いやはや、血が滴るようなメガトン級の巨大なビフテキにかぶりついたみたいで、歯ごたえがありすぎ、読みこなしたという風にはとても思えない(^^;)
しかし、重く深刻に考えるばかりがいいわけではないだろう。ドストエフスキーは雑誌経営者でもあったから、ジャーナリストとしてなかなかの才腕を発揮したはず。「賭博者」や「罪と罰」を書いているころ「これはおもしろい小説だから、必ず売れる」とムキになって出版社へ売り込んでいる。
まあ、賭博に熱中し、大負けして無一文になっていたのだから「おれにできるのはいい小説を書くことだけ」と思いつめたのもむりはない。生活がかかっていたのである。
本書もまず、小説である。小説家としてのずばぬけた才能が、大河のようにうねり、流れている。一章一章も、舞台劇を思わせるような効果を意識し、いたるところに「ヤマ場」を用意している。アリョーシャが語るゾシマ長老の一代記は、以前は退屈で仕方なかったが、今回のスローリーディングでは、傍線と「!マーク」と書き込みの洪水であった。ゾシマはなぜ、どんな経緯をへて「ゾシマ」となったかを、作家は全力をこめてトレースしていく。あまたのエピソードが考え出され、取捨選択されて、ストーリーのうねりの中にはめこまれる。それは巨大寺院を飾るタペストリーのようだし、何万ピースもあるジグソーパズルのようでもある。
わたしは何度となく迷子になりかけながら、大団円にたどりついた。
でもな~ 「カラマーゾフ万歳!」という結末は、娯楽映画のラストシーンめいていて、やや通俗的・・・。しかも、第2編を書くつもりでいたのだから、当然といえば当然ながら、未解決なエピソードが多すぎる。
こうして読み返し、いちばん瞠目したのは、小悪魔リーザの描き方であった。いまでこそこういったキャラクターはめずらしくはないかも知れぬが、当時としては、驚くべき独創的な脇役である。
リーザを主役に、たとえばサイコスリラーを書いてみたら、どうなるだろう。・・・そんな空想にとり憑かれたくらいである。
はじめて読む小説ではないから「あ~、リーザがやるぞ! そろそろ自分の指をドアにはさんで、血を流すぞ」そう思いながら読んでいて、そのシーンにさしかかると、やっぱり衝撃がやってくる
<小悪魔=心を手玉に取ることで,男性を魅了する女性>
辞書にはこんな説明がある。しかし、リーザは大胆な衣装や、思わせぶりや、かまととぶった奇矯な言動で男性を悩ますだけでなく、女性のなかに潜む邪悪な本能をたっぷり持った「小悪魔(しょうあくま)」である。
アリョーシャやイワン相手に、皮肉や逆説を弄し、スキャンダルをしかける、リーザのこのヒステリックなキャラを、ドストエフスキーはどこから掘り起こしてきたのだろう。
くり返すが、ドストエフスキーはあくまで小説家である。ドイツ観念哲学のように、抽象的な理念や概念をつかうのではなく、具体的な人間の行為やセリフ、舞台背景といったもののなかに「生きて呼吸し、ものを食べ、寝、異性や金を必要とする人間」を描き出す。いわば読者の眼に見えるようなかたちで、登場人物たちが動きださなければ、すぐれた作品とはならないのである。
19世紀ロシア。ゴーゴリやドストエフスキーやトルストイ、チェーホフなど、すぐれた小説家が輩出し、世界文学にひときわ大きく屹立する山脈を形成したが、今世紀において、いちばん論じられる機会が多く、広範な読者を獲得するにいたったのはドストエフスキーであった。
小林秀雄はドストエフスキー論を書くにあたって、とくにその論考の要となる「白痴について」を書くにあたって、ドストエフスキー全集の個人訳をはたした米川正夫に、手紙をだしたり、電話をかけたりして、質問を重ねている。
「ここはどういう意味だろう? ロシア語ではどういうのか。直訳か、それとも、日本人読者を意識した意訳なのか」
小林になぞらえるわけではないが、わたしもそういった悩ましい場面にしばしば出くわし、人の手をわずらわしたりした。だが、たとえば「罪と罰」などと比べて「心底わかった」というにはほど遠い、というのが正直ないまの感想。
しばらく間をおいて、また読み返すしかないようである。
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」下巻 原卓也訳 新潮文庫全3巻>☆☆☆☆☆
しかし、重く深刻に考えるばかりがいいわけではないだろう。ドストエフスキーは雑誌経営者でもあったから、ジャーナリストとしてなかなかの才腕を発揮したはず。「賭博者」や「罪と罰」を書いているころ「これはおもしろい小説だから、必ず売れる」とムキになって出版社へ売り込んでいる。
まあ、賭博に熱中し、大負けして無一文になっていたのだから「おれにできるのはいい小説を書くことだけ」と思いつめたのもむりはない。生活がかかっていたのである。
本書もまず、小説である。小説家としてのずばぬけた才能が、大河のようにうねり、流れている。一章一章も、舞台劇を思わせるような効果を意識し、いたるところに「ヤマ場」を用意している。アリョーシャが語るゾシマ長老の一代記は、以前は退屈で仕方なかったが、今回のスローリーディングでは、傍線と「!マーク」と書き込みの洪水であった。ゾシマはなぜ、どんな経緯をへて「ゾシマ」となったかを、作家は全力をこめてトレースしていく。あまたのエピソードが考え出され、取捨選択されて、ストーリーのうねりの中にはめこまれる。それは巨大寺院を飾るタペストリーのようだし、何万ピースもあるジグソーパズルのようでもある。
わたしは何度となく迷子になりかけながら、大団円にたどりついた。
でもな~ 「カラマーゾフ万歳!」という結末は、娯楽映画のラストシーンめいていて、やや通俗的・・・。しかも、第2編を書くつもりでいたのだから、当然といえば当然ながら、未解決なエピソードが多すぎる。
こうして読み返し、いちばん瞠目したのは、小悪魔リーザの描き方であった。いまでこそこういったキャラクターはめずらしくはないかも知れぬが、当時としては、驚くべき独創的な脇役である。
リーザを主役に、たとえばサイコスリラーを書いてみたら、どうなるだろう。・・・そんな空想にとり憑かれたくらいである。
はじめて読む小説ではないから「あ~、リーザがやるぞ! そろそろ自分の指をドアにはさんで、血を流すぞ」そう思いながら読んでいて、そのシーンにさしかかると、やっぱり衝撃がやってくる
<小悪魔=心を手玉に取ることで,男性を魅了する女性>
辞書にはこんな説明がある。しかし、リーザは大胆な衣装や、思わせぶりや、かまととぶった奇矯な言動で男性を悩ますだけでなく、女性のなかに潜む邪悪な本能をたっぷり持った「小悪魔(しょうあくま)」である。
アリョーシャやイワン相手に、皮肉や逆説を弄し、スキャンダルをしかける、リーザのこのヒステリックなキャラを、ドストエフスキーはどこから掘り起こしてきたのだろう。
くり返すが、ドストエフスキーはあくまで小説家である。ドイツ観念哲学のように、抽象的な理念や概念をつかうのではなく、具体的な人間の行為やセリフ、舞台背景といったもののなかに「生きて呼吸し、ものを食べ、寝、異性や金を必要とする人間」を描き出す。いわば読者の眼に見えるようなかたちで、登場人物たちが動きださなければ、すぐれた作品とはならないのである。
19世紀ロシア。ゴーゴリやドストエフスキーやトルストイ、チェーホフなど、すぐれた小説家が輩出し、世界文学にひときわ大きく屹立する山脈を形成したが、今世紀において、いちばん論じられる機会が多く、広範な読者を獲得するにいたったのはドストエフスキーであった。
小林秀雄はドストエフスキー論を書くにあたって、とくにその論考の要となる「白痴について」を書くにあたって、ドストエフスキー全集の個人訳をはたした米川正夫に、手紙をだしたり、電話をかけたりして、質問を重ねている。
「ここはどういう意味だろう? ロシア語ではどういうのか。直訳か、それとも、日本人読者を意識した意訳なのか」
小林になぞらえるわけではないが、わたしもそういった悩ましい場面にしばしば出くわし、人の手をわずらわしたりした。だが、たとえば「罪と罰」などと比べて「心底わかった」というにはほど遠い、というのが正直ないまの感想。
しばらく間をおいて、また読み返すしかないようである。
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」下巻 原卓也訳 新潮文庫全3巻>☆☆☆☆☆