前の日記がマイミクさん限定、ちょっと重たい日記=ブログとなってしまったので、お口直しにというか、肩の力を抜いて、最近わたしの手許にやってきた二冊の本について、「全体に公開」レベルで書いておこう。
☆著者:秋山功
「私の本もの美術館 絵画蒐集余話」三好企画
2週間ほどまえに突然宅配されてきた、自費出版としてはたいへん造本・装幀にこだわった“豪華本”。秋山さんはわたしの中学校の同級生で、小学校の教員をながらく勤め、現在埼玉県で校長の職にあるが、まもなく60歳、定年をむかえる。
このところ10年余り、年賀状のやりとりはあったものの、ろくにおつきあいしないまま、いたずらに歳月が流れてきた。
わたしが住宅の営業マン時代に住宅を建築してもらったことがあり、またわたし自身の新築祝いに版画(シルクスクリーンというのか)をいただいたりして、はかりしれないほどお世話になってきた、貴重なすぐれた友人の一人である。
彼の年賀状は、円空の仏像をおもわせるような木版画がよくプリントしてあった。
だからはじめ、てっきり自作の版画集をまとめた本だろうと、早合点し、しばらく梱包を開けてもみず、放置して、数日後封をあけ、「あららー」となった。
彼はいつのまにか、「絵画蒐集家」となっていたのであった(^^)/
本書には、収蔵品400点のうち、高精細な美術製版によって、150点をピックアップしてある。
まだ、ざっと拾い読みしただけだが、この本は「自分史」になっていることに気が付いた。ご自身の若き日の思い出や絵画論、絵画蒐集の苦労話等が、わかりやすいことばで、平明端的につづられている。最後のほうに、高崎の画廊で開催された彼自身の個展にあつまった人びとの記念写真が置かれ、そこに20歳のわたしが写っている。
つまり、還暦記念、定年記念の自費出版なのである。
わたしは日本の近・現代画家についてさしたる関心はもっていないので、くわしく論評することができない。しかし、ページのどこをはぐっても、よく使われる表現だけれど、「青春の息吹」が漲っているのは、驚くべきことである。
この本の中に、彼は絵画への情熱のありったけをこめて、「来し方」のすべてをつめ込みたかったのだろう。それが見る者の胸を打つ。
蒐集家、コレクターとして生きるとはどういうことか? 金儲けの手段ではなく、美術館の学芸員でもない、こういう立場の人が、大好きな絵画の売り買いと、絵とのつきあいを通して、なにを語ろうとするのか?
わたしのかげがえのない友人のこの「私の本もの美術館 絵画蒐集余話」を読み解いていくのは、これからの作業ということになる。数十年にわたり、営々として積み上げてきた分厚い時間の手応えがひしひしとつたわってくる。
☆著者:武田章利
「共鳴詩集」
武田さんはmixiで知り合った、詩がとりもつご縁のマイミクさんである。
詩集を出したというので申し込んだら、無料でさっそくお送り下さった。
銀色夏生さんクラスの通俗詩集ではなく、剛速球を投げてくる、本格的な象徴詩。
質素かつ小さな文庫サイズだけれど、168ページの中に、息苦しいほど濃密なことばの世界がつまっている。
《何かを創りだすことに、誰もが生きがいを
感じ、おそらく誰の目にも――たくさんの
障害を前にしながらも――突き進む力の、
溢れる道筋が映っているだろう。
石ころよ、お前はこの夜、無力なのだ。
だが、あの月が辿ってきた道を
見返すなら、己の不憫が浮き上がる。
ああ、そして我々に与えられる
ふたつの道。「失敗」、か、「のり越え」か。
流星の小さな炎に、耐えられるかどうか。》
(共感詩集 <輪転 第一部>より「――十番目の月」部分)
人によって「好き嫌い」がハッキリ出るかもしれないが、ことばの用法が独特である。
なめらかではなく、ざらざらした感触が、詩語のリアリティーを高め、読者を緊張感にみちびいていく。ボードレールあるいはアルチュール・ランボーのはるかな子孫なのかもしれないし、そうでないかもしれない。
最近少し復帰しているとはいえ、現代詩の世界からは遠ざかって久しいので、いまのわたしにはどちらとも断定はできない。抽象語が多く、具体的な風景が見えてこないが、そこがこの作品世界の持ち味なのだろう。
わたしもこういう形で作品をまとめておこうかな・・・という意味で、とてもいい刺激をいただいた(^_^)/~
武田さんは、独特な暗喩の彼方に住まう稀有な詩人である。
書店で買ってくる、マスメディアや大手取次店を経由したようなものではなく、こういう手作り感覚あふれる自費出版の本は、発行部数が少なく、一冊一冊が、かけがえのない重みをもっている。大量に流通させ、利益をあげようという考えがなければ、自費出版は思い通りの本づくりが愉しめるのがいい。
2冊とも、単なる「趣味」の域を凌駕するレベルに達している・・・とわたしにはおもわれた。