マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

毛原のロウバイ

2015年11月20日 07時57分52秒 | 山添村へ
山添村毛原の長久寺で涅槃会が行われるのを知ったのはいつだっただろうか。

思い出せない。

子供がお寺の本堂に上がって掲げた涅槃図に手を合わせる。

法要を済ませた子供たちは構造改善センターでカレーライスをよばれる。

今ではそうしているがかつては米を集めに集落を巡っていたという話しを聞いていた。

最初に訪れたのは平成22年2月21日だった。

村人がいうには「子供の涅槃は15日に近い土曜辺りに行われている。本来は中学三年生までの男児であったが少子化によって女児も参加できるようにした。かつては朝からお米集めをしていたが今はない。長久寺でお参りして掛け軸を掲げた構造改善センターに集まる。子どもの膳は大幅に簡略化されて好きなカレーライスになった。それだけではさみしいのでおすまし汁だけは残した」である。

次の年の平成23年も訪れて行事日程を確認したが、その日は大雪警報が発令されるぐらいの大雪だった。

家から出ることもできない積雪11cmとなった2月11日。

山間ではもっと積もったことであろう。

平成24年、25年も同じ2月11日だったと思うが、両年とも急がねばならない行事取材で出向いていたから毛原は訪れることができなかった。

前年の平成26年は2月16日の日曜だった。

前日に予定していたが大雪になったために京都から来られる住職が到着できなかった。

住職が来られなければ法要はできない。

やむなく日程は日延べされたが、降った大雪で到着したのは一時間遅れ。

すでに法要を終えて子供たちはカレーライスを食べていた。

お寺の奥さんが云うには平成27年は2月15日の日曜日だと断言された。

待ちに待った毛原の子供涅槃を拝見できる。

そう思って1時間前に着いた。

お寺は不在であった。

その場に来られた寺世話の婦人に尋ねた。

折角来てもらったが、昨日に終わったと云う。

こういうことは稀にある。

来年こそ拝見したいと思う毛原で佇んでいた。

その場にはロウバイが咲いていた。

記念にワンショット撮って帰路につく。

毛原からはすぐ近くに室生下笠間がある。

通りがかった際に見かけた男性。

Ⅰさんだ。

畑でなにやら作業をしていた。

家に奥さんが居るというので立ち寄った。

逃した毛原の件を伝えたら話してくれる「ねはんのスズメ」の囃し詞。

奥さんの出里は毛原。

今でもしていると感慨深げに台詞が飛び出す。

大きな白い布袋を持つ子供たちが「ねはんのスズメ コメならいっしょう ゼニならヒャクや」と囃して村集落の各戸を巡っていた。

お米とかお金を貰いに廻っていた。

お金は5円だったか、10円だったか。

昭和21、22年のころだから70年前のこと。

戦時中にも拘わらず村を巡っていたと思い出された。

(H27. 2.15 EOS40D撮影)

応募したら・・・

2015年11月19日 09時02分29秒 | しゃしん
「山の辺の道<奈良道>を守る会」主催の「第2回フォトコンテスト入選写真展会」が入江泰吉記念奈良市写真美術館で2月10日より開催されている。

応募点数は350点以上。

入選は50点。

先日、入選された作品を審査されて入賞作品が発表された。

奨励賞に入ったこともあって拝見してきた。

応募したキッカケは地元住民の願いごと。

北の「山の辺の道」ファンを一人でも多く増やして広めたいという願い。

「2番目の写真でいいから」と云われて応募していたのだ。

2月15日までは入江泰吉記念奈良市写真美術館で展示されているが、その後は巡回展示される。

3月2日~8日までは奈良市観光センター。

3月16日~20日までは奈良市市役所ホール。

3月25日~29日までは奈良市西部公民館。

4月13日~20日までは佐保短大構内のレストラン鹿野園となる。

巡回展示会場のスペース関係もあり、入選作品の一部は展示できないらしいが、奈良道の集落や景観、行事もとらえた作品群は一見の価値ありだと思った。

(H27. 2.14 SB932SH撮影)

大和郡山市社会福祉協議会講演・大和郡山の伝統行事~城下町と周辺地域における地蔵盆とトンドの様相~

2015年11月18日 08時00分36秒 | 民俗を語る
大和郡山市社会福祉協議会主催の講演会を無事に終えてほっとした。

講演会の依頼があったのはほぼ1年前。

在住地区の自治会長から頼まれた。

正式に頼まれたのは前年の12月2日だった。

講演会の具体的な進め方は会場となる大和郡山市社会福祉協議会。

担当の社会福祉士とは以前にお会いしたことがある。

平成25年7月18日だ。

名刺交換をして大和郡山市を中心に行事取材をしていることを伝えた。

何かのお役に立てるようであれば・・と云っておいた。

それから1年半後。

自治会長は市社協保健生活部会の責任者でもあった。

自治会集会所で度々の講演会を実施していた私の実績をもっと多くの人に伝えてもらいたく白羽の矢を打たれたのだ。

前年の12月11日は事前打合せ。

講演内容は参加者が市内城下町の北西、西(主水山・冠山)、南(JR郡山)の人たちということを聞いていたので、城下町とその周辺地域で行われている民俗行事を紹介して市内全域を城下町、周辺における文化の差異を知ってもらおうと思って演題を市民向けに「大和郡山の伝統行事~城下町と周辺地域における地蔵盆とトンドの様相~」とした。

参加者の対象は地区の自治会員。

130自治会からなる地区自治会向けの講演につき、一般の人は受け付けない。

講演案内は2月初旬頃に地区(1地区~6地区)の自治会に回覧で通知される。

講演会場は大和郡山市社会福祉協議会2階の大研修室だ。

かなりの人数を収容することができる広い会場だ。

講演はパソコンスライドーショーを活用してプロジェクター投影する。

時間があれば解説シートも配布したいと申し出た。

正式な依頼を受けてストーリー構成を練る。

地蔵盆、トンドの写真はどこにするかはストーリーの流れで選ぶ。

それより重要なのは行事の分布をどうするか、である。

市全域を俯瞰するマップに印を落とすのは編集ソフトを使う。

白地図はどれにするか。

無料で配布されている白地図は市町村サイズがない。

さて、どうするかである。

一つ手がある白地図。

市の環境調査があった。

それをベースに地区を六つに分けて歴史・文化を伝える史料ができあがった。

その中に白地図がある。

当時、行政担当者から白地図は大いに利用してくださいと云われていた。

その地図は大まか。

幹線道路に川、鉄道網に若干薄めで地区割をした地図だ。

これは使えると思って利用させていただく。

さて、分布をどう表現するか。

印は○にするが、塗りつぶしの色で分布分け。

どの地域方面に集中している様相を考えてもらいたくマップ製作する。

この作業が最も手間や時間がかかった。

試行錯誤しなから制作したマップだけでは頭のなかに記憶が残るだけだ。

もう一つの資料を準備することにした。

地蔵盆なら地区区分け、所在地町名、神社・寺院、地蔵尊仏、実施月だ。

トンドも実施月。

精査もしたくてこれまで調査したデータより情報化した。

特に強調したい地区区分けは外堀に囲まれているか、それ以外かである。

城下町を考える場合、どこで区切りをつけるかである。

外堀内と外の違いが判るように整備した。

なぜにこのような整備をするのか。

参加者はほぼ城下町内とそこから北・西の一部の地域。

北部城下町に近い人にとって話題を提供することだ。

そうすることで地域文化を知る。

逆に外堀以外の地区にも目を向けてもらう。

城下町ができあがったのは400年前。

外堀の外の地域は平城京もあれば室町時代など戦国時代に形成された地域もある。

尤も、古代史でいえば弥生時代の遺跡もある。

今回の講演はそこまでいかない。

村落と町屋の違いである。

そういうことだ。

資料ができたらストーリー。

始めの掴みは何を選ぶ。

自治会長はともかく私を知る人は少ないだろう。

多くの人は存じていない私を何もんや・・・ということになる。

司会者に紹介してもらうプロフィールをこの際、整備してみた。

経歴、著書、寄稿・調査誌、講演・解説、写真展、写真提供誌などだ。

自己紹介のトップスライドは大和郡山市市制50周年史料。

市職員が自ら調べて地区ごとに地域文化を案内・紹介する「こおりやま町おこし50町ウォーク」を挙げた。

なぜにこれかと云えば、今年度は市制60周年。

いろんなイベントや企画ものが行われている。

10年前はこういものもあったのだと再認識してもらうために挙げた。

本題は城下町とその周辺における大和郡山の伝統行事を伝えることである。

それにはうってつけのマップがある。

郡山城外堀跡コースをぐるっと一周して歴史文化を知るマップは完成度が高い。

製作者は観光ボランティアガイドクラブもされている一部の方が「みちしるべの会」を立ち上げて製作した。

マップは観光案内所にも置いている。

外堀を認識していただいて整備した手造りマップを写しだす。

整備したデータ情報は配っておいた。

両方を見て説明する。

先にも書いたが、今回の講演の主題は「大和郡山の伝統行事~城下町と周辺地域における地蔵盆とトンドの様相~」だ。



特に強調したかったのは七月地蔵盆・八月地蔵盆をされている地域の在り方である。



何故に7月と8月に分かれているのか。

江戸時代は旧暦で行われていた。

新暦が導入されて地域が分かれた。

地域によってどういう考えがあって旧暦、新暦になったか。

それはまったく判らないが、色塗りマーキングをしたマップを見れば一目瞭然。

ほぼ、であるが、佐保川を境に分かれているのである。

こういうことは誰も知らない。

気がつかないというよりも、他の地域の地蔵盆がどのような形態でされているのか、調べることがないのだ。

次に紹介するのが取材してきた地蔵盆の様相。

特徴ある地域を挙げて解説する。

次はトンドだ。

トンドをしている地域は明白だ。

城下町は町屋。

外堀の向こう側は旧村。

火を焚ける用地があるか、ないかである。

町屋がひしめく外堀に囲まれた地域にはトンドという考え方がない。

一歩離れた旧村は田園が広がる農村地域。

尤も環濠集落がある旧村は土豪の武士の存在もあったが、である。

大和郡山のトンドは実施日に特徴がある。



一般的には1月14日、15日の小正月であるが、圧倒的に多いのは1月30日から2月1日にかけてだ。

地区によっては2日、6日の場合もある。

二度目の正月を迎える行事とする風習があった。

これをニノ正月、或は旧暦正月と称することから判りやすく二ノ正月のトンドと云った。

トンド行事も地区によってそれぞれ特徴がある。

これもまたスライドショーで紹介して終えた。

大和郡山を俯瞰して眺めてみれば各地域の状況が少しでも判っていただけると考えて製作した手造りマップ。



地蔵盆、トンド以外に市内に鎮座する神社や寺院の所在地も色塗りマップで紹介した。



頭のなかでぼやっとしていたものが、マップに落とすことで、より一層明確になった。

(H27. 2.14 SB932SH撮影)

終わっていた榛原石田の涅槃さん

2015年11月17日 08時01分22秒 | 楽しみにしておこうっと
2月、3月に行われている涅槃会を調べている。

立ち寄ったのは宇陀市榛原石田。

到着したときはすでに終わっていた。

石田の涅槃会は3軒の涅槃講で行われている。

「ゴゼン(御膳)」を供えて般若心経を唱える。

ゴクマキは前日に大量に搗いた涅槃さんの「ハナクソダンゴ」を撒く。

手に入れる村の人たち。

いっぱいになった袋に詰めて持ち帰る男性たちに講中を紹介させてもらって掲げていた涅槃図を拝見させていただく。



涅槃図は昭和51年に表装しなおしていたが、釈迦涅槃像箱には「和州宇陀郡石田邑 信心施主 □□□□」、「寶暦九己卯歳(1759)二月十五日」の文字があった。

涅槃図裏面に書いてあった文字は「為奉修西國三十三所須禮現當二世安楽供養也 寶暦九己卯(1759)歳修覆講中寄進名記」、「天上天下唯我独尊 三界皆苦我等安之」、「和州宇陀郡石田村 知足庵什具」だ。

「知足庵」とある寺院は現存しないが、伺った講中の話しによれば墨書されていた講中寄進名より8軒の森田一統が古来より守ってきたと云う。

その後というか、表装しなおした昭和51年は5軒に減少していた。



石田に残されていた釈迦涅槃像の掛軸は寶暦九年(1759)に修復されたと書かれていることから製作年代は不明ではあるが、宝暦以前から涅槃講が存在していたことがと判った。

さらに書かれてあった「維持安政第二乙卯歳二月如意為表具之」。

「此度大破故再表具」、「當庵五世玉洌代」。「世話方 尾木善兵衛 仝勇助 前定七 仝定八 □(もり)田門三良 同甚右エ門 同於タカ 寄進名前記 興吉良 重五郎 興八 庄次良 輪戴」。

つまり釈迦涅槃像の掛軸が再び大破して、安政二年(1855)に再修復したとあるのだ。

宝暦修復よりおよそ100年後のことである。

さらに時代が進んだ昭和51年(1976)2月25日にも修復された表具。

安政時代より128年後のことである。

隣村の栗谷・大念寺に伝わる涅槃図は寛政八年(1797)作。

平成17年に修復されたものの宇陀市の有形文化財に指定されている。

石田に残る涅槃図は宝暦九年(1759)。

修復されてはいるものの栗谷より39年も遡るのだ。



久しぶりにお会いしたこの地に住む民俗学者のUさんとともに拝見した涅槃図。

寶暦九年(1759)に修復されたと書かれているのを現認した。

年代は不明ではあるが、宝暦以前に製作された涅槃図であったのだ。

石田の涅槃会の様相はメディアネット宇陀が公開している。

石田の年中行事の一部をお聞きした。

現在は第二日曜日になったが、元々は4月15日だったオンダ祭は六社(むつばしら)神社で行われている。

神社行事は村行事。

神職のお祓いを受けて供えた一升モチ御供を蒔くゴクマキがある。

同月の8日は涅槃講のアマチャがある。

講中は3軒。

毎年交替するヤド家にお釈迦さんを祭って甘茶をかける。

終われば次のヤド家に移る廻り涅槃さんは珍しい。

講中は解散するかも知れないと話していた。

できる限り早いうちの取材をお願いした。

1月の成人の日にはトンドが行われる。

朝にトンド組みをして10時に火点け。

鎮火すればモチをトド場に持ち込んだ網で焼く。

ふるまいぜんざいもしているらしい。

苗代を作るときに何らかのモノを水口に挿すことも考えられて尋ねた。

結果は同神社でなく三輪さんで授かったモミだった。

苗代にカヤススキを立てる。

ハナも立ててキリコを供える。

供えるのは朝。

そういった行為はおそらくトンドとの関連がある可能性が大である。

トンドは隣村の栗谷も行っている。

話しの様子から垣内単位のようだ。

ダケノボリがある。

日程は不定日のようだが、おそらくは桜が咲く季節であろう。

登る山は標高637mの伊那佐山。

頂上辺りだろうか、神社が鎮座しているらしい。

その神社は都賀那岐(つがなき)神社。

大字山路氏子総代や十二カ大字の自治会長が登って参拝する。

石田のマツリにお渡りがあるらしい。

実施月は聞きそびれたが分霊を祀ったと思われるヤカタがある。

それをトーヤ家は一年間も自宅で祀るそうだ。

石田の先祖はヤカタ。

木の箱やという人も居た。

また、逮夜に御詠歌を唱えている。

葬儀の家には来迎図を掲げるようだ。

(H27. 2.11 EOS40D撮影)

三輪字馬場成願稲荷神社の二月初午

2015年11月16日 07時29分54秒 | 桜井市へ
昨年の2月4日に取材した桜井市箸中の二月初午祭

国津神社境内に鎮座する稲荷大明神の行事にハタアメ(旗飴)が供えられる。

丸い頭があるハタアメにはいろんな種類がある。

青色、黄色、赤色、緑色の他、赤の一本線があった。

行事を終えた数時間後にはハタアメを貰いにくる子供たちにあげる。

初午にハタアメが供えられることを初めて知った日だった。

そのハタアメは子供たちが貰う。

初午とハタアメの関連性は存知しないが、調べてみれば県内事例が見つかった。

商売繁盛の利益をもたらす風習と伝える記事もあるが、何故にハタアメなのだろう。

どのような形態でされるのか、それを知りたくて訪れた同市三輪の地。

正月には大勢の人たちが訪れる大神神社が鎮座する。

本社近くにあると教えられて訪れた成願稲荷神社。

大神神社の神宮寺のひとつで浄願寺の鎮守社として鎌倉時代に創建されたと伝わる。

神社には立て看板があった。

例祭は新暦三月初午祭である。

その日には「昔懐かしい旗飴を参拝者に配る」とあった。

神社で佇んでいた時間帯。

次から次へと参拝者が手を合わせていた。

境内に寝そべっていた猫にカメラを向ける人もいる。

「いつも参拝されているのですか」と声をかけた女性に初午のハタアメを尋ねてみた。

女性が子供のころの話しですが、と断って話し始めたハタアメの記憶。

町内の各戸を巡ってハタアメを貰いに行っていた。

数十軒もまわればハタアメは束になるぐらいになっていた。

持ち切れないほどの量だったと話す。

女性は在地より、ここ大神神社までを毎日ウォークをしている。

たまには狭井神社まで向かうこともあるそうだ。

昨年に通りがかった成願稲荷神社。

その場には幼稚園児が初午のハタアメを貰っていた。

女性も貰ったというハタアメだ。

子供のころの記憶にあったハタアメ。

巡っていた町内の各戸が入手した神社は判らないという。

もしかとすれば在地に稲荷神社があったかも知れないし、ここ成願稲荷神社で貰ったものであるかも知れないという。

考えてみれば成願稲荷神社では参拝者にハタアメを配られるが大量でないことはたしかだ。

いずれであってもハタアメ(旗飴)はどこで製造・販売されているかだ。

ハタアメの出合いもあった現地を離れる。

次に目指すは宇陀市榛原の石田。

初めての土地だけに迷走してはならないと考えてカーナビゲーションにセットする。

大神神社を下って大鳥居。

左折、次も左折の指示がでるが、踏切前辺りから車の数珠つなぎ。

一向に進む気配がない。

少し動いては停まる大渋滞。

大鳥居辺りにある駐車場から出てくる車の割り込み。

それで進まないと判ったが、なんとも多い大神神社の参拝車。

この日は二月初午だが大神神社では紀元祭だった。

祝典は午前中、一般的に考えれば参拝者はとうに帰路についていたであろう。

あまりにも多い参拝者。

集中していたのは何を祈願していたのだろうか。

車の大渋滞はおよそ30分。

やっとこさ、脱出できた。

ちなみに写友人の一人は住まいする橿原市小綱町にもあったらしいという。

また、談山神社権禰宜の花房兼輔さんが云うには、談山神社では末社・三天稲荷神社の初午祭奉賛金を子供達が集めていて、奉賛金と一緒にハタアメを貰っていたらしいという。

鎮座する多武峰から浅古等の山の下まで行っていた地元民から聞いたことがあるという。

調べてみれば橿原市立晩成小学校にもあったようだが真相は聞取り調査を繰り返すしかない。

(H27. 2.11 EOS40D撮影)

馬司町台湾料理燃燃の台湾らーめん

2015年11月15日 08時14分58秒 | 食事が主な周辺をお散歩
仕事を終えて下見に出かける。

目的地は三輪に榛原石田だ。

時間があれば葛城市も向かいたい。

昼食はと思って出かけた大和郡山市横田町信号交差点。

久しぶりに食べたくなったらーめん大魔神大和郡山店の九州豚骨らーめん。

車を停めて入口に向かうが、シャッターが下りていた。

開店時間は平日11時。

祝日もほぼ同じぐらいだ。

仕込みができていないのか、閉まっていたのである。

諦めざるを得ない。

近場に台湾ラーメンが食べられる店がある。

番匠田中町付近にあった中華料理味鑫。

リーズナブル価格であるがとても美味しかった台湾ラーメンだが、昨年の末には店をやめてしまった。

下三橋のラーメン大福軒、奈良神殿のふくちぁんラーメンも店終い。

永く続く店もあるが短命になる店もある。

無性に台湾ラーメンを食べたくなって馬司町の台湾料理燃燃に切り替えた。

「福福 千客萬来 歓迎光臨」の文字を書いた入口ドアを開けて入店する。

定食ランチはいろいろあるが、注文は一品。

台湾らーめんだ。

店内ではサラリーマンに家族連れ。

おひとりさまも食べている。

送迎中に通る道にある燃燃店。

必ずといっていいほど昼食時間帯は数台の車が停まっている。

味が良いからリピーターが多いのであろう。

チェーン店とも思える台湾料理店は続々と増えている。

数店舗に入っていただいたが味はお気に入り。

どころかとにかく量が多いのだ。

セット料理を一度頼んだことがあるが食べきれない量に腹がパンパンに膨らんだ。

そう思っていたときだ。

おひとりさんが店員さんに何やら頼まれた。

持ってきたのはパックとナイロン袋。

持ち帰ることができるのだ。

おひとりさんは焼き飯だった。

おそらく半分ぐらいは食べきれなかったのだろう。

パックに詰めてレジ支払い。

追加の料金はなかった。

こういうシステムはたいへんありがたい。

今度、来店する場合はそうしたいと思った。

注文した台湾ラーメンが配膳するまでの待ち時間。

メニューに変わりはないと思うが見てしまった台湾ラーメンの価格。

480円とあった。

前回に訪れた際は税込み380円だった。

100円も上がったのかと思った。

しばらくすれば店員さんが運んできた台湾ラーメン。



麺はシコシコ。

噛みごたえがある麺。

スープは醤油味。

これが美味いんだな。

麺もスープもとにかく多い。

年齢とともに食べる速度が落ちている。

完食して支払いレジ。

前回と同様の380円だった。

(H27. 2.11 SB932SH撮影)

葛木御歳神社祈年祭の湯立神事

2015年11月14日 08時13分24秒 | 御所市へ
この日は雨で中止となった自然観察会。

急遽、行き先を御所市に切り替えた。

何年も前から訪問したかった東持田の御歳山に鎮座する葛木御歳神社。

祈年祭に湯立神事を斎行される。

雨にも拘わらず傘をさして訪れていた大勢の参拝者。

俳句の会の方々だ。

この日行われる祈年祭は「としごいのまつり」。

年の初めに豊作を祈願する。

初々しくもこの年初めてデビューする巫女さんは二人。

おぼこい(初々しいの俗語)ように見えるが高校一年生だ。



緊張した面持ちで、拝殿内および拝殿前におられる参拝者を鈴で祓ってくださる。



祓ってもらった参拝者は大幣を受け取る。

祈年祭神事を終えれば場を替えて湯立神事が行われる。

境内前庭に設えた四方忌竹で囲んだ神事の場。

境内は雨だまりだ。

周りを囲むように見守る参拝者は傘をさしていた。

湯釜に向かい拝礼し祝詞を奏上する東川宮司。



雨に打たれながらも斎行される。

洗い米、酒、塩を湯釜に注いで清めてからクマザサを持つ。



湯に浸けて大きく上方に掲げ両手に広げる。

南、西、北、東に向かって同じ所作をする。



四方を祓う湯立神事はこれまで数々の「御湯」神事を拝見してきた県内各地で行われる所作とは若干違うように感じた。

この所作は東川流だと話していた宮司。

まるで天を仰ぐような所作だと思った。



四方を祓ったクマザサで参拝者も祓ってくださるありがたい湯祓い。

この場を借りて東川宮司に厚く御礼申しあげる。

詳しくは葛木御歳神社HPの「鎮守の森から」ブログにアップされているので参照されたい。

(H27. 2. 8 EOS40D撮影)

龍田大社の節分祭・御火焚祭

2015年11月12日 08時24分57秒 | 三郷町へ
13時半より節分祭が行われる三郷町立野南の龍田大社。

午前中に立ち寄った際、御火焚祭の護摩壇の設営をされていた。

久しぶりにお会いした上田宮司から「来てや」と云われてこの日は二度目の参拝だ。

年の初めの立春に一年間を無事に過ごせるよう祈願する節分祭が行われる。

始まるころには拝殿前の前庭は人が溢れるぐらい、大勢の氏子参拝者がやってくる。



神事に拝殿も上がれるが、溢れた人は前庭で立つ。

拝殿には御火焚祭に投げ入れられる祈願木がある。

無病息災健康祈願・交通安全など大願成就を願う祈祷木は大量だ。

そこには五色の垂れ・シデで飾った弓と四本の矢も奉っている。

神事は祓いの儀、献饌。



災いを祓う弓矢・・の祝詞を奏上される。

そして始まった弓打ち。

前庭に設えた台に登った禰宜さんが矢を射る。



四方に放つ矢はいわゆる「鬼やらい(鬼遣らい)」である。

周りを囲む参拝者は打つ瞬間を待つ。

すっと放たれた矢は拾って持ち帰ることができる。

家の床の間などに飾って家を守ってもらうのだと手にいれた人は喜んでいた。

次は拝殿で宮司による豆撒き。

「フクハーウチー」と大きく掛け声をかけて福豆を撒く。

玉串奉奠で終えた節分祭の神事だった。



その後は境内では厄除け甘酒が振る舞われる。

生姜も混じった甘酒の香りが境内に広がる。

節分祭を終えた次は御火焚祭に移る。

火焚の場は神社参道である。

右手に矢をゲットした人も火焚の場に移動する。



護摩壇はヒバの木で覆った。

一週間前、山に出かけて伐り出したヒバ。

木のぼり名人が梯子を架けて伐採したという。

同じく伐り出した松の木を六段積みにして設えた壇には大御幣を奉っている。

始めに行われるのは祓えの詞。

祓えは参拝者それぞれの場に移動されて行われる。



次は洗い米、酒、塩を壇に撒いて祓い清める。

塩はサカキの葉で摘まんで撒いていた。

これを四方それぞれにされる。

次は大御幣の前に立つ宮司が祝詞を奏上する。



奏上された御幣を禰宜が受け取る。

そこで交換した灯明箱は本殿前まで運ばれる。



火起こしは火打ち石。

点いたオヒカリは灯明箱内に納める。

丁重に運んで戻ってきた禰宜は壇に火を遷す。



その際には神職たちが袖を広げて見えないようにする。

火打ちの儀式もそうであったようだ。

しばらくすればもうもうと白い煙が立ち上がった。

ヒバの葉が燃えてパチパチと音がする。



二本のバチを手にして太鼓を打つ宮司。

ドン、ドン、ドン・・・ド、ド、ド・・ドドド、ド、ドンドドコドン・・・・。

ダイナミックなバチさばきで太鼓を打つ。



ときには大きく、ときには小さく。

鼓動が叫ぶような音色である。

数分経過したころに火の手があがった。

浄火によって焚きあげる火は煙とともに上昇する。



およそ10分後、祈願した木を火焚壇に投入される。

太鼓は宮司の他、神職が交替しながら打ち続ける。



その間は坂本巫女が鈴を手にして神楽を舞っていたが、鈴の音色は太鼓の音で届かない。



拝殿に供えた紅白のモチは奉納された開運餅撒きの餅。

この年、本厄けのご祈祷を受けた人たちが奉納された紅白餅である。

御火焚祭を終えて再び拝殿に移った参拝者。



福をおすそわけに撒かれる福餅に群がる。

押し合いへしあいに怪我人がでませんように・・・。

(H27. 2. 3 EOS40D撮影)

目安春日神社のトシコシ

2015年11月11日 07時32分48秒 | 斑鳩町へ
2月3日は節分の日。

県内行事に鬼が出没する節分行事がある。

村では昔ながらの風習に節分の日は豆を氏神さんやお寺の本堂に供える地域がある。

先に参っていた人が供えた豆をかわりにもらって帰る風習だ。

大晦日の数日前。斑鳩町目安に鎮座する春日神社の正月飾りをしていた宮守さんが話していた目安に「トシコシ」の豆御供がある。

これまで大和郡山市新木町・額田部北町や奈良市佐紀町の在り方を拝見してきた。

他にも大和郡山市田中町、奈良市山陵町、天理市藤井町・長滝町・南六条町、山添村切幡などで行われているやに聞く。

立春が一年の始まりの新年とすれば、前日の節分は大晦日にあたる。

平安時代の宮中では旧年の厄や災いを祓う追儺行事が行われていた。

室町時代より発展したとされる豆撒きは邪鬼を追い出す行事であるが県内各地の豆交換の在り方を調べている。

目安の宮守さんは3人が交替して勤めている。

今年の当番の宮守さんは朝8時前にやってきてオヒネリに包んだ豆を本殿、末社などすべてに供えていた。



いずれ参拝者が訪れるであろうと判断されて供えた豆を下げる。

拝殿には何も供えなかった三方は七つ。

七社の数だが、白いカワラケを裏向けに置く。



これをどうするのか、と思っていたら、そのまま蔵に仕舞われた。

これを「ゴゼン(御膳)」と呼んでいる。

節分には何もなかったが、マツリのときには洗い米、ケンサキスルメ、イワシ(アユの時代もあった)を供えるゴゼンである。

供えたオヒネリの豆はすべての扉を閉めて拝殿前にプラスチック製コジュウタに置いておく。



参拝者は我が家の豆を持ってきて、これと交換して持ち帰るというのだ。

かつては三方に盛っていた。

いつしか増えていった御供で零れそうになった。

それから木のコジュウタにした。

宮守さんはずっとこの場に立ち会わない。

盗まれては困るからと考えられてプラツチック製にしたという。

晩の10時ころともなれば引き上げる節分の御供豆。

宮守さんが栽培した大豆である。

豆を干してから棒などで叩いてマメオトシをした。

豆は一般的な大豆よりもやや小ぶり。

フライパンで煎った豆を供えたと云う。



下げた豆を帰宅してからよばれた。

堅さはあるが香ばしくて美味かった大豆の品種は聞きそびれた。

5月5日は目安の五月節句。

アズキアンを入れた七つのカシワモチ御供を供える。

七つは七社の数だが、御供はチマキもある。

モチワラを湿らして括っていたチマキは五本束ね。

家で作っていた。

法隆寺付近の池に出かけた。

採取したカヤは水に浸けて綺麗に洗う。

米粉で溶いて作ったダンゴをカヤで包む。

一つ、一つのチマキをモチワラで括った。

米粉はカラウスで搗いていた。

アズキのコシアンはスリコギで潰していた。

10年前まではそうして作った御供を供えていたチマキ。

下げて5軒の宮守さんに5本づつ配っていたが、今はすることがないという。

10月のマツリに御供がある。

洗い米、ケンサキスルメ、イワシだ。

過去にはアユもあったそうだが、供えている時間が長くて魚は臭くなる、後始末の管理がかなわんという意見が出て取りやめたようだ。

御膳には五品のオカズがある。

コーヤドーフ、乾物シイタケ、ニンジン、サトイモ、インゲンマメなどだ。

マツリは10月25日だった。

作付米が晩生だったから収穫にあわせた行事日だった。

いつしか十日早めた15日になったが、現在は第一日曜日に行っているという。

(H27. 2. 3 EOS40D撮影)