<情景>
このあいだ、中途半端な尻切れトンボで終わってしまったので、
わたしの風景写真論について、もう少し書いておこう。
上に掲げたのは、マイミクneroさんの「情景」と題する作品。
もう2枚、引用させていただく。
<日本一暑かった日>
<防波堤>
わたしがいう「風景写真」は、こういった内容のものを指す。
分類するのはなかなかむずかしいけれど、自然の風景というより、ソシアルランドスケープとしての風景。日本語に訳せば、そのまま社会的な風景・・・となる。
吉村和敏さんはこれまでたくさん写真集を刊行し、写真展を開催している。
いわゆるポストカード的な、カラーの美しい風景。
吉村和敏のキーワードでグーグルの画像検索をすると、世界の美しい湖や、海岸や、建築物や、夜明けの地平線を閲覧することができる。
どれもこれもため息が出てしまうような美しさ。わたしとて、それに文句があるわけではもちろんない(^^;)
だけど・・・なにかが違うと感じて、書店で立ち読み(立ち見)することはあっても、欲しい――手許に置いておきたい、と思ったことはない。
まさに世界遺産級の眺めばかり。
しかし、わたしの日常とクロスする部分は、まったくない。
ところがこのあいだ、書店で「Shinshu 信州」というモノクロの写真集を手にしたとき、
「ああ、これはいいなあ。こんなアプローチがあるんだぞ」
そう考えて、それを買って帰った。
先日引用したneroさんの、田植え間近な水田の上に、プカプカ雲が浮かんでいる「五月 ♯3」を眺めてほしい。
http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1634876934&owner_id=34086235
neroさんは、これを「日常」というアルバムに収録している。
そしていえば、吉村さんの「Shinshu」は、彼自身が生れ育った、故郷信州の風景なのである。北米カナダあたりを中心として世界中を飛び回って、世界遺産級の写真ばかり撮影してきた吉村さんが、4×5の不自由なカメラを担ぎ、あえてモノクロで、ふるさと信州の風景に立ち向かい、なにを、どう撮ろうとするのか?
あまりに日常的に見続けていると、人はもう「すべて知っている」という気分に支配され、その風景を見ようとしなくなる。
neroさんは、それを「見よう」として、小さなチャレンジをつづけている。
昭和ロマンを訪ね歩くわたしの街撮りは、そろそろ終盤戦。
そんなことを考えはじめていたところに、市橋織江さんの写真がきて、そしてマイミクneroさんの「日常」がやってきた。
かつて繁栄を誇った旧市街ではなく、その町の郊外を撮ろう・・・という試み。
わたし自身が住み暮らしているのが郊外のいわば田園地帯なので、そういう領域にもっと眼を向けて、きちんと記録していく。
田舎と都会の境界線のような場所の魅力が、鋭敏な感性の持ち主neroさんの作品を通して、あらためてわたしをとらえたのだ。
わたし自身の作品を1枚だけあげる。
ネイチャーとしての自然ではなく、かといって、商業地区の写真でもない。
ボーダーラインに位置するといっていいような、ソシアルランドスケープ。
「Beautiful Wind(上州風)」がほぼこれに該当するシリーズだけれど、これまで、十分意識的であったとはいえない(=_=)
写真はおそらく、ある種の音楽とおなじように、人間の無意識の領域にかかわり、深く根をはっている。ことばや理論といったものが役にたたない、ぼんやりした薄明のような場所である。
写真を撮る。撮った写真を眺める。
それは暗夜、懐中電灯で、夜道を照らし出しながら歩いていく行為にも似ているとおもうけれど、果たして皆さん、どんなものだろう?
このあいだ、中途半端な尻切れトンボで終わってしまったので、
わたしの風景写真論について、もう少し書いておこう。
上に掲げたのは、マイミクneroさんの「情景」と題する作品。
もう2枚、引用させていただく。
<日本一暑かった日>
<防波堤>
わたしがいう「風景写真」は、こういった内容のものを指す。
分類するのはなかなかむずかしいけれど、自然の風景というより、ソシアルランドスケープとしての風景。日本語に訳せば、そのまま社会的な風景・・・となる。
吉村和敏さんはこれまでたくさん写真集を刊行し、写真展を開催している。
いわゆるポストカード的な、カラーの美しい風景。
吉村和敏のキーワードでグーグルの画像検索をすると、世界の美しい湖や、海岸や、建築物や、夜明けの地平線を閲覧することができる。
どれもこれもため息が出てしまうような美しさ。わたしとて、それに文句があるわけではもちろんない(^^;)
だけど・・・なにかが違うと感じて、書店で立ち読み(立ち見)することはあっても、欲しい――手許に置いておきたい、と思ったことはない。
まさに世界遺産級の眺めばかり。
しかし、わたしの日常とクロスする部分は、まったくない。
ところがこのあいだ、書店で「Shinshu 信州」というモノクロの写真集を手にしたとき、
「ああ、これはいいなあ。こんなアプローチがあるんだぞ」
そう考えて、それを買って帰った。
先日引用したneroさんの、田植え間近な水田の上に、プカプカ雲が浮かんでいる「五月 ♯3」を眺めてほしい。
http://photo.mixi.jp/view_photo.pl?photo_id=1634876934&owner_id=34086235
neroさんは、これを「日常」というアルバムに収録している。
そしていえば、吉村さんの「Shinshu」は、彼自身が生れ育った、故郷信州の風景なのである。北米カナダあたりを中心として世界中を飛び回って、世界遺産級の写真ばかり撮影してきた吉村さんが、4×5の不自由なカメラを担ぎ、あえてモノクロで、ふるさと信州の風景に立ち向かい、なにを、どう撮ろうとするのか?
あまりに日常的に見続けていると、人はもう「すべて知っている」という気分に支配され、その風景を見ようとしなくなる。
neroさんは、それを「見よう」として、小さなチャレンジをつづけている。
昭和ロマンを訪ね歩くわたしの街撮りは、そろそろ終盤戦。
そんなことを考えはじめていたところに、市橋織江さんの写真がきて、そしてマイミクneroさんの「日常」がやってきた。
かつて繁栄を誇った旧市街ではなく、その町の郊外を撮ろう・・・という試み。
わたし自身が住み暮らしているのが郊外のいわば田園地帯なので、そういう領域にもっと眼を向けて、きちんと記録していく。
田舎と都会の境界線のような場所の魅力が、鋭敏な感性の持ち主neroさんの作品を通して、あらためてわたしをとらえたのだ。
わたし自身の作品を1枚だけあげる。
ネイチャーとしての自然ではなく、かといって、商業地区の写真でもない。
ボーダーラインに位置するといっていいような、ソシアルランドスケープ。
「Beautiful Wind(上州風)」がほぼこれに該当するシリーズだけれど、これまで、十分意識的であったとはいえない(=_=)
写真はおそらく、ある種の音楽とおなじように、人間の無意識の領域にかかわり、深く根をはっている。ことばや理論といったものが役にたたない、ぼんやりした薄明のような場所である。
写真を撮る。撮った写真を眺める。
それは暗夜、懐中電灯で、夜道を照らし出しながら歩いていく行為にも似ているとおもうけれど、果たして皆さん、どんなものだろう?