二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

街角ウォッチング

2011年02月04日 | Blog & Photo
視神経が敏感になっているときの街歩きほどおもしろいものはない・・・などと思いながら、2010年10月から、けっこう熱心に街撮りをやっている。
そこは、自然の景物とは違った「モノ」たちの集積地。街の中心街ほど、その集積度が高くなり、気が許せない。
とくに、都市はどこも人間と「モノ」の一大集積地であり、世界的な観光都市だとか、わが国の函館、鎌倉、倉敷などという有名なトポスである必要はない。そう考えながら歩いている。

日本はアジアの一隅なので、昔からの街角は無秩序である場合が多くて、リアルなのに、とてもシュールであったりする。
たとえば、観察の対象として十分なディテールをそなえているこんな建物の外観。



3階部分はずいぶんあとになって増築されたもの。
看板やプラスチックの函や植物は、とてもあいまいなバランスの上に、オブジェのように配置されている。
この建物をその場で眺め、1週間後に絵を描いてみなさい・・・といったら、ちゃんと記憶にとどめている人が、何パーセントいるだろう?

あるいは、これ。



赤と青の絶妙なコラボレーションではないか・・・と、わたしには見える。
混沌のなかの秩序、秩序のなかの混沌。
街のなかにあるものは、ほとんどすべて「人間の手をへた」「意味のある」ものばかり。
しかし、その意味は、半分は溶けたり、壊れかけていたり、はじめの意味が変質したりしている。つくり出された「モノ」は、われわれ人間と同じように、時間のなかを旅している。

あるいは、こういういい方ができるだろう。
街角は、ピースの足りないジグソーパズルだ、と。
つまり観察者の想像力がはたらく余地があるということだ。
「見る」ということは、その人の意識のなかでおこなわれる。
だから同じようにその場を見ても、感じ方は人それぞれ。
なにを見て、どう撮影するのかは、フォトグラファーの存在と密接に関係している。
また写真は、撮影だけでは、その行為は完了しないのだ。
撮った写真をあとで自身が見たり、人に見てもらったり。
・・・そうして、写真は撮った人の手から、それを見た人の手へとわたされていく。
そこでさらに、少し意味を変え、音色や翳りを身にまとう。

視神経が敏感になっていると、1キロ歩くか歩かないで、200カットもの写真を撮ったりする。そうして、「あとでもう一度見たい」と感じられたものをアルバムに残していく。
それに対し、マイミクさんが、イイネ! マークをつけてくれたり、コメントして下さったりする。それは静かな水面に投げ込まれた一個の石が、幾重もの波紋を描いて拡がっていくのに似ている。
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