二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

サンドイッチなネタ(猫のテンちゃん、シンフォニー、芭蕉)

2011年08月21日 | Blog & Photo


昨日も書いたように、この数日、一足飛びに秋がやってきたような天候がつづいていますねぇ。気温差が一日で12、3℃なんて、このあたりではもうたいして驚かない。
まるで9月の「長雨シーズン」到来のようなお天気で、雨がしとしと降っている。

さて、本日はどんなネタで振ろうかな。
・・・と考えてみたけれど、サンドイッチな三題噺でいくことにした(^_^)/~
ただし、「お題」はむろん三毛ネコ自身が振っている。

(1)テンちゃん初の一泊
7月はじめにわが家にもらわれてきた白の雄猫テンちゃん。
わが家とはいっても、本拠地は築40年をこえる母屋であ~る。彼のトイレ、餌場はこのあたりでは典型的な農家づくりの母屋、玄関土間に置いてある。
縁側もあるし、この家の「外と内」の境界はかなり曖昧。彼は好きなときに家の外に出、また家の内に入ってくることができる。
わたしはペットはあまり甘やかさない流儀。
しかし、昨夜は一晩中、雨がしとしと降っていて、外はどこもびしょ濡れだった。
“晩酌+夕食”は母屋ですませる。それが終わると、母屋から退出し、わたしはわたしの「わが家」へ引き揚げてきて、シャワーなどを浴び、音楽を聴いたり、本を読んだり、パソコンのまえに座ったりして、10時前後には寝てしまう。
このとき、テンちゃんのことなど、頭にはまったくない。
ところがパソコンを立ちあげなどして一階へ下りてきたら、外で「ニャー! ニャー!」と声がする。
「なんだ、また外へ飛び出していたのか。うん、いいよ。雨だから入れてやろう」
というわけでテンちゃんははじめて、ひとり暮らしの三毛ネコの家に一泊した。
ただし、寝室には入れない。以前一回、蒸し暑い夜に、エアコンのよく効いた寝室に入れて朝まで置いてやろうとしたら、いくら「ここだよ」と放り出して教えてやっても、ベッドにはい上がってくる。そればかりでなく、まるで人間の恋人みたいに甘える。体の上にのっかったり、鼻の頭をあのざらざらした舌で舐めたり、わたしの腕枕で寝ようとする(?_?)
「おいおい、おまえ、雄猫だろう。おまえはおれの恋人じゃねえぞ」
わたしは二段重ねの大きな柔らか枕で寝ているのだが、やがて、その脇にぴったりはりついて、もぞもぞし、髪の毛を噛んだりしはじめた。
やむをえず「バカ!」といって、外へ放り出した。ノミ取り粉を定期的にかけているけれど、まだノミをしょっている。ベッドがノミの巣窟になったら、たまらない。

夕べは寝室には入れなかった。
どこもかしこも空き部屋(二階には四部屋)だから、好きなところで寝られる。夜中いっぺんトイレにいったとき、ニャー! という声が聞こえたが・・・。
朝になってみると、二階ホールの椅子で気持ちよさげに寝そべっていて、また「ニャー!」である。これを人間語に翻訳すると、
「おはよう! 朝寝坊さん」になるだろう(笑)。
それから母屋へつれていって、朝食の缶詰をたっぷりとあてがってやった。


(2)第五番のシンフォニー
「五番」というと、初心者は必ず、ベートーヴェンですか? と訊く。
ところが、今日、会社にもってきてあるのは、ブルックナーとマーラーの五番。
マーラーのほうは、ウィーンフィルをバーンスタインが振った名盤で、もういくらか飽きてしまっている。
ところが、もう一枚は、BOOK OFFで見かけ、なにげなくかってきた輸入盤である。
演奏:Royal Scottish National Orchestra 
指揮:Georg Tintner
ブルックナーの五番はもう一枚ある。
かのクナッパーツブッショがウィーンフィルと入れたものがそれ。
ところがこれは、悪名高い「改訂版」。
ティントナーもロイヤル・スコティシュ・オーケストラもこれまでほとんど聴いていないけれど、これが拾いものだった(^_^)v 演奏時間76:46。聴く側の緊迫感をとぎらせることなく、最後まで引っ張っていってくれる。もう7、8回は聴いているけれど、三毛ネコ的には飽きのこない、すぐれた演奏だと思っている。

――そうそう、五番というと、やっぱりシュスタコービッチも忘れることができない。だれの棒で聴いても、曲想の充実度、訴求力、ポピュラリティー、振幅の大きいドラマチックな構成の妙は、ほれぼれするほどのものがあるよね。


(3)いいおおせて何かある
芭蕉には、そこだけ抜き出してひとり歩きしている名言といえることばがかなりある。
タイトルにした
「いいおおせて何かある」
もそのひとつで、「去来抄」に見える一節らしい(「去来抄」は読んでいないので、孫引き)。

もう少し長く引用すると、こうなる。
 《去来曰く「いと桜の十分に咲きたる形容、よくいひおほせたるに侍らずや」。
 先師曰く「いひおほせて何かある」。
 ここにおいて肝に銘ずる事あり。初めて発句に成るべき事と、成るまじき事を知れり。》

これは単に「余情を大切にしなさい」という教えではない。
芭蕉はべつなところで、こうもいっている。
「五六分の句はいつまでも聞きあかず」
短歌(和歌)と俳諧(俳句)の大きな差異は、こういうところにある。連句、あるいは歌仙のおもしろさは無類で、世界的にもちょっと比類のない、ユニークな詩歌のありようではあるまいか。「五六分の句」が、付合いを呼び込み、遊戯性や、季節の挨拶や、諧謔や、文人趣味や、伝統的な美意識とむすびついて「座の文学」へと展開されていくからである。
わたしは日本では少数派である「笑いの文学」に関心がある。あ、川柳もそうだけれど。

芭蕉さんには、ほかにもこんな「名言」がある。
《春雨の柳は全躰(たい)連歌なり。田にし取る烏は全く俳諧也》
《東海道の一筋も知らぬ人、風雅に覚束なし》
《高くこころを悟りて俗に帰るべし》
《松の事ハ松に習へ、竹の事ハ竹に習へ》
《物に入りてその微の顕はれて情感ずるや句と成ル所也》
《文台引きおろせば即ち反故(ほうご)なり》

これすべて俳論であり、詩論である。あるいは、そこからずいぶんといろいろな教訓、世界観、人生観を引き出すことができる。

しかし、いまさら「俳聖芭蕉」として神棚に祭り上げても仕方ないだろうという思いが強い。わたしが気になるのは、母国語の薄闇の底で、輝きを失ってはいないことばと、どうしたら「よき出会い」が可能かということにほぼつきる。
漫然と読み過ごせば、素人の場合、字義の解釈、あるいは「現代語訳」だけで、古典の鑑賞は終わってしまうだろう。三百年も昔の詩歌が、いまの日本に生きるわれわれに、なんの関係やある・・・と。
ところが、詩を書きながら、わたしの母国語である日本語(国語)とつきあってみると、これが一筋縄ではいかないことに、気づかざるをえないのである。

あと一歩さきへ。・・・さらに、そのさきへ。
ある種のインスピレーションとしてわたしの脳裏にやどることばは、いったいどこからやってくるのか? 詩を書いているわたしは、まるで夜空に突如としてあらわれる彗星のような、キラキラと輝くことばの豊かな土壌というか、その隠れ家を、非力なりに少しずつ明らかにしてゆきたいのであ~る(^^;)



左:「芭蕉 その詞と心の文学」安東次男著(筑摩書房)
 二十代の終わりころに読んではいるけれど、あのころの日本語力(国語力)では、ほとんど歯がたたなかった、戦後詩人の芭蕉論。若造のわたしの人生経験不足もむろんある(^^;) 出版当時、諸家の評価がきわめて高かった。

右:「芭蕉 “かるみ”の境地へ」田中善信著(中公新書)
最新の芭蕉研究を十分に踏まえた田中さんの労作で、驚くべき推論を大胆に展開している。芭蕉の評伝としては出色の一書だとおもわれる。芭蕉または俳諧・俳句に関心がある方へ、おすすめ度120%!! 講談社学術文庫には「芭蕉 二つの顔」がある。



※トップの写真は、日記本文とは補完的な関係はありません。

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