
以前も似たようなことを書いた記憶があるが、表現をかえて、もういっぺん書いておこう。
「偶然性、偶有性を味方につけたとき、俄然写真がおもしろくなる」
すでにどなたかがいっているだろうが、スナップの醍醐味は、偶然性、偶有性に対し、フレキシブルに、瞬時にふるまえたかどうかにある。
アンリ・カルティエ=ブレッソンの昔から、ライカという小型カメラは、広大な風景や、小さな美しい花を撮るために発明されたわけではない。
鷹の眼をもったブレッソンが、それまで人びとが気がつかなかった偶然性、偶有性を味方につけて、見る者を驚かせたのである。
それはその時代の人間にとって、新しい視覚体験であった。
ん、偶然性はともかく、偶有性ってなんだ?
・・・とお思いの方がいるだろうが、わたしはつぎのような意味で使用している。
《偶有性(contingency)とは、「AではなくBでもありえた/BでもありえたのにAである」こと、つまり「可能だが必然でもない/必然ではないが不可能でもない」ことだった。なにも難しい言葉を使わなくても、たとえば「運が悪い」ってのも偶有性の問題だ。論理的必然性、および明確な因果関係は無い、けれどもなぜか自分が被害者に選ばれてしまった、ということ。たとえば、運転士の速度超過など、脱線事故に必然性があったとしても、わたしの恋人が犠牲者になる必然性は存在しなかった。わたしの恋人が命を落としたのは、偶有性の問題だ。》
下記サイトから引用。
☆Genxx.blog
http://genxx.com/blog/archives/000187.html
このことばは日本語としてこなれてないから、人によって、解釈に幅があり、多少混乱しているようだし、偶然性と区別がつきにくいという問題がある。
わたしは茂木健一郎さんの著書で、はじめてこのことばにおめにかかった(^^;)
トップにあげた一枚の写真右側。
「あれれ、奥に座り込んでいる女性の顔がかくれてしまったな」
はじめはそう感じた。しかし、くり返し見ていくうち、この白い無機質なビニール袋をもった手が気になってきた。
左下からは、浴衣姿の女の子が画面に割り込んできている。
ゆっくり歩いていたそのときのわたしにとって、シャッターチャンスは、この一瞬だけだった。大きな効果をあげているとはいえないけれど、このときわたしに「見えて」いたのは、お母さんと、二人の女の子。向こうから歩いてくる黒いリュックを背負った少年のみ。
もう一枚ピックアップしてみよう。

これを見て、皆さんどう感じるのだろう?
ネガティブな写真とみるか、それともユーモラスな写真と見るか?
写真は言語表現と比較すると、ずいぶんと多義的なものである。写真にそえられたキャプションを読まないと、その女性が笑っているのか、泣いているのかわからない場合すらある。
右側のスキーのストックを突いて歩いていく人物は、脳血栓の後遺症かなにかで、軽い歩行障害があるように見えたが、ほんとうはどうなのか、この写真からは断言できない。
左側には、人混みからはなれて「はい、あーんして」などとやっている微笑ましいカップルがいる(笑)。
シニカルなすれ違いといえばそうなるけれど、しかし、こう書いてしまうと、これはわたしの“解釈”以外のなにものでもない。
ひとつの光景が、自分のまえに出現する。
カメラ・アイはそれにまったく解釈をくわえずに、数百分の一秒で、その場の光景を記録する。撮影者が記録された写真を眺めて、頭をひねったり、苦笑を浮かべたり、「なーんだ、つまらん」と思ったりするのは、そのあとのこと。
「偶然性、偶有性を味方につけたとき、俄然写真がおもしろくなる」とは、そういうことである。
撮影者の意図をこえたものをいかに取り込んでいくか?
撮ってみないと――撮影してみないとわからない写真の醍醐味はここに存在している。
シェークスピアの「お気に召すまま」の中に、よく知られた名セリフがある。
All the world's a stage
And all the men and women merely players.
「この世すべてが舞台、
人は男も女も皆役者」
カメラを手にして街角を歩いていると、そこが観客のいない舞台であると感じることがよくある。
シナリオライターすらいない、ナマの現実という舞台である。