天理市荒蒔町のホンドーヤ(本当家)。
長さ60cm程度の社用竹で骨組みを作ったオカリヤの屋根は檜の葉で覆っている。
隙間から光が入り込まないように葉で覆った家型のオカリヤである。
床は5段重ねの芝生だ。
注連縄を立てた土台も芝生である。
オカリヤ内部に小御幣が納められていた。
宵宮のときに勝手神社で「分霊遷しまし」をされた御幣であろう。

オカリヤの横には水を溜めた手水桶がある。
内部に沈めた小石は数個。
1日座を勤めたホンドーヤは石上神宮の神官とともに天理市滝本町にある桃尾の滝へ出かける。
滝壺下を流れる清廉な流れの川にあった5個の小石を拾って持ち帰る。
それを桶に入れておくのである。
注連縄を張ったホンドーヤ家に村神主、五人衆、氏子や石上神宮の神官が集まる。

村神主は白の狩衣。
石上神宮の神官と同じ姿である。
ホンドーヤ(本当家)と次ぎのホンドーヤになるアトドーヤ(後当家)は薄い青色の素襖に着替える。
五人衆は白衣で氏子全員は黒の礼服である。
座敷に並んで座って出発を待つ。
ホンドーヤのK家はホンドーヤ勤めをきっしょに家を建て替えた。
当主の生まれは昭和18年。
生まれた年は戦時中であったが誕生を祝って家を建てた。
建築材料が不足する時代だった。
家の前を通る道路は地道だった。
車の往来も少ない時代である。
付近は近代化の波を受けて町作りも大きく変容した。
いつしか道路はアスファルト。
往来する車は増えていき、昭和18年に建てた家にガタがきたと話す。
Kさんが生まれて初めてホンドーヤを勤めることになった。
祝いのホンドーヤに相応しいと思って決断されたK家は今年の8月に新築した。
新しい畳の香りをほのかに感じる二間続きの座敷にマツリを祝う村人が参集されたのだ。
荒蒔のホンドーヤは新築でなくとも襖や障子は張り替えておくそうだ。
お茶をよばれた一行は玄関先にでる。
大御幣を持つのはホンドーヤとアトドーヤだ。
氏子は予め搗いた大きなモチとコモチを抱える。
大きなモチは三合取り。

4枚それぞれの折敷に乗せている。
コモチは9個ずつ。
2枚の折敷に乗せている。
荒蒔には安永九年(1780)より書き記された『荒蒔村宮座営帳』がある。
文政三年(1820)・十一年(1828)、明治四十三年に改冊された座中記録である。
拝見はしていないが荒蒔には天正元年(1573)以来の『荒蒔村宮座中年代記』もあるようだ。
当時の戸数は43戸。
うち11戸が「座主」と云われる「宮座中間」の営みであった。
明治・大正期間に3戸が減って8戸になった。
昭和11年ころ、新座主を募って24戸の「新座」として再出発された。
このことを書かれていた著書は平成3年刊・中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』である。
10月8日は垢離とり。
当家と神官はマツリに備えて龍田川へ出かけ小石を拾って帰った。
いつしか布留川に移ったとある。
その布留川源流が桃尾の滝なのである。
当家と五人衆は拾ってきた小石を入れたお風呂に浸かった。

マツリ始めに身を清める禊祓えであったが、今ではそうすることもないようだ。
玄関先にでたホンドーヤ、アトドーヤ、村神主、五人衆、神官に氏子が立つ。
村神主が云った言葉は「ひと笑いお願いします」だ。
その合図で一同は大きな口を開けて反り返るように一斉に発した「わっ、はっ、はっ、はっ」。

お渡りの出発前にされる笑いの作法であるがチャンスを逃した。
このような儀礼は他でもあるのだろうか。
県内各地で行われている数々の伝統行事を取材してきたなかに笑いの作法があるのは吉野町南国栖・浄見原神社で行われる国栖奏である。
ゆったりとした舞の国栖奏四歌の最後を飾る翁は口元に手を添えて上体を反らす所作をする。
「笑の古風」と呼ばれる所作であるが大きな声はあげない。
荒蒔の笑いの作法はわずか一秒ぐらいで終えた。
こうして作法を終えた一行は隊列を組むのだがどこかがおかしい。
新稲藁を架けた葉付きの細い竹を担ぐ氏子が先頭についたのだ。
それには竹で作った神酒筒をぶら下げている。
県内各地で見られるイネカツギ(稲担ぎ)・ミキニナイ(神酒荷い)が先頭につくことはない。
後方なのである。
お渡り直前に拝見していたマツリ資料では先頭が神官で、次に村神主、ホンドーヤ、アトドーヤ、五人衆、イネカツギ・ミキニナイ、御供持ちの順であった。
そのことを伝えて勢ぞろいした一行は並びを調えて出発した。

街道を歩く一行を見たさに村人たちは玄関先で待っている。
いずれの家も提灯を掲げている荒蒔の街道は旧家が多い。

一行が通る際には頭を下げる人も見られる。
生まれたての赤ちゃんを抱いている女性もおれば、携帯で記念の写真を撮る人もいる。

お渡りを祝う村の在り方だ。
勝手神社に到着すれば、大御幣を神饌所に立てる。
イネ・ミキは本社石垣と拝殿の間へ水平に置く。

そうして始まった神事は祓えの詞、祓えの儀に続いて神官がオォーーと開扉する警蹕。
本殿は二社ある。
右が勝手神社で左は子守社だ。
それぞれの神さんの御扉開きが行われる。

次は神饌の献饌。
神饌所に置かれていた御供を手渡しで献饌するのは礼服姿の氏子。

本来は五人衆が担うそうだが、この年は氏子が勤めた。
御供は鯛、昆布、スルメ、季節の野菜に果物、鏡餅、酒、チクワなどだ。

三合取りのモチは安政四年(1857)に建てたとされる観音堂などにも供えられる。
次は御幣の奉納である。
始めにホンドーヤの御幣を持つ神官。
本殿前に立つ。

御幣を持って左右に振る。
座って拝礼する。
再び立って御幣を左右に振りながら下がる。
またもや座って拝礼される。
この作法を三度繰り返す奉幣振りの神事である。
御幣を本殿に奉って次はアトドーヤの御幣も同じようにされた。

御幣を立てた位置はホンドーヤが勝手神社でアトドーヤは子守社だ。
祝詞を奏上されて玉串奉奠。
座中は一旦席を立って拝殿前に移る。
一人ひとり順に玉串を捧げたら拝殿後方より境内へぐるりと移動する。
珍しい手法である。

撤饌、閉扉、神官一拝で終えた次は午後に出発する子供神輿の巡行に際して安全を祈る祓いが行われる。
こうしてマツリの神事が終われば直会に移る。

下げた御供のスルメ、チクワ、コンブでお神酒をいただく。
しばらくすれば神官、村神主、ホンドーヤは退席されてホンドーヤ家へ向かう。
トーヤ家での摂待直会である。
退席されたあとも拝殿で直会を続けていた氏子たちの声は大らか。
賑わいの直会である。
(H26.10.12 EOS40D撮影)
長さ60cm程度の社用竹で骨組みを作ったオカリヤの屋根は檜の葉で覆っている。
隙間から光が入り込まないように葉で覆った家型のオカリヤである。
床は5段重ねの芝生だ。
注連縄を立てた土台も芝生である。
オカリヤ内部に小御幣が納められていた。
宵宮のときに勝手神社で「分霊遷しまし」をされた御幣であろう。

オカリヤの横には水を溜めた手水桶がある。
内部に沈めた小石は数個。
1日座を勤めたホンドーヤは石上神宮の神官とともに天理市滝本町にある桃尾の滝へ出かける。
滝壺下を流れる清廉な流れの川にあった5個の小石を拾って持ち帰る。
それを桶に入れておくのである。
注連縄を張ったホンドーヤ家に村神主、五人衆、氏子や石上神宮の神官が集まる。

村神主は白の狩衣。
石上神宮の神官と同じ姿である。
ホンドーヤ(本当家)と次ぎのホンドーヤになるアトドーヤ(後当家)は薄い青色の素襖に着替える。
五人衆は白衣で氏子全員は黒の礼服である。
座敷に並んで座って出発を待つ。
ホンドーヤのK家はホンドーヤ勤めをきっしょに家を建て替えた。
当主の生まれは昭和18年。
生まれた年は戦時中であったが誕生を祝って家を建てた。
建築材料が不足する時代だった。
家の前を通る道路は地道だった。
車の往来も少ない時代である。
付近は近代化の波を受けて町作りも大きく変容した。
いつしか道路はアスファルト。
往来する車は増えていき、昭和18年に建てた家にガタがきたと話す。
Kさんが生まれて初めてホンドーヤを勤めることになった。
祝いのホンドーヤに相応しいと思って決断されたK家は今年の8月に新築した。
新しい畳の香りをほのかに感じる二間続きの座敷にマツリを祝う村人が参集されたのだ。
荒蒔のホンドーヤは新築でなくとも襖や障子は張り替えておくそうだ。
お茶をよばれた一行は玄関先にでる。
大御幣を持つのはホンドーヤとアトドーヤだ。
氏子は予め搗いた大きなモチとコモチを抱える。
大きなモチは三合取り。

4枚それぞれの折敷に乗せている。
コモチは9個ずつ。
2枚の折敷に乗せている。
荒蒔には安永九年(1780)より書き記された『荒蒔村宮座営帳』がある。
文政三年(1820)・十一年(1828)、明治四十三年に改冊された座中記録である。
拝見はしていないが荒蒔には天正元年(1573)以来の『荒蒔村宮座中年代記』もあるようだ。
当時の戸数は43戸。
うち11戸が「座主」と云われる「宮座中間」の営みであった。
明治・大正期間に3戸が減って8戸になった。
昭和11年ころ、新座主を募って24戸の「新座」として再出発された。
このことを書かれていた著書は平成3年刊・中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』である。
10月8日は垢離とり。
当家と神官はマツリに備えて龍田川へ出かけ小石を拾って帰った。
いつしか布留川に移ったとある。
その布留川源流が桃尾の滝なのである。
当家と五人衆は拾ってきた小石を入れたお風呂に浸かった。

マツリ始めに身を清める禊祓えであったが、今ではそうすることもないようだ。
玄関先にでたホンドーヤ、アトドーヤ、村神主、五人衆、神官に氏子が立つ。
村神主が云った言葉は「ひと笑いお願いします」だ。
その合図で一同は大きな口を開けて反り返るように一斉に発した「わっ、はっ、はっ、はっ」。

お渡りの出発前にされる笑いの作法であるがチャンスを逃した。
このような儀礼は他でもあるのだろうか。
県内各地で行われている数々の伝統行事を取材してきたなかに笑いの作法があるのは吉野町南国栖・浄見原神社で行われる国栖奏である。
ゆったりとした舞の国栖奏四歌の最後を飾る翁は口元に手を添えて上体を反らす所作をする。
「笑の古風」と呼ばれる所作であるが大きな声はあげない。
荒蒔の笑いの作法はわずか一秒ぐらいで終えた。
こうして作法を終えた一行は隊列を組むのだがどこかがおかしい。
新稲藁を架けた葉付きの細い竹を担ぐ氏子が先頭についたのだ。
それには竹で作った神酒筒をぶら下げている。
県内各地で見られるイネカツギ(稲担ぎ)・ミキニナイ(神酒荷い)が先頭につくことはない。
後方なのである。
お渡り直前に拝見していたマツリ資料では先頭が神官で、次に村神主、ホンドーヤ、アトドーヤ、五人衆、イネカツギ・ミキニナイ、御供持ちの順であった。
そのことを伝えて勢ぞろいした一行は並びを調えて出発した。

街道を歩く一行を見たさに村人たちは玄関先で待っている。
いずれの家も提灯を掲げている荒蒔の街道は旧家が多い。

一行が通る際には頭を下げる人も見られる。
生まれたての赤ちゃんを抱いている女性もおれば、携帯で記念の写真を撮る人もいる。

お渡りを祝う村の在り方だ。
勝手神社に到着すれば、大御幣を神饌所に立てる。
イネ・ミキは本社石垣と拝殿の間へ水平に置く。

そうして始まった神事は祓えの詞、祓えの儀に続いて神官がオォーーと開扉する警蹕。
本殿は二社ある。
右が勝手神社で左は子守社だ。
それぞれの神さんの御扉開きが行われる。

次は神饌の献饌。
神饌所に置かれていた御供を手渡しで献饌するのは礼服姿の氏子。

本来は五人衆が担うそうだが、この年は氏子が勤めた。
御供は鯛、昆布、スルメ、季節の野菜に果物、鏡餅、酒、チクワなどだ。

三合取りのモチは安政四年(1857)に建てたとされる観音堂などにも供えられる。
次は御幣の奉納である。
始めにホンドーヤの御幣を持つ神官。
本殿前に立つ。

御幣を持って左右に振る。
座って拝礼する。
再び立って御幣を左右に振りながら下がる。
またもや座って拝礼される。
この作法を三度繰り返す奉幣振りの神事である。
御幣を本殿に奉って次はアトドーヤの御幣も同じようにされた。

御幣を立てた位置はホンドーヤが勝手神社でアトドーヤは子守社だ。
祝詞を奏上されて玉串奉奠。
座中は一旦席を立って拝殿前に移る。
一人ひとり順に玉串を捧げたら拝殿後方より境内へぐるりと移動する。
珍しい手法である。

撤饌、閉扉、神官一拝で終えた次は午後に出発する子供神輿の巡行に際して安全を祈る祓いが行われる。
こうしてマツリの神事が終われば直会に移る。

下げた御供のスルメ、チクワ、コンブでお神酒をいただく。
しばらくすれば神官、村神主、ホンドーヤは退席されてホンドーヤ家へ向かう。
トーヤ家での摂待直会である。
退席されたあとも拝殿で直会を続けていた氏子たちの声は大らか。
賑わいの直会である。
(H26.10.12 EOS40D撮影)