こういう本を正しく評価するのは、ほんとうにむずかしい。
遠藤さんは旧民社党の月刊誌の編集部長などを歴任後、現在大学の日本文化研究所で教授をしたり、「新しい歴史教科書をつくる会」の副会長をつとめているという。
だから、いい意味でも、悪い意味でも、まさに「論」となっている。
読んでいると、いささか頭が痛くなる。
音楽そのものは、われわれをこの世ならぬ世界へと飛翔させてくれるが、指揮者も楽団員も、まさに浮き世の人間。社会的であることはもちろん、ときに生臭い政治的な取引の影を背負うことがある。
本書のカバーには、内容紹介がこう書かれている。
『日本人指揮者である小沢征爾が、ウィーン国立歌劇場の総監督に迎えられたのは、画期的な出来事だった。それは、オペラの総本山が真の国際化に乗り出したということであり、また日本の異文化受容の到達点を示してもいる。日本のオザワが奏でるモーツァルトは、伝統的な解釈から解放されているのが魅力なのだ。モーツァルト、ベートーヴェン、チャイコフスキー、ショスタコーヴィッチ、などの演奏解釈を通して、さらに菊池寛、小林秀雄、三島由紀夫などの言葉を通して、小沢征爾が目指す音楽の本質を明らかにする』
グローバル化と、ナショナルズムの相克はいまにはじまったことではあるまい。
明治末期の「開国」以来、外国文化の波頭は、たえまなくわれわれの身辺を洗っている。音楽も広い意味での文化であるから、ここでかわされる議論は、音楽にかぎらず、いろいろなジャンルで行われているにちがいない。
ドイツ音楽は、ドイツ人が生み出した、世界文化の至宝である。ドイツにいったことがない、生活したことがない人に、バッハやベートーヴェンが、真に理解できるわけがない・・・というのが、ナショナリストの言い分である。
わたしは、数年前、アメリカ生まれの若い黒人歌手が、日本の演歌を歌う姿を見て、ひどく違和感を覚えたものだ。祖母が日本人だということだけれど、姿形は、あきらかに、アフリカ系アメリカ人。
「こういう人に、日本の演歌の魂がわかるのかな?」
小沢さんの場合も、同じだろう。あんなアジアの辺境人が指揮する音楽は、
本来のモーツァルト、本来のベートーヴェンではない・・・という議論があっても、少しもおかしくない。
しかし、わたしはいま、その問題に、あまり深入りしたくはないのである。
議論したり、反省したりしても、半年や1年で、結論など出ないのは明らかだろう。
日本語など廃止して、すべて英語にしてしまえ、といった極端な論もあるし、日本や日本人は、どう逆立ちしたって、所詮は東洋人だし、日本人なのだから、その伝統を大切にし、安易に海外文化にかぶれるのではない、という論もある。
和魂洋才という便利なことばがある。
しかし、これをいい出した明治の日本人は、彼我のあいだに横たわる、大きな落差に、当然気がついていたのである。
クラシックは「普遍的な」という意味合いをもつ。
むろん、一筋縄ではいかないけれど、文学に較べたら、どちらかといえば、数学的な法則性をもっているのが、クラシック音楽だし、それを隔てる垣根は、はるかに低いものがある。本書でも取り上げているけれど、ドイツ人フルトヴェングラーとイタリア人トスカニーニの音楽は、わたしのようなずぶの素人が聴いても、ずいぶん違っている。
しかし、そのどちらもが、ベートーヴェンであり、ブラームスである。
それだけの解釈の幅をもたせても、ビクともしないところが、こういった西洋のクラシック音楽の本質をささえている。
クラシック音楽は、最初「西洋文化」の受容としてスタートした。
それが百数十年をへて、成熟の果実を、わずかだがむすびはじめたのである。その果実が、武満徹の音楽であり、小沢征爾の指揮なのである。そういってしまっては、楽観的すぎるのだろうか?
小沢を認める批評家がいたり「あんなものは二流だ」という人もいる。
だが、逆説的にみれば、小沢のウィーン国立歌劇場の総監督就任は、クラシック音楽が、ついに、日本人をそのふところに取り込んだ、象徴的な出来事だともいえる。考えすぎてはいけないのだろう。
耳をすませ。音楽に対して、――心をすませ。
とりあえず、そういっておこう。
評価:★★★☆(3.5)
遠藤さんは旧民社党の月刊誌の編集部長などを歴任後、現在大学の日本文化研究所で教授をしたり、「新しい歴史教科書をつくる会」の副会長をつとめているという。
だから、いい意味でも、悪い意味でも、まさに「論」となっている。
読んでいると、いささか頭が痛くなる。
音楽そのものは、われわれをこの世ならぬ世界へと飛翔させてくれるが、指揮者も楽団員も、まさに浮き世の人間。社会的であることはもちろん、ときに生臭い政治的な取引の影を背負うことがある。
本書のカバーには、内容紹介がこう書かれている。
『日本人指揮者である小沢征爾が、ウィーン国立歌劇場の総監督に迎えられたのは、画期的な出来事だった。それは、オペラの総本山が真の国際化に乗り出したということであり、また日本の異文化受容の到達点を示してもいる。日本のオザワが奏でるモーツァルトは、伝統的な解釈から解放されているのが魅力なのだ。モーツァルト、ベートーヴェン、チャイコフスキー、ショスタコーヴィッチ、などの演奏解釈を通して、さらに菊池寛、小林秀雄、三島由紀夫などの言葉を通して、小沢征爾が目指す音楽の本質を明らかにする』
グローバル化と、ナショナルズムの相克はいまにはじまったことではあるまい。
明治末期の「開国」以来、外国文化の波頭は、たえまなくわれわれの身辺を洗っている。音楽も広い意味での文化であるから、ここでかわされる議論は、音楽にかぎらず、いろいろなジャンルで行われているにちがいない。
ドイツ音楽は、ドイツ人が生み出した、世界文化の至宝である。ドイツにいったことがない、生活したことがない人に、バッハやベートーヴェンが、真に理解できるわけがない・・・というのが、ナショナリストの言い分である。
わたしは、数年前、アメリカ生まれの若い黒人歌手が、日本の演歌を歌う姿を見て、ひどく違和感を覚えたものだ。祖母が日本人だということだけれど、姿形は、あきらかに、アフリカ系アメリカ人。
「こういう人に、日本の演歌の魂がわかるのかな?」
小沢さんの場合も、同じだろう。あんなアジアの辺境人が指揮する音楽は、
本来のモーツァルト、本来のベートーヴェンではない・・・という議論があっても、少しもおかしくない。
しかし、わたしはいま、その問題に、あまり深入りしたくはないのである。
議論したり、反省したりしても、半年や1年で、結論など出ないのは明らかだろう。
日本語など廃止して、すべて英語にしてしまえ、といった極端な論もあるし、日本や日本人は、どう逆立ちしたって、所詮は東洋人だし、日本人なのだから、その伝統を大切にし、安易に海外文化にかぶれるのではない、という論もある。
和魂洋才という便利なことばがある。
しかし、これをいい出した明治の日本人は、彼我のあいだに横たわる、大きな落差に、当然気がついていたのである。
クラシックは「普遍的な」という意味合いをもつ。
むろん、一筋縄ではいかないけれど、文学に較べたら、どちらかといえば、数学的な法則性をもっているのが、クラシック音楽だし、それを隔てる垣根は、はるかに低いものがある。本書でも取り上げているけれど、ドイツ人フルトヴェングラーとイタリア人トスカニーニの音楽は、わたしのようなずぶの素人が聴いても、ずいぶん違っている。
しかし、そのどちらもが、ベートーヴェンであり、ブラームスである。
それだけの解釈の幅をもたせても、ビクともしないところが、こういった西洋のクラシック音楽の本質をささえている。
クラシック音楽は、最初「西洋文化」の受容としてスタートした。
それが百数十年をへて、成熟の果実を、わずかだがむすびはじめたのである。その果実が、武満徹の音楽であり、小沢征爾の指揮なのである。そういってしまっては、楽観的すぎるのだろうか?
小沢を認める批評家がいたり「あんなものは二流だ」という人もいる。
だが、逆説的にみれば、小沢のウィーン国立歌劇場の総監督就任は、クラシック音楽が、ついに、日本人をそのふところに取り込んだ、象徴的な出来事だともいえる。考えすぎてはいけないのだろう。
耳をすませ。音楽に対して、――心をすませ。
とりあえず、そういっておこう。
評価:★★★☆(3.5)