二草庵摘録

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山本周五郎「季節のない街」

2007年12月13日 | 小説(国内)
 山本周五郎の愛読者をもってみずから任じてきたが、新潮文庫カバー裏に付された作品一覧を見て驚いた。51冊もの書名がならんでいるからである。わたしが読んだのは、そのうち20冊程度だと、いま気がついた。
 長編はほとんど読んでいない。そのうち読もうと考えているうちに、ずるずる月日がたっていってしまった。そのかわり、岡場所ものや下町人情ものといわれる作品は繰り返し読んできた。「夜の辛夷」「なんの花か薫る」あるいは「寒橋」「おさん」「ちゃん」などの作品系列である。連作短編の「赤ひげ診療譚」は読んでいるが、「ながい坂」「樅ノ木は残った」は未読である。表現がしつこい、教訓臭があるといって嫌う人もいるようだ。

 学歴がなく、いわゆる文壇の作家ではない。随筆を読むと、いささか風変わりな、とっつきにくい性格の人であったようで、直木賞なども辞退している。
 わたしのあいまいな記憶だと、1960年代の終わりころから、徐々に評価が高くなっていったように思われる。巻末についている開高健さんの解説によると「貸本屋でもっとも読まれているのが彼だ」と教えられて、山本周五郎を読みはじめたという。
 はじめて山本周五郎を読んだのは高校時代。父親が文藝春秋の山本周五郎選集を持っていて、それを手に取ったのだが、人生経験がほとんどないくせに、ただわけもなく小生意気だった高校生にはおもしろさがわからなかった。文学といえば、「純文学」を指した時代の価値基準に影響され、漱石や芥川龍之介、志賀直哉、川端康成などを「偉い作家」だと考えていたのである。

 山本周五郎の真のおもしろさに気がついたのは四十代になってからではないか。 実生活で人並みの苦労を経験し、苦渋をなめ、世間なるものがわかるにつれて、彼の世界は輝きをましていった。
 その作品の大部分は、時代小説とよばれるジャンルものである。しかし、天下国家を論じ、歴史上の有名人ばかりが登場する、たとえば、司馬遼太郎のような作家とは、まさに好対照。
 「無名の庶民」「下層社会の人びと」「時代に翻弄される一般大衆」・・・どれもいまとなっては座りの悪いことばであるが、ともかく、そういった人びとが、彼の小説によって、主役の座に躍り出てきたのである。それまでのわが国の小説は総じて「知識人の文学」と、いわゆる「私小説」の二極にわかれていた。
 山本周五郎は文学の底辺を大きくひろげた。

「季節のない街」は「青べか物語」と一対をなす連作小説である。書斎から生み出されたのではなく、モデルとなった人びとと生活をともにしながら、多くの実話を下敷きにして生み出された、ドキュメンタリー的な作品である。この二作品はその意味で似通った味わいを持っているのである。こういう手法をどのようにして思いついたのか知らないが、先日「死の家の記録」を読みながら、ある共通性を感じたのであった。
 ドストエフスキーはもちろん、わが山本周五郎も、単純なヒューマニズムの作家ではない。人間が持っている、やりきれない、醜悪な部分・・・貪欲、虚偽、エゴイズム、殺人や暴力、虚栄心、吝嗇、奇癖、性欲、不潔、破滅志向、そしてそれらすべての上にのしかかる貧困などを、具体的なエピソードを丹念に積み重ねながら、えぐり出している。知識人が陥りがちな理念や思想からずっと遠くへ読者をひっぱっていく。けっして十把一絡げにはできない、人間存在の不可解さ。どんな尺度をもってしても割り切れない、奇妙な生の在りよう・・・。
 この文庫のうしろにはめずらしく作者の「あとがき」が付されていて、そこにこう書かれている。

<ではなぜこの「街」という設定をしたかというと、年代も場所も違い、社会状態も違う条件でありながら、ここに登場する人たちや、その人たちの経験する悲喜劇に、きわめて普遍的な相似性があるからである。>

 山本周五郎は生活をともにしながら、生活をともにしなければ見えてこない、そういった「底辺」にうごめく人間をみごとに描き出している。人間好きであると同時に、人間嫌い。オプチミストであると同時に、ペシミスト。この作家のこころの揺れはじつに大きく、魅力的といわねばならないだろう。
 同時代の他の「大衆作家」がいまではほとんど読まれなくなったなかで、彼の人気は衰えることを知らない。それは「刻苦勉励」ともいうべき日常のたたかいのなかで、「普遍的な相似性」に到達しえているからであろう。
 まあ、黒澤明が映画「どですかでん」で使った、運転手六ちゃんを見るがいい(第一編「街へゆく電車」)。あるいは「がんもどき」という一編の持つ、ブラックユーモア的なおもしろさ。寒藤清郷先生やたんば老。こういった際だった個性を持つキャラクターが、彼の小説のいたるところで活躍している。私小説の作家は大部分自分の貧乏や女との確執、文壇に認められない憤懣だけにこだわり、隣人を、他者を見失っていった。それに比較し、山本周五郎のなんと豊かで独創性に満ちたキャラクターたちであることか!
 映画監督が眼をつけるのもむべなるかな。映画にしたら、どれもきっとおもしろくなる、と思わせるものがある。
 ちなみに、周五郎作品の映画化にはつぎのようなものがある。

 
・椿三十郎 (1962年、監督:黒澤明) - 『日日平安』が原作。
・青べか物語 (1962年、監督:川島雄三、脚本:新藤兼人)
・五瓣の椿 (1964年、監督:野村芳太郎)
・赤ひげ (1965年、監督:黒澤明) - 『赤ひげ診療譚』が原作。
・どですかでん (1970年、監督:黒澤明) - 『季節のない街』が原作。
・いのちぼうにふろう (1971年、監督:小林正樹) - 『深川安楽亭』が原作。
・ひとごろし (1976年、監督:大洲斉) - 『ひとごろし』が原作。
・どら平太 (2000年、監督:市川崑) - 『町奉行日記』が原作。
・雨あがる (2000年、監督:小泉堯史)
・かあちゃん (2001年、監督:市川崑)
・海は見ていた (2002年、監督:熊井啓)
・SABU ~さぶ~ (2002年、監督:三池崇史) - 『さぶ』が原作。
・椿三十郎 (2007年、監督:森田芳光) - 『日々平安』が原作。1962年のリメイ ク。
 <ウィキペディアより引用>

 ■山本周五郎(1903~1967年)

山本周五郎「季節のない街」新潮文庫>☆☆☆☆

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