二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

2011年回顧展(5)「いまは昔」ベスト5

2012年01月05日 | Blog & Photo

お正月で中断してしまった回顧展の第5回。

美術・写真の評論家で、東京芸大の教授でもある伊藤俊治は、現代屈指の論客である。「東京身体映像」「アメリカンイメージ」の二冊から、わたしは、ある時期、深刻というか、決定的な影響をうけている。この二冊を、デジタル化がすすんだいま読み返したら、どんな印象をもつだろう。
その伊藤センセイに、「二十世紀写真史」という、これまたすぐれた写真論がある。

『写真家たちはカメラによって自らの眼差しを都市へ送り、またカメラによって都市からの眼差しを受けとめ、その都市の時空へとひきこまれた。こうした双方向性は写真という十九世紀に生まれた媒体を仲介にして初めて可能になったものといえるかもしれない。写真の発明以前に人々は自分のいる空間に対してこうした眼差しを向けたことはなかったし、都市という概念さえまだ不明瞭であった。都市がイメージとして様々に経験されるのは人々にとって全く新しい事件であった』(「二十世紀写真史」ちくま学芸文庫より)

伊藤センセイは、アジェとスティーグリッツの写真をひあいに出しながら、こう述べている。


さて・・・「いまは昔」というのは、わたしの街撮りの総タイトルである。パナソニックのLX5というカメラがきたことによって、わたしはそのカメラとニコンD80を携えて、自分の周辺に点在する地方都市、その旧市街へと向かった。明快な、あるいは理論的なテーマというものがあるわけではないが、「その場所」は、抗いがたいたいへんな力でわたしを吸い寄せた。
「昭和ロマン」への旅・・・といえば、たしかに、そういった側面もある。時空をさかのぼり、自分の足と眼で、フォトジェニックな被写体を「発見」することに、まさに夢中となった(=_=) しかし、テーマは、撮影しながら、その都度、見えてくるものであって、あらかじめ設定できるようなものではない。
わたしはわたしになにやら訴えかけてくるものの声に素直に耳をかたむけ、そこにある光景を切り取って、写真にする。「いまは昔」とは、ベンヤミンがいうような意味で、「われわれ世代」の集団的記憶をさかのぼり、復元し、失われたものを奪い返す行為そのものである。・・・と断定してしまうとウソっぽいが、まあ、いまは、そういっておこう。


(1)犬のいる風景



この光景を、わたしは埼玉県行田市へ向かう途中、R17号沿線で見かけ、つぎの信号でUターンし、クルマを止めて撮影している。
あまりにも絵になりすぎる光景で、はじめはどう切り取っていいのかわからず、部分、部分をデッサンのつもりで撮りはじめた。それから、ある方向をさだめ、さらに、何カットも。そのとき、左下に小さく見える犬に吠えられた。LX5の24mm側で撮り、アオリ効果をだすためほんの少しトリミングしている。国道沿いの釣り堀の風景なのだが、この風景になぜこうも惹きつけられたのか、いまもってしかとはわからない。

B全くらいに大伸ばしし、いつまでも眺めていたい「いい風景」である。


(2)秩父の女(ひと)



撮影したのは2010年11月24日だけれども、ここに取り上げておく。
この女性が女優なのか、歌手なのか、職業モデルなのか、わたしは知らない。ある店のポスターにすぎないが、この一枚の写真は、わたしの過去の、あるイメージと分かちがたくむすびついている。恋をした(・・・とおもっていた)のに、ついにそれを告白もせずに別れてしまった、ある時期、とても親しかった女性のイメージ。薄闇の中から、横顔と、左の肩だけが浮かび出し、見るたびにわたしを責め、なにごとかを語りかける。
永久に取り返すことができない時空のかなた。そこに、彼女はいまでもたたずんでいる。

過去の日記と詩で、この一枚を取り上げたことがある。秩父市で出会った、思い出ぶかい一枚。


(3)階段とバラ



「夢の中の日常」という、島尾敏雄さんの短編みたいなタイトルのアルバムにおさめてある作品。撮影地は前橋市内で、CX4のクロスプロセスで撮影している。
小さな雑居ビルの壁面を撮っただけなのに、この光景は出会った瞬間、わたしの眼をとらえた。フレーミングを変え、モードを換えて、しつこく何枚も写した中の一枚。空を見ればわかるように、やや明るめの曇り日で、光がよくまわっていた。

ばら園のバラもいいけれど、ほんとうは、こんなふうに、生活的な背景を持ったバラのほうが美しいといいたい気分が、昨今のわたしにはある。


(4)シュロとその影



この作品も過去に二度取り上げている印象ふかい一枚。
光あるところには、かならず影がよりそう。金持ちの隣には貧乏人がいるようなものだし、勝者の隣には、敗者がいるようなものである。
しかし、それらは単に、人間の頭脳の内側をうつろう、亡霊みたいな概念にすぎない。だから・・・写真には写らないのである。写真は、存在するもの、その表面を撮影する。

この一枚は、わたしの「存在論」である。立ち位置を変えると、ものの影も姿を変える。
撮影地は栃木県足利市。


(5)「撮」のある壁



昨年はわたしの生涯の中で、いちばん写真を撮った年となったので、そこから五枚を選び出すのは、至難の技(=_=) まあ、厳密に比較見当して「ベスト5」を決めたわけではない。なにしろ、本日現在でわたしには200件をこえるmixiアルバムがあるのだから・・・。
これは2011年11月16日に、埼玉県本庄市で撮影している。この壁に映し出された「撮」の一文字を見たときの感動は、11月17日の日記「この日いちばんの感動」に書いた通りである。「うぁお! これはなんだ」と、カメラを握る手が少しふるえた。
あえていえば、この一枚は、わたしの都市論なのである。

わたしはフォトグラファーである。そして、詩人であり、エッセイストである。
こころのどこかに、そう宣言したい執念のようなものが存在するのを感じる。しかし、こうも考えてみる。「それらは、所詮は他称である」と。
わたしは、わたしなのである。それはたとえば、運命のようなものであって、わたしは、そこからは逃れでることはできない。

だから、歩いていく。
被写体という存在のかなたへ。

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