「文学じゃないかもしれない症候群」
数十ページ読んだところで、さすがのわたしも気がついた。こういう本は、こむずかしい顔をして、最初から最後まできっちりと読むべき本ではない、と。読むには読むが、つぎの日にはもう忘れている。作者も読者も、こんなものそれでたくさん、と心得ているのだ!
そういうわけで、ひろい読みというか、斜め読みすることにした。高橋さん、自分も世間も、編集者も、たいして信じてはいない。いろいろないきさつで、書かなければならなくなったから、まあ、それなりに書いてみた。所詮は暇つぶしなんだから、それでいいじゃな~い!?
わたしは高橋源一郎の小説を一冊も読んでいないが、こういう作家の小説を読まなくて幸せだったと、はっきりいっておこう。暇つぶしどころでなく、100%時間のむだだと、断言できる。「おれの頭が古いせいか」などと反省するまでもない。ぬるま湯のなかでふやけた卵のようなものである。「文学」をやることがそんなにはずかしく、無価値だと考えているなら、もう筆を折ったほうがいい。同じ暇つぶしなら、わたしはたとえば、ビールを飲みながら、スポーツ番組を楽しむか、カメラを手にして街へ出て行くほうを選ぶ。
・・・といってしまっては、ドッチラケになるから、いくらかは救いの手をさしのべておこう。新潮社のPR誌「波」に掲載された篠山紀信と荒木のぶよしの対談にふれた一節は、ひやりとしたものだ。
「おいおい、どっちの味方なの?」
だが高橋さん、結局お茶をにごしてオ・ワ・リ。小心者だから、なんというか、可愛げはある。文学など、とっくに終わっていると不安なのだろうが、サブカルチャーに色目を使い、自分の「新しさ」をアピールしている。主役はあんたではなく、挿画を描いている松苗あけみさんじゃないの?
ご自身でも小説家と名のるのは、はずかしいに違いない。職業を間違えてしまったのだ。あたふた、ばたばたしておるようだが、その理由がよくわからない。
「幽霊の正しい描き方」などを読むと、ところどころ才能の片鱗がきらきら輝いているだけに、惜しいといわざるをえない。
それとも、これはこの作家の演技なのか。「おれはこのスタイルでいくぞ~」 と。よくはわからないが、大朝日新聞に連載されたと思われる「文芸時評」らしき文章が載っている。彼が想定している読者やマスコミや他のメディアに対する、ある種の戦略思考の産物といえなくはないな~。
それを見とどけるには、小説を一、二冊は読んでみる必要があるかもしれない、といっておく。
高橋源一郎「文学じゃないかもしれない症候群」1995年刊 朝日文芸文庫>☆☆
数十ページ読んだところで、さすがのわたしも気がついた。こういう本は、こむずかしい顔をして、最初から最後まできっちりと読むべき本ではない、と。読むには読むが、つぎの日にはもう忘れている。作者も読者も、こんなものそれでたくさん、と心得ているのだ!
そういうわけで、ひろい読みというか、斜め読みすることにした。高橋さん、自分も世間も、編集者も、たいして信じてはいない。いろいろないきさつで、書かなければならなくなったから、まあ、それなりに書いてみた。所詮は暇つぶしなんだから、それでいいじゃな~い!?
わたしは高橋源一郎の小説を一冊も読んでいないが、こういう作家の小説を読まなくて幸せだったと、はっきりいっておこう。暇つぶしどころでなく、100%時間のむだだと、断言できる。「おれの頭が古いせいか」などと反省するまでもない。ぬるま湯のなかでふやけた卵のようなものである。「文学」をやることがそんなにはずかしく、無価値だと考えているなら、もう筆を折ったほうがいい。同じ暇つぶしなら、わたしはたとえば、ビールを飲みながら、スポーツ番組を楽しむか、カメラを手にして街へ出て行くほうを選ぶ。
・・・といってしまっては、ドッチラケになるから、いくらかは救いの手をさしのべておこう。新潮社のPR誌「波」に掲載された篠山紀信と荒木のぶよしの対談にふれた一節は、ひやりとしたものだ。
「おいおい、どっちの味方なの?」
だが高橋さん、結局お茶をにごしてオ・ワ・リ。小心者だから、なんというか、可愛げはある。文学など、とっくに終わっていると不安なのだろうが、サブカルチャーに色目を使い、自分の「新しさ」をアピールしている。主役はあんたではなく、挿画を描いている松苗あけみさんじゃないの?
ご自身でも小説家と名のるのは、はずかしいに違いない。職業を間違えてしまったのだ。あたふた、ばたばたしておるようだが、その理由がよくわからない。
「幽霊の正しい描き方」などを読むと、ところどころ才能の片鱗がきらきら輝いているだけに、惜しいといわざるをえない。
それとも、これはこの作家の演技なのか。「おれはこのスタイルでいくぞ~」 と。よくはわからないが、大朝日新聞に連載されたと思われる「文芸時評」らしき文章が載っている。彼が想定している読者やマスコミや他のメディアに対する、ある種の戦略思考の産物といえなくはないな~。
それを見とどけるには、小説を一、二冊は読んでみる必要があるかもしれない、といっておく。
高橋源一郎「文学じゃないかもしれない症候群」1995年刊 朝日文芸文庫>☆☆