振り返ってみると、今年2015年にわたしは21篇の詩を書いている。
現代詩は基本的に“読まれない”という宿命を負っているようである。つまり読者がいないのである。荒川洋治さんが嘆いていらしたが、詩的言語は、いまどきの人にとっては、とっつきにくく、難解なのである。
そういう先入観をもたれている。そしておもしろくない(^皿^)
だから読者はついてこない。
流行歌の歌詞が詩だと思っている世代が抬頭し、現代詩は、ますます隅っこに追いやられている。ポーやボードレールは読んでいる。宮沢賢治や高村光太郎、あるいは金子みすずは読んでいる・・・読んだことがある。
しかし、現在進行形の“現代詩”の読者は寥々たるものがある。読む人=書く人という等式が成り立つといってもいい。
かくいうわたしも、現代詩はごく、ごくわずかしか読まない。
詩的言語は吉本隆明流にいえば、“自己幻想”にその根源をおいている。わたしの場合も、詩的言語は、その半分以上、無意識の世界からわたしの脳と指に下りてくる。
つまり書いたわたしが、最初の読者なのである。
「へええ・・・こんな詩が書けたか'`,、('∀`)」
つまり書いたわたしが、小首をかしげ、不思議がっている。わたしは母国語である日本語の中に住んでいる。ものを考えるとき、日本語で考えている。その日本語は長い年月かかって、わたしが習得したもの。
日本人になるまで、ほんとうに、じつに長い歳月を要したのだ・・・つまりいまの“わたし”になるまで。
そういうことなんだろうなあ、そういうことだろう・・・といまは考えている(ρ_・)
2-68 ことばの中に住んでいる人(2015.11.29)
2-67 セキレイの庭(2015.10.12)
2-66 とおてくう とおるもう(2015.9.6)
2-65 使い古したハンカチ一枚、その他(2015.8.3)
2-64 スイカを食べる(2015.8.2)
2-63 ある夏の一日(2015.7.20)
2-62 ため息はことばにならない(2015.7.9)
2-61 場所(2015.6.14)
2-60 虹の橋を渡ってやってくるのは(2015.6.12)
2-59 つかのまの出来事こそ愛おしい(2015.6.9)
2-58 夢の盃(2015.5.31)
2-57 あじさい色の鎌倉(2015.5.28)
2-56 隣りにだれか(2015.5.26)
2-55 蒼穹の秤(2015.517)
<INDX2と重複>
2-54.今日という一日(2015.4.29)
2-53.街を撮る(2015.4.5)
2-52.スモモの花が咲くころ(2015.3.22)
2-51.早春のエレジー(2015.3.8)
2-50.ベッドの上でぼくは過去とむつみあう(2015.3.1)
2-49.春よこい!(2015.2.22)
2-48.十年おきに(2015.2.15)
「光集める人 ~INDEX 2~」はこちら。
http://blog.goo.ne.jp/nikonhp/e/5dab0c4fc65edb0b6fb9440cea0a77cb
今年いちばん印象に残っている作品を、一編だけ再掲載しておこう。
最後の数行が書けたとき、わたしはほっと安堵のため息のようなものをもらした。わたしの人生観というと堅苦しいが、それに近いものが、表出できた・・・と思っている。
■セキレイの庭(ポエムNO.2-67)
昭和天皇について書かれた本や昭和史をあつかった本を読んでいて
ある夜 ぼくは寝つけなくなってしまった。
玉音放送が流れるまでの
これまであまり公にされていなかった事実を教えてもらいながら
木々の葉を騒がす風の音を聞いていたあのとき。
ぼくの胸はその風の音より激しく騒いで
騒いで
つぎの日(三、四時間眠ったあとで)早くに庭へ出て
すでに明るくなっていた大空を見あげた。
スズメたちはいつもと変わらずチュンチュンと鳴いて
わかりやすいことばでぼくに告げる人はいないが
この平和が危うい
じつに危ういバランスの上に築かれたものであることを実感する。
昨夜忍び込んだ本の中のことばたちが
胸の底をクロオオアリのように動きまわることをやめない。
すぐそこにあるものの尊さにつて
ぼくはこの歳になって
あらためて 学ばねばならないのか?
昭和の最後の一年間
そこに佇んだままのぼくをさがしにいくために。
そのあたりにはたくさんの家族にかこまれた日常があったのだし
あのとき三十六歳だった男は
迷路のように曲がりくねった道をたどってここまでやってくるあいだに
ずいぶんと老いた 人並みにといえばそのとおりだが。
セグロセキレイが庭の向こうのはずれに舞い降りなにか啄んでいる。
あれは・・・あれはだれかの魂なのか
セグロセキレイという名の。
初夏の風が頬を撫でる。
やがて一羽のセキレイとなって
ぼくもこの庭に舞い降りる日がくるだろう。
※作品の通し番号に間違いがあったので、気がついたところは訂正してあります。
現代詩は基本的に“読まれない”という宿命を負っているようである。つまり読者がいないのである。荒川洋治さんが嘆いていらしたが、詩的言語は、いまどきの人にとっては、とっつきにくく、難解なのである。
そういう先入観をもたれている。そしておもしろくない(^皿^)
だから読者はついてこない。
流行歌の歌詞が詩だと思っている世代が抬頭し、現代詩は、ますます隅っこに追いやられている。ポーやボードレールは読んでいる。宮沢賢治や高村光太郎、あるいは金子みすずは読んでいる・・・読んだことがある。
しかし、現在進行形の“現代詩”の読者は寥々たるものがある。読む人=書く人という等式が成り立つといってもいい。
かくいうわたしも、現代詩はごく、ごくわずかしか読まない。
詩的言語は吉本隆明流にいえば、“自己幻想”にその根源をおいている。わたしの場合も、詩的言語は、その半分以上、無意識の世界からわたしの脳と指に下りてくる。
つまり書いたわたしが、最初の読者なのである。
「へええ・・・こんな詩が書けたか'`,、('∀`)」
つまり書いたわたしが、小首をかしげ、不思議がっている。わたしは母国語である日本語の中に住んでいる。ものを考えるとき、日本語で考えている。その日本語は長い年月かかって、わたしが習得したもの。
日本人になるまで、ほんとうに、じつに長い歳月を要したのだ・・・つまりいまの“わたし”になるまで。
そういうことなんだろうなあ、そういうことだろう・・・といまは考えている(ρ_・)
2-68 ことばの中に住んでいる人(2015.11.29)
2-67 セキレイの庭(2015.10.12)
2-66 とおてくう とおるもう(2015.9.6)
2-65 使い古したハンカチ一枚、その他(2015.8.3)
2-64 スイカを食べる(2015.8.2)
2-63 ある夏の一日(2015.7.20)
2-62 ため息はことばにならない(2015.7.9)
2-61 場所(2015.6.14)
2-60 虹の橋を渡ってやってくるのは(2015.6.12)
2-59 つかのまの出来事こそ愛おしい(2015.6.9)
2-58 夢の盃(2015.5.31)
2-57 あじさい色の鎌倉(2015.5.28)
2-56 隣りにだれか(2015.5.26)
2-55 蒼穹の秤(2015.517)
<INDX2と重複>
2-54.今日という一日(2015.4.29)
2-53.街を撮る(2015.4.5)
2-52.スモモの花が咲くころ(2015.3.22)
2-51.早春のエレジー(2015.3.8)
2-50.ベッドの上でぼくは過去とむつみあう(2015.3.1)
2-49.春よこい!(2015.2.22)
2-48.十年おきに(2015.2.15)
「光集める人 ~INDEX 2~」はこちら。
http://blog.goo.ne.jp/nikonhp/e/5dab0c4fc65edb0b6fb9440cea0a77cb
今年いちばん印象に残っている作品を、一編だけ再掲載しておこう。
最後の数行が書けたとき、わたしはほっと安堵のため息のようなものをもらした。わたしの人生観というと堅苦しいが、それに近いものが、表出できた・・・と思っている。
■セキレイの庭(ポエムNO.2-67)
昭和天皇について書かれた本や昭和史をあつかった本を読んでいて
ある夜 ぼくは寝つけなくなってしまった。
玉音放送が流れるまでの
これまであまり公にされていなかった事実を教えてもらいながら
木々の葉を騒がす風の音を聞いていたあのとき。
ぼくの胸はその風の音より激しく騒いで
騒いで
つぎの日(三、四時間眠ったあとで)早くに庭へ出て
すでに明るくなっていた大空を見あげた。
スズメたちはいつもと変わらずチュンチュンと鳴いて
わかりやすいことばでぼくに告げる人はいないが
この平和が危うい
じつに危ういバランスの上に築かれたものであることを実感する。
昨夜忍び込んだ本の中のことばたちが
胸の底をクロオオアリのように動きまわることをやめない。
すぐそこにあるものの尊さにつて
ぼくはこの歳になって
あらためて 学ばねばならないのか?
昭和の最後の一年間
そこに佇んだままのぼくをさがしにいくために。
そのあたりにはたくさんの家族にかこまれた日常があったのだし
あのとき三十六歳だった男は
迷路のように曲がりくねった道をたどってここまでやってくるあいだに
ずいぶんと老いた 人並みにといえばそのとおりだが。
セグロセキレイが庭の向こうのはずれに舞い降りなにか啄んでいる。
あれは・・・あれはだれかの魂なのか
セグロセキレイという名の。
初夏の風が頬を撫でる。
やがて一羽のセキレイとなって
ぼくもこの庭に舞い降りる日がくるだろう。
※作品の通し番号に間違いがあったので、気がついたところは訂正してあります。