ヤシカマット124Gの短期使用レポートをまとめようかと考えていたが、やめておこう。
あまりにマイナーすぎる。
ローライなら読んで下さる人もいるだろう。
しかし、ヤシカの二眼レフに関心をもってくれる読者がいるとはおもえない。
あとで、気が向いたら、また書くこともあるだろう。
むろん、それでいいのである。
世の中とは、そういうものであるから。
しかし・・・わたしは少々へそまがりだから、ベストセラーには、あまり興味がない。
ベストセラーよりは、ロングセラー。
そう考えないかぎり、鴎外だの漱石だの中島敦だの永井荷風だの――そういった日本の「近代文学」とはおつきあいはできない。
最新のデジタルカメラも同じ。
発売直後には“サイコーの性能”を誇ってはいるが、5、6年たったら、そんなカメラがあったことすら、忘れられている。たとえ、そのメーカー――キヤノンやニコンのフラッグシップ機であろうと、デジタルカメラは家電品の一種だから、2、3年で「賞味期限」がきれてしまう。その間に、せいぜい使い倒すことである。惚れたら、1万カットは撮るべきだろう。
・・・といった虚しさをこころにとめながら、わたしは公園の散歩を愉しむ。
平日のS公園は、若いお母さんと子どもたちの、そしてお年寄りたちのいこいの場である。
こういった平和が、ほんとうは価値がある。
なんでもないもの。
日常の中の一こま。・・・映画にも、小説にもなりようがない。
だから、価値がある。そう、だからこそ、価値がある!
わたしはこういう光景の目撃者である。
フォトグラファーとは、記録者であり、証言者である。2012年4月17日のS公園。
この日の光景を、わたしもまた記憶にとどめよう。
むろん、二度とない一日だから。
わたしにとって、生誕60年目の一日だから。
レンズの向こうに、人がいる。
レンズのこちらに・・・わたしがいる。