二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

一枚の写真、その奥深さを考える ~マイミクtakkさんのコメントに感動

2017年07月05日 | Blog & Photo
(これは同じ日の道路工事現場。遠くに黒い高層建築が見えるが、これは地元の某短大)




この写真をmixiのつぶやきにUPしたところ、
マイミクのtakkさんから、つぎのような鋭い、理知的なコメントが寄せられた。

《この写真には心惹かれるものがあります。 「土手」の向こうの建物があるから「絵」になっているのですね。 アメリカの画家、エドワード・ホッパーの作品によく似たものがあったことを思い出しました。 それから手前のゲートですが、無用の長物のように見えますよね。なのに存在感がある。》

《崩れゆくものを静かに守っているような、そんな気がします。 青い空、少しだけ緑の生命感、対して動く事のない堅牢な建物と強い風雨が吹き荒れたら流れてしまうようにも思える「土手」、その前ゲートは鮮やかな色だけに、なんだかピエロのような役回りを演じているような。 そういう要素で構成されている世界なんですね。》

《写真というものは、どんな対象を撮ったものであっても、撮影者の「自画像」である。誰かがそんなことを書いていたように思いますが、まったくその通りだと思います。》

う~~ん、凄い!
いま読んでも感動する。
褒められて舞い上がっているのではなく、一枚のソシアルランドスケープを、こういうふうにことばを使って“読める”“語れる”ことに、あらためて驚いたのだ。



さきに挙げたものは、PEN-Fの試写のときなので、ズイコー17ミリF2.8のパースペクティヴ、一方こちらは、同じ時刻にフィルムのニコンNewFM2&ニッコール45ミリF2.8Pで撮影した画像。ネガはフジの記録用フィルム。

どちらも単焦点レンズなので、レンズの選択がいかに大事かということを考えさせる。「何が写っているか」となると、同じもの・・・ということになる。
だけど、この遠近法の違いが、「風景の見方」を決定づけている、とおもう。わたし自身、この場合は17ミリ(換算34ミリ)の写真に軍配をあげる。

荒木経惟さんが、写真とは50ミリレンズで撮ったもののこと・・・といっている(「私情写真論」月曜社刊)。
荒木さんはいろいろなカメラ、レンズを、洋服のように着替えながら使ってきた人だけれど、わたしが覚えているのは、ライカM6&ズミクロン35ミリ、ペンタックス67&ペンタックス105ミリあたり。

荒木さんもズームレンズを使用したことがあるはずだけど、わたしの記憶には残っていない。
28ミリ好きという方々も多くいらっしゃるだろうが、わたしは35ミリから50ミリあたりの画角と遠近感に対するこだわりが強い。そのことは、これまで何度も書いたが・・・。

takkさんのことばを読み返しながら、いろいろな連想が動き出す。
単純な構図、単純な被写体を「これです」と差し出されると、それがことばを誘発する・・・ような気がする。
だからtakkさんは「深読み」しているのではなく、ことばと写真がシンクロする、そういう領域に触手をのばしているのである。

takkさんは、このあと、さらにコメントを書いて下さった。
その中に《いい写真だと、物語を創ることができるのです。それも何通りものね。》ということばがある。ここまでいくと、おそらく写真論の領域に踏み込む。
以前から彼の実力にはなみなみならないものがあるとわかっていた。
これがある意味、わたし自身の自画像であることは、出会った瞬間から直観していた。だから、ここに立ったとき、いわくいい難い感動がこみあげてきたのだ。
その感動の内容を、ことばにして「こういうことなのではありませんか」と発信して下さったのが、takkさんであった。

わたしはいささか狼狽しながら、takkさんのことばに感動し、「そうかな、そうだ。そうかなあ・・・そうだなあ」と、そんな自問自答にしばしふけってしまった(^^)/



※無断で引用しましたが、ご容赦を、takkさん♪

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