人はおそらく、こころの薄暗い奥底に、女性なら少女が、男性なら少年が住んでいる。
普段生活に追われ、せかせかした日常を過ごしていると、それは深い忘却の淵に沈んでいる。
ところが、なにかきっかけがあると、糸の切れた風船が空に舞い上がるように、あるいは、沼から水泡が浮上するように、表面へ姿をあらわす。
幼児性ということばがあるが、これは、現実には否定的な意味合いで使われることが多い。「甘えがある。幼児性をひきずっているから、いつまでたっても独り立ちできない」というふうに。
わたしがここでいう、少年性、少女性は、そういった価値判断はほとんどふくんでいない。
たとえば、トップの一枚。
自転車に乗ったひとりの少年が、片足をコンクリートのポールにかけて、なにものかを待っている。
「あー、あれは、なにをしているんだろう? 3分、4分同じ姿勢で。なにを、だれを・・・待っているんだろう」
後ろを正田醤油の広告でラッピングされたバスが通過する。
わたしは、クルマのフロントガラス越に、その光景を写真に撮った。
そしてしばらくし、少年が待っていた相手がやってきた。
ライトバンに乗った母親。
彼女はライトバンの後方スィングドアを開けて、少年の自転車を、その荷台に積み込み、彼を乗せて、公園の駐車場から出ていった。
この少年が待っていたのは、ライトバンに乗った母親。ケータイで連絡をとりあい、まもなく「お迎え」があらわれることが、彼には、わかっていたのだ。
こういった光景を、だれもが、これまで、数かぎりなく見てきている。
街の中では、さまざまな人びとが生活している。まあ、そういった漫然たる一般論と、ここにあげた2枚の写真とのあいだには、そのままイコールではつながらない“何か”があるのだけれど、それはこの2枚を見た人の胸のうちに存在する。
だれもが、少年であったのだし、少女であったのだ。
こういった日常の光景を眼にするたび、忘却の淵に沈んでしまった、自身の少年時代を思い出そうとこころみるが、めったにうまくはいかない。
しかし・・・、この2枚の写真から、少年と母親をつないでいる、眼に見えない一本の糸のようなものを、あなたは想像できるだろうか?
さてさて・・・あれから、「働く自動車」が7台、わたしのところへやってきた。
こういったミニチュア趣味をさかのぼっていくと、江崎グリコの“グリコのおまけ”にたどりつく。いったい、この「おまけシリーズ」は、いつごろまでつづいたのだろう。
http://matome.naver.jp/odai/2126518647703497601
ミニカーだけでなく、生活感にあふれたいろいろなアイテムが用意してあって、そのアイテム欲しさにキャラメルを買ったようなものだった。
ここにある「働く自動車」は、つぎのような車種。
トミカ66
ヤンマー コンバインAJ218
S=1/47
トミカ68
郵便車
S=1/57
トミカ118
トヨタ コースター 幼稚園バス
S=1/89
とくにこの幼稚園バスなどは、乗降用ドアが横にスライドし、座席がならんでいるのが見える。
人びとの生活に密着し、はっきりした社会的な目的をもったものが、働く自動車の、いわばリアリティーとなっている。そこがいい! そこにしびれる!!
本体、シャシーは亜鉛合金製なので、オール・プラスチック製品と比べると、おとなの「物欲」をも満たす精度をもっている・・・と三毛ネコさんはおもっている(^^;)
今日までで、12台のミニカーが、そろった。クロネコヤマトの配送車(クール宅配便)が105円で置いてあったので、買って帰ろうかとよく見たら、後方のドアが壊れていた。
残念(=_=) 見たところ、すごく出来がよかったのにぃ~~。