ある日ひとりの男が洗面所の鏡をのぞきこむ。
そして自分の顔が半分消えかかっていることに気づくのだ。
「おれには元々 ちゃんとした顔があったのに」
失われた顔のことを 鮮明には思い出せない不安が
彼の表情をさらにくもらせる。
ある日ひとりの女がホテルの姿見をのぞきこむ。
そして自分の体が半分欠けていることに気づくのだ。
「あたしには親からもらった体が 自慢の体があったのに」
どこへ落としたんだろうか?
フェンスにぶつかったとき くだけ散ったのか
・・・または獣に食いちぎられてしまったのか?
彼女は思い出すことができない。
顔が消えかけた男と
体の一部が欠けた女が住んでいる町を
カメラを手にして 疲れはてた旅人のように通りすぎる。
それもまた ささやかなよろこびなのである。
ぼくにとっては あるいはぼくの親しい友人にとっては。
農業に従事する人口が激減したので
そこいらいちめん 錆びついた農機具が散乱している。
町の半分はつねに昼であり
残りの半分は夜であるようなルネ・マグリットの絵のほとりで
ぼくはその男 その女とそれぞれ出会って
数分間立ち話をしてから握手をかわし 別れたことがあった。
ぼくはその二人を百年も前からさがしていたのだ。
祖父かもしれぬし 大叔母かもしれぬ。
なんの因果か その町の住人すべてはぼくと血のつながりがあるのだ。
チベットの奥地だとか 南米アンデスのような僻地ではない。
このあいだも通りかかったすぐ「そこ」にある町であるが
その町は名をもたないので
あるいはあまりに多くの名があるので その所在が正確にはわからないのだ。
だから幻の町と呼んでいる。
古びた書物のようなところで
ぼくは大勢の人びとを殺し
また何回となく殺害されては生き返った。
その全貌がつかめないほど巨大な図書館(・・・それに本屋)があり
住人の大半は書物の中に住んでいる。
あるいは亭々とそびえるケヤキやクスの木の上に。
「あのう 猫町はこのあたりでしょうか?」と道をたずねられた。
「地図をお買いになったらいかがです」
「買ったのですが 開いたら真っ白なので」
「ああそうだ。ここでは地図は自分で作成することが当然視されています」
「あなたはご自分の地図をもっているんですか」
「そうです だけど他人には見えないインクで書いてある」
初老の夫婦なのか 大きな買い物袋をさげた二人連れは途方に暮れている。
図書館長はこのあいだまではボルヘスという盲目の詩人であったようだが
遇ったことがないのでぼくにはよくはわからない。
分厚い本を手にしてはげしく上下に振ってみると
真っ赤な口紅をつけた女性刑事や 虚ろな眼をした歯のないじいさんが
パラパラと埃のように落ちてきたりする。
長いあいだ茫然としてネヴァ川のほとりにたたずんでいた「罪と罰」に描かれた男も。
図書館の近くのタバコ屋では「カフカ的ホワイトエッグ」とネーミングされた
溶けない奇妙なアイスを売っているが 人気があっていつも売り切れ。
先日も通りかかった すぐ「そこ」にある町であるが
その町はおよそ名をもたないので
あるいはあまりに多くの名があるので 町の所在が正確にはわからないのだ。
むろん 地図もない。
だれにでも通用する地図をつくろうとくわだてた人びとは皆死んでしまった。
「セルバンテスの時計」はまだ時を刻んでいる。
袋小路から引き返し みるみる若がえっていく人がいるかとおもうと
数時間で数十年を生き終えてしまう人も。
そんな町に入っていき
そんな町から出ていく。
時空は穴だらけなので 空気はつねにすがすがしい。
・・・ところが不思議なことに
そこではいくらシャッターを押してもなにも写らないのである。
「おやおや これはいったいどうしたのだろう」
その町ではぼくも友人も そういっては
頭をかかえてしばしばおたがいのかたわらでうずくまり
たとえば 財布の中身を点検しながら
夏雲の浮かぶスミレいろの空を見あげることができるだけなのである。
※いつものように、詩と写真は直接のつながりはありません。ただし、相互補完的に解釈するのは読者の方々の自由におまかせいたします。