このあいだ、臨時収入があったので、
懸案だったミニ・コンをヤマダ電機で買ってきた。
なにしろ、古いコンポが壊れてからは、CDラジカセのお世話になっていたという体たらく(=_=)
ピアノやヴァイオリンのソロはともかく、
大編成のオーケーストラが奏でる音楽の再現性はかなりプアなものであった。
むろん、パソコンの音源よりははるかにマシなのだが・・・。
ここ数日、自宅にあったスピーカーを2台くわえて、4台のスピーカー体制を作り上げ、
シンフォニーを聴きはじめた。
これで最初に聴いたのは、ジョージ・セル&クリーブランド管弦楽団による、シューベルト「交響曲第8(9)番 “ザ・グレイト”」。
数日まえにも、この曲に耳をかたむけながら、夢見心地の1時間をすごしたばかりだ。
シューベルトは、この曲を書き上げてから、8ヶ月後に死んでいる。
演奏を拒否されてしまったので、自身でこの交響曲を、じっさいに耳にすることはなかったのだ。10年後にシューマンが発見しなければ、永遠に世にあらわれることはなかったかも知れない。
天上的とでもいうしかないような、すばらしい楽曲。
天使の魂のようなものが、空の高みから地上に舞い降りて、
優雅に舞ったり、水辺の散策を楽しんだり、生まれたばかりの赤ん坊になにごとかささやいたりしている。
「ああ! だれかといっしょに、ハングライダーのようなもので、ある美しい風景のなかを、ゆっくりと低空飛行しているようだな」
わたしはそうして、感嘆の声を上げそうになる。
「おお、すごい。ひりひりと、サウンドが傷口にしみてくる」
「第2楽章のたとえようのない美しさ。あきらめに浸されてはいるけれど、なんという甘美な旋律群。うすものをまとった、天女の舞い。おれをどこへつれていこうというのだ?」
「あの世のシューベルトの魂が、この部屋のなかに降りてきている。ほら。目には見えないけど、そこにいる」
「苦しみや悩みは、死の浄化作用をうけて、鉱物質のキラキラした破片に分解し、
雨上がりの光のシャワーのように、天空から降り注いでくる。ここまでくると、悲しみは、喜びと区別がつかない」
どんなことばを借りようと、楽曲の魅力には追いつけない。
「さすらい人幻想曲」を聴いているときにも、
わたしはこんな心のふるえを覚えたものだ。
管楽器のすばらしさ・・・とくに、オーボエの奏でる、はずむような明るさの陰にひそむ哀愁! ホルンと弦の対話から生み出される苦と楽の変幻。
陶然となりながら、時間はどんどんすぎていく。
この音楽のなかに、いつまでも浸っていたい――と想わせるすばらしさが、たっぷりとつまっている。
ベートーヴェン以降では、この楽曲に匹敵する音楽を書いたのは、ブラームスただひとり。
・・・という思いもあるのだが、じつは交響曲の名作は、まだまだあるようだ。
たとえば、わたしがこれまで理解しえた範囲では、ブルックナーの8番。
ショスタコーヴィッチの5番。
そしていまチャレンジしているのは、つぎの2曲。
■ブルックナー「交響曲第9番ニ短調」
指揮:ニコラス・アーノンクール 演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(演奏時間約58分)
■グスタフ・マーラー「交響曲第9番」
指揮:小沢征爾 演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ
(演奏時間約80分)
図書館で借りてきて、二度聴いたが、まだ釈然としない。
この二人は、20世紀の後半になって、しだいに高い評価をかちえた作曲家。
この2曲は、初心者にはとらえどころがないほど広大無辺で、妥協がなく、古典的な意味でのシンフォニーの概念をぶち壊さないと、わたしにはとても近づきようのない世界。
それをこらえがら、何度も聴く。退屈し、眠ってしまっても、ブルックナーやマーラーは鳴っている。「おやおや、40分も眠ってしまったわい。またあとで聴きなおそう・・・」
ってな感じのくり返し(=_=)
とっつきにくく、はじめはわからなくても、しつこく、くり返し聴いているうちに、
「豁然大悟」ではないけれど、突如として目の前が開けたりするのだから。
懸案だったミニ・コンをヤマダ電機で買ってきた。
なにしろ、古いコンポが壊れてからは、CDラジカセのお世話になっていたという体たらく(=_=)
ピアノやヴァイオリンのソロはともかく、
大編成のオーケーストラが奏でる音楽の再現性はかなりプアなものであった。
むろん、パソコンの音源よりははるかにマシなのだが・・・。
ここ数日、自宅にあったスピーカーを2台くわえて、4台のスピーカー体制を作り上げ、
シンフォニーを聴きはじめた。
これで最初に聴いたのは、ジョージ・セル&クリーブランド管弦楽団による、シューベルト「交響曲第8(9)番 “ザ・グレイト”」。
数日まえにも、この曲に耳をかたむけながら、夢見心地の1時間をすごしたばかりだ。
シューベルトは、この曲を書き上げてから、8ヶ月後に死んでいる。
演奏を拒否されてしまったので、自身でこの交響曲を、じっさいに耳にすることはなかったのだ。10年後にシューマンが発見しなければ、永遠に世にあらわれることはなかったかも知れない。
天上的とでもいうしかないような、すばらしい楽曲。
天使の魂のようなものが、空の高みから地上に舞い降りて、
優雅に舞ったり、水辺の散策を楽しんだり、生まれたばかりの赤ん坊になにごとかささやいたりしている。
「ああ! だれかといっしょに、ハングライダーのようなもので、ある美しい風景のなかを、ゆっくりと低空飛行しているようだな」
わたしはそうして、感嘆の声を上げそうになる。
「おお、すごい。ひりひりと、サウンドが傷口にしみてくる」
「第2楽章のたとえようのない美しさ。あきらめに浸されてはいるけれど、なんという甘美な旋律群。うすものをまとった、天女の舞い。おれをどこへつれていこうというのだ?」
「あの世のシューベルトの魂が、この部屋のなかに降りてきている。ほら。目には見えないけど、そこにいる」
「苦しみや悩みは、死の浄化作用をうけて、鉱物質のキラキラした破片に分解し、
雨上がりの光のシャワーのように、天空から降り注いでくる。ここまでくると、悲しみは、喜びと区別がつかない」
どんなことばを借りようと、楽曲の魅力には追いつけない。
「さすらい人幻想曲」を聴いているときにも、
わたしはこんな心のふるえを覚えたものだ。
管楽器のすばらしさ・・・とくに、オーボエの奏でる、はずむような明るさの陰にひそむ哀愁! ホルンと弦の対話から生み出される苦と楽の変幻。
陶然となりながら、時間はどんどんすぎていく。
この音楽のなかに、いつまでも浸っていたい――と想わせるすばらしさが、たっぷりとつまっている。
ベートーヴェン以降では、この楽曲に匹敵する音楽を書いたのは、ブラームスただひとり。
・・・という思いもあるのだが、じつは交響曲の名作は、まだまだあるようだ。
たとえば、わたしがこれまで理解しえた範囲では、ブルックナーの8番。
ショスタコーヴィッチの5番。
そしていまチャレンジしているのは、つぎの2曲。
■ブルックナー「交響曲第9番ニ短調」
指揮:ニコラス・アーノンクール 演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
(演奏時間約58分)
■グスタフ・マーラー「交響曲第9番」
指揮:小沢征爾 演奏:サイトウ・キネン・オーケストラ
(演奏時間約80分)
図書館で借りてきて、二度聴いたが、まだ釈然としない。
この二人は、20世紀の後半になって、しだいに高い評価をかちえた作曲家。
この2曲は、初心者にはとらえどころがないほど広大無辺で、妥協がなく、古典的な意味でのシンフォニーの概念をぶち壊さないと、わたしにはとても近づきようのない世界。
それをこらえがら、何度も聴く。退屈し、眠ってしまっても、ブルックナーやマーラーは鳴っている。「おやおや、40分も眠ってしまったわい。またあとで聴きなおそう・・・」
ってな感じのくり返し(=_=)
とっつきにくく、はじめはわからなくても、しつこく、くり返し聴いているうちに、
「豁然大悟」ではないけれど、突如として目の前が開けたりするのだから。