いろいろな写真を撮っていると、どう分類していいのかわからない写真が生まれてくる。
そういう場合、わたしは概ね、「フラグメント」というアルバムに放りこんでおく。
現実やイメージの、文字通り断片なので、それ自体としては、意味が完結していない。
ジグソーパズルのワンピースみたいなものだから、それだけでは意味をなさないようにみえる。イメージは不確定的で、多義的で、浮遊的である。
しかし、そこにおもしろさが潜んでいる。
これは写真でしか表現できない世界ではないか・・・と、わたしは考えている。
向こう側と、こちら側の中間地帯。
そこに、さまざまなイメージがうごめき、変化し、見る者を挑発する。
人間はそういった一見アモルフなもの(形態をもたないもの)を介して、イメージによる思考をおこなっている。明快なことばにはなじまないというか、翻訳できない。
これは音楽でもきっと同じだろう。あるひとかたまりのメロディーが、ある感情と、つりあっている。
写真によるイメージの場合も、ある一枚の作品が、ある感情なり、気分なりと、照応しているのである。
トップにあげた写真を眺めて、なにを見、なにを感じるだろう?
黄色い防寒用のヤッケをかぶった小学生の男の子が、右から左へ、画面を通過していく。
いくらか太っていて、寒そうに手をポケットに突っ込んでいる。ただそれだけの写真だが、見る者を襲う感情には、あるふくらみが、不可避的につきまとうのではないか?
あるいはこれ。自転車に乗った女性が、横断歩道を渡っていく。小雨が降っていて、彼女はピントからはずれ、手前のウィンドウのしずくが、上から下へとさがっていくところが鮮明にとらえられている。ここにも、あえていえば「気怠いような雨の日の気分」といったようなものがにじんでいる。
さらに、もう一枚。
これも雨の日の情景。水色の傘をさした女性の後ろ姿。
かつて「後ろ姿のエレジー」という日記を書いたことがあるけれど、そういってみたい風情がこの画面からただよってくる。
少なくとも、わたしは「何か」を感じて、シャッターを押し、これらの写真を選び、アルバムに載せている。だけど、これらをどう説明すべきかわからない。強引にことばで表現しようとすれば、ウソになる。
「ね。どう? これ。おもしろいでしょ」
せいぜい、そんなふうに呟いてみることができるだけ。
「そう。つまらんねぇ。こんな中途半端な写真は、おれにはわからんねぇ」
そんな反応が、返ってくるかもしれない。
こういった写真から、なんの挑発も感じないという人がいることを、わたしは理解する。
イメージは、たぶん“わたし”と“あなた”の隙間に置かれている。
イメージは曖昧であり、流動的であり、不確定的である。「作者の意図」なるものは、存在しないか、存在しても、極小の単位でしかない。
しかし・・・と、わたしはおもう。
こういうかたちでしか、とらえようのない現実があるのだ、と。
わたしはそれを、キャッチし、一瞬にしてつかみとり、“わたし”と“あなた”に差し出したいのである。
これが、写真ですよ、と。
これらがもし意味のない断片である・・・組み立てることができないジグソーパズルの一片であるとしたら、“わたし”も“あなた”も、こういった無意味にとりまかれて、一瞬、一瞬を旅しているのですよ、と指摘してみたいのである。