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萩原朔太郎はわたしにとっては郷土の詩人である。
学生時代から途切れとぎれ読んだりよまなかったり・・・もうずいぶん長いつきあいとなる。
明治以降の詩人として、現在でも人気があるのは高村光太郎、宮沢賢治、中原中也あたりだろうが、そういった中に置いてみて「月に吠える」の詩的達成は、ひときわ輝いているように思われる。これはわたしの「ひいき目」というものだろうか?
わたしの見るところ、朔太郎の詩集は「月に吠える」を第一とするけれど、世間一般の評価もそのあたりに落ち着くだろう。しかし、弟子と称する三好達治さんは、「純情小曲集」や「郷土望景詩」あたりの連作をを最上作としているから、彼の詩の解釈には、かなりの幅が当然ながらあり得る。
「月に吠える」は「竹とその哀傷」「雲雀料理」「悲しい月夜」「くさった蛤」「「見知らぬ犬」の五章に分けてある。その中でもとくに最初の二章がやはりすぐれているというのが、わたしの意見であり、好みでもある。
■殺人事件
《とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裳をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍体のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。
しもつき上旬(はじめ)のある朝、
探偵は玻璃の衣裳をきて、
街の十字巷路(よつつじ)を曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ、
はやひとり探偵はうれひをかんず。
みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者(くせもの)はいつさんにすべつてゆく。》
この詩をはじめて読んだときの衝撃は、いまでもボンヤリ覚えている。最後の二連など、ため息をつくしかない出来映え。2015年現在で読み返しても古臭さを感じさせない。
《曲者(くせもの)はいつさんにすべつてゆく》のすべってゆくは、じつに愉快なイメージで、わたしには絶対にマネのできない心のゆれを喚起するところなど、いまさらながらすごいと脱帽せざるを得ない。
もう一編引用しよう。
■天景
《しづかにきしれ四輪馬車、
ほのかに海はあかるみて、
麦は遠きにながれたり、
しづかにきしれ四輪馬車。
光る魚鳥の天景を、
また窓青き建築を、
しづかにきしれ四輪馬車。》
こういう詩的言語に、ファンはしびれる。わずか七行で、イメージは完成している。わたしの推測では、このあたりに夢みがちだったロマンチスト朔太郎の「至福」のイメージが隠されている。五七五の韻律は、ここではすばらしい効果をあげている。「よんりんばしゃ」ではなく、むろん「しりんばしゃ」と読む。
詩集の「序」で彼はつぎのように書く。
《過去は私にとつて苦しい思ひ出である。過去は焦躁と無為と悩める心肉との不吉な悪夢であつた。
月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽霊のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。
私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて来ないやうに。》
朔太郎は大胆な暗喩という手法を武器にして、時代の表現の最先端へと飛び出した。「月に吠える」の初版は1917年(大正6)のことである。つまり百年も昔に出版された詩集なのである。
朔太郎はひとくちにいえば「幻を視る人」であった。のみならず、それを時代にさきがけた詩的言語に移しかえて、表現できた天才であった。
天才となんとかは紙一重というように、病的な一面があり、それが彼の才能の源泉ともなっていたのである。だれが読んでもそう読めるから、これはわたしの創見ではない。関心がないからほとんど読んではいないが、病理心理学、病跡学(pathography)に格好の事例を提供しているはずである。
「朔太郎って、かなりの変態さんですよね?」と問われれば、わたしもyesとお答えするだろう。彼自身《疾患する犬の心》と書いているから、そのあたりは十分承知していたはず。
しかし、そのことと、彼の詩の価値を直接むすびつけようとはわたしは考えない。
ところが彼は口語自由詩を主体とした作風から、漢文調の文語詩へ後退していく。五七五の韻律は、しだいに弱っていく彼の詩精神をささえる杖になり得たのであろうか。
わたしにはまだ十分な見極めができないが、「氷島」などに顕著に見られる悲憤慷慨の調べは、いまとなってはいかんともしがたく古色をおびてしまった。
過去への旅は、ほんとうは未来を切り開くカギを探す旅でなければならない。仮借のないいい方をあえてすれば、彼の過剰な自己憐憫は、わたしにはナルシシズムの裏返しとしか見えないのである。
・・・ところで、朔太郎の作品を読み返しながら、わが国におけるこの百年が何であったか、わたしは気になっている。なぜなら現役の詩人とこの「月に吠える」の詩編をならべ、ランダムに読んでいっても、なんら違和感がないからである。
「月に吠える」は詩の書き手としてのわたしを、いまだインスパイアしてやまない。
評価:☆☆☆☆☆(5点満点)
学生時代から途切れとぎれ読んだりよまなかったり・・・もうずいぶん長いつきあいとなる。
明治以降の詩人として、現在でも人気があるのは高村光太郎、宮沢賢治、中原中也あたりだろうが、そういった中に置いてみて「月に吠える」の詩的達成は、ひときわ輝いているように思われる。これはわたしの「ひいき目」というものだろうか?
わたしの見るところ、朔太郎の詩集は「月に吠える」を第一とするけれど、世間一般の評価もそのあたりに落ち着くだろう。しかし、弟子と称する三好達治さんは、「純情小曲集」や「郷土望景詩」あたりの連作をを最上作としているから、彼の詩の解釈には、かなりの幅が当然ながらあり得る。
「月に吠える」は「竹とその哀傷」「雲雀料理」「悲しい月夜」「くさった蛤」「「見知らぬ犬」の五章に分けてある。その中でもとくに最初の二章がやはりすぐれているというのが、わたしの意見であり、好みでもある。
■殺人事件
《とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裳をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍体のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。
しもつき上旬(はじめ)のある朝、
探偵は玻璃の衣裳をきて、
街の十字巷路(よつつじ)を曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ、
はやひとり探偵はうれひをかんず。
みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者(くせもの)はいつさんにすべつてゆく。》
この詩をはじめて読んだときの衝撃は、いまでもボンヤリ覚えている。最後の二連など、ため息をつくしかない出来映え。2015年現在で読み返しても古臭さを感じさせない。
《曲者(くせもの)はいつさんにすべつてゆく》のすべってゆくは、じつに愉快なイメージで、わたしには絶対にマネのできない心のゆれを喚起するところなど、いまさらながらすごいと脱帽せざるを得ない。
もう一編引用しよう。
■天景
《しづかにきしれ四輪馬車、
ほのかに海はあかるみて、
麦は遠きにながれたり、
しづかにきしれ四輪馬車。
光る魚鳥の天景を、
また窓青き建築を、
しづかにきしれ四輪馬車。》
こういう詩的言語に、ファンはしびれる。わずか七行で、イメージは完成している。わたしの推測では、このあたりに夢みがちだったロマンチスト朔太郎の「至福」のイメージが隠されている。五七五の韻律は、ここではすばらしい効果をあげている。「よんりんばしゃ」ではなく、むろん「しりんばしゃ」と読む。
詩集の「序」で彼はつぎのように書く。
《過去は私にとつて苦しい思ひ出である。過去は焦躁と無為と悩める心肉との不吉な悪夢であつた。
月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽霊のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。
私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて来ないやうに。》
朔太郎は大胆な暗喩という手法を武器にして、時代の表現の最先端へと飛び出した。「月に吠える」の初版は1917年(大正6)のことである。つまり百年も昔に出版された詩集なのである。
朔太郎はひとくちにいえば「幻を視る人」であった。のみならず、それを時代にさきがけた詩的言語に移しかえて、表現できた天才であった。
天才となんとかは紙一重というように、病的な一面があり、それが彼の才能の源泉ともなっていたのである。だれが読んでもそう読めるから、これはわたしの創見ではない。関心がないからほとんど読んではいないが、病理心理学、病跡学(pathography)に格好の事例を提供しているはずである。
「朔太郎って、かなりの変態さんですよね?」と問われれば、わたしもyesとお答えするだろう。彼自身《疾患する犬の心》と書いているから、そのあたりは十分承知していたはず。
しかし、そのことと、彼の詩の価値を直接むすびつけようとはわたしは考えない。
ところが彼は口語自由詩を主体とした作風から、漢文調の文語詩へ後退していく。五七五の韻律は、しだいに弱っていく彼の詩精神をささえる杖になり得たのであろうか。
わたしにはまだ十分な見極めができないが、「氷島」などに顕著に見られる悲憤慷慨の調べは、いまとなってはいかんともしがたく古色をおびてしまった。
過去への旅は、ほんとうは未来を切り開くカギを探す旅でなければならない。仮借のないいい方をあえてすれば、彼の過剰な自己憐憫は、わたしにはナルシシズムの裏返しとしか見えないのである。
・・・ところで、朔太郎の作品を読み返しながら、わが国におけるこの百年が何であったか、わたしは気になっている。なぜなら現役の詩人とこの「月に吠える」の詩編をならべ、ランダムに読んでいっても、なんら違和感がないからである。
「月に吠える」は詩の書き手としてのわたしを、いまだインスパイアしてやまない。
評価:☆☆☆☆☆(5点満点)