このあいだBOOK OFFで金子みすゞの詩集(ハルキ文庫)を見かけ、ほかの本数冊とともに買ってきて、パラパラと拾い読みしたので、その感想を少しだけ書いておこう。
わたしは明らかに金子みすゞの詩を読みまちがえていた・・・ということが、わかったのである。
彼女の生涯を参照するのなら、こちらのサイトがいいだろう。
◆ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E3%81%BF%E3%81%99%E3%82%9E
わたしが彼女の作品をはじめて眼にとめたのは、90年代の終わりころであったろうか。
児童文学者矢崎節夫らによってうもれていたこの詩人が発見されてから、ずいぶん後のこと。「わたしと小鳥とすずと」や「大漁」など、いまではよく知られた作品とはじめて出会ったときは、たいして心を動かされるようなものではなかったと記憶している。
それは詩の表面だけを、書かれたことばに即してごく単純に聞いたか、読んだかしたにとどまていたからである。
この文庫本を手に入れていくつもの作品を読んでみると、彼女の詩が、自然発生的なものではなく、たいへん方法的なものであったことがわかってきた。その方法とは、当時かなり広範に読まれていたらしい童話雑誌や、海外のメルヘンなどを耽読することによって得られたものである。かつて、北原白秋、西條八十、野口雨情らがさかんに童謡詩を書いていた時代があった。みすゞはそういった雑誌へ作品を投稿することによって、頭角をあらわしていく。
西條八十に対するあこがれに、彼女の置かれた「現実」からの脱出願望がひそんでいたことを読みとることは容易であろう。
彼女は「火宅」に身を置きながら、これらの詩を方法的に書いていったのである。
七五調の作品も少なくない。表現は子どもっぽく、単純で、ごく短い詩ばかりである。しかし、ユニークないいまわし(修辞法)にあふれ、鋭利な感受性がきらめき、読みすすむににしたがって、たしかな味わいをもったみすゞワールドとでもいうべき小宇宙にひきこまれていく。
ざっと眼をとおした印象では、すぐれた作品は十編、あるいは十数編といったところか。
念のため、代表作を二編だけ引用しておく。
<大漁>
朝焼け小焼だ
大漁だ
大羽鰮(いわし)の
大漁だ。
浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう
<私と小鳥と鈴と>
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のやうに、
地面(じべた)を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに、
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
この人も、おそらく日本人が好む典型的な「夭折詩人」の系譜に属している。
毒物を仰いで自殺したとき、26歳(^^;)
彼女がその実生活において、これほど純粋というか、素朴というか、そういう人物であったはずはないが、いわば「天性の童謡詩人」としての資質にめぐまれていたことは疑いないだろう。
彼女の全集に眼をとおしてみないと断定はできないけれど、実際の生活の上で、きびしい軋轢をこうむり、miserableな状況が深まればふかまるほど、その詩精神は研ぎすまされていったのではないか?
時代に即した童謡的な表出を通して、素朴で単純なものがもっている力強さに、自分のくじけそうになる心を、圧縮し、転換し、仮託していくのが、ごく単純な意味でのみすゞの方法論であったようにみえる。
こういう資質をもった女性を、不幸な結婚生活が追いつめていく。そのことを透かし見ながら読んでいくと、また違ったフレーバーな風味があるようにわたしにはおもえる。表現の達成レベルは決して高いとはいえないが、そのあたりが、多くの人に愛されるようになった理由だろう。
しかし、「智恵子抄」を読みながら、狂った智恵子を看取りつつ、その「関係」を聖化し美化せずにはいられなかった光太郎の生のありようが、ある戦慄とともに浮かび上がってくるのとパラレルな構造が、みすゞの世界にも存在していることを読み逃していけない。
人とその作品は、そのままイコールではむすびつかず、さまざまな意味でねじれ、絡み合って成立する場合が多い。それをていねいに解きほぐし、真の金子みすゞ像をさぐっていくのは、愛読者というより、むしろ批評家の仕事であろうか。
2011年5月には、金子みすゞ記念館の入場者が100万人を突破したそうである。
※もう少し詳しくお知りになりたい方はこちらをどうぞ。
http://www.owari.ne.jp/~fukuzawa/misuzu0,.htm