紀伊国屋ブックウェブ(Kinokuniya BookWeb)のなかに、書評空間というサイトがあり、文芸評論家加藤弘一さん、哲学者で翻訳家の中山元さん、東京工業大学・理化学研究所の原正彦さんらが多くの書評を掲載している。
いまマスコミで活躍中の脳科学者、茂木健一郎さんが、そこに漱石の「三四郎」の書評をupしているのをみつけた。
その出だしを引用させていただこう。
<私は、漱石の小説は大抵何冊ずつか所有している。すでに持っていても、旅先などで発作的に読みたくなり、ふと見かけた書店で再び買い求めてしまうからだ。
持っている冊数が一番多いのはおそらく『吾輩は猫である』と『坊っちゃん』かもしれない。それだけこの二冊を繰り返し愛読しているということになるが、ここ数年、『三四郎』が急激に追い上げてきた。ここ3年ほどでも、二回は買ったのではないかと思う。>
http://booklog.kinokuniya.co.jp/mogi/
これを引用したのは、わたしも似たような経験を持っているからである。
本を買う、本を読むためには、人はきっかけを必要とするのだ。
仕事で読むわけでもないし、生理的欲求によるのでもない。読まなくても、どうってことはないといっていい。
しかし、ああ、あれ読みたいなというとき、あきらかに好奇心やこころの渇きがあるのである。
茂木さんはそのことをさりげなく書いている。
わたしも同じ本を何冊も持っている。
「古くなって、黄ばみがひどいから」
「探し出すのが面倒だから」
「新訳が刊行になったから」
「活字の大きな新装版が出たから」
「B社のほうが、注釈や解説がていねいだから」
理由はいろいろ。
たまには「持っていたのを忘れて、また買ってしまった」なんてことも・・・。
たたき売ることはめったにないから、そうして、本がたまっていく。
「あんたの部屋は紙ばかりだね」
手きびしい母親に、そういわれたときは、やや憮然となったが、あとで笑ってしまった。
実用書以外はめったに読まない彼女にとっては、
ゴミ屋に出すべき「古新聞、古雑誌」と大差ないのである。
大学時代、友人とふたりで、文芸評論家の秋山駿さんに、たしか中原中也についてだったと思うが、講演の依頼でお会いしたことがある。
中野にあるオンボロのクラシック喫茶で待ち合わせであった。
われわれよりさきにきていらして、うす暗い一隅で本を読んでいた。
いま、なんの本だったか、思い出そうとするのだが、はっきりしないのは残念。
でもそれが、かなりぼろぼろの古い岩波文庫であったのは、うっすら記憶にある。たぶん、米川正夫訳ドストエフスキーの長編のどれかではなかったか?
秋山さんが、「内部の人間」(南北社)「対談・私の文学」(講談社)「無用の告発」(河出書房)などの著作をつぎつぎ上梓して、気鋭の評論家として脚光をあびていたころ。
「はじめて買った本を持ち歩いて、何度となく読んでいる」
そういったスタイルが身についている感じで、やや俯いて、くぐもるような声で訥々と話された姿が印象的であった。
本はそういうふうに読まれるべきもの。
ショーペンハウエルも「多読の弊害」について、書いている。
街を歩いたり、旅に出たり、仕事をしたり、家族と遊園地にいったりして、
また鞄から一冊の本を取り出す。読んでから、あれこれと考える。
「うん、あれは、こういうことかもしれない」
ふと思いあたったりする。あるいは、記憶の奥底にしまいこまれていたものが、
むくむくと頭をもたげ、胸をしめつけてきたりする。
本を読むとは、自分との、あるいは作者との、そこに刻み込まれた文字との、
ある意味ではてしない対話である、と思う。
大抵はひとりで読むものなのだが、わたしは、
年に数回、読書会に参加して、意見交換をしあう、な~んてことも、いまだ続けている。
さて、今日は近所にあるBOOK OFFの本の半額セールであった。
仕事を抜け出して、午前中に出かけたが、レジにいったらすでに長~い行列。
わたしが話したので友人も来店していた。ほかにも顔見知りがひとり。
近所に群馬大学(医学部、教育学部、情報学部など)があり、ちょっとした学生街だから、
置いてある商品の回転率がすこぶるいい、いわば優良店。
ちなみに<お買いあげ品目>はつぎの11冊。
「東京タワー」リリー・フランキー(扶桑社)
「散歩者の夢想」埴谷雄高(角川春樹事務所)
「ウィーン」森本哲郎(文春文庫)
「夜のミッキー・マウス」谷川俊太郎(新潮文庫)
「表徴の帝国」ロラン・バルト(ちくま学芸文庫)
「生きて死ぬ私」茂木健一郎(ちくま文庫)
「脂肪のかたまり」モーッパッサン(岩波文庫)
「ラオコオン」レッシング(岩波文庫)
「マダム・エドワルダ」バタイユ(角川文庫)
「伊勢物語」石田穣二訳注(角川文庫)
「嵐が丘」エミリー・ブロンテ(新潮文庫)
このうち3冊はすでに本箱にある。
「脂肪のかたまり」「嵐が丘」は新訳でなければ買わなかったろう。
「伊勢」も手許にあるが、重たく仰々しい本なので、
通読したためしがない。
つい、買ってしまった。
4,060円が、半額の2,030円。
ぼろぼろになるまで、繰り返しくりかえし読むような本と、一冊でもめぐりあえるなら、やすい買物である。
・・・本箱をひとつ、ふたつふやして、蔵書の整理もしなければならないな~
いまマスコミで活躍中の脳科学者、茂木健一郎さんが、そこに漱石の「三四郎」の書評をupしているのをみつけた。
その出だしを引用させていただこう。
<私は、漱石の小説は大抵何冊ずつか所有している。すでに持っていても、旅先などで発作的に読みたくなり、ふと見かけた書店で再び買い求めてしまうからだ。
持っている冊数が一番多いのはおそらく『吾輩は猫である』と『坊っちゃん』かもしれない。それだけこの二冊を繰り返し愛読しているということになるが、ここ数年、『三四郎』が急激に追い上げてきた。ここ3年ほどでも、二回は買ったのではないかと思う。>
http://booklog.kinokuniya.co.jp/mogi/
これを引用したのは、わたしも似たような経験を持っているからである。
本を買う、本を読むためには、人はきっかけを必要とするのだ。
仕事で読むわけでもないし、生理的欲求によるのでもない。読まなくても、どうってことはないといっていい。
しかし、ああ、あれ読みたいなというとき、あきらかに好奇心やこころの渇きがあるのである。
茂木さんはそのことをさりげなく書いている。
わたしも同じ本を何冊も持っている。
「古くなって、黄ばみがひどいから」
「探し出すのが面倒だから」
「新訳が刊行になったから」
「活字の大きな新装版が出たから」
「B社のほうが、注釈や解説がていねいだから」
理由はいろいろ。
たまには「持っていたのを忘れて、また買ってしまった」なんてことも・・・。
たたき売ることはめったにないから、そうして、本がたまっていく。
「あんたの部屋は紙ばかりだね」
手きびしい母親に、そういわれたときは、やや憮然となったが、あとで笑ってしまった。
実用書以外はめったに読まない彼女にとっては、
ゴミ屋に出すべき「古新聞、古雑誌」と大差ないのである。
大学時代、友人とふたりで、文芸評論家の秋山駿さんに、たしか中原中也についてだったと思うが、講演の依頼でお会いしたことがある。
中野にあるオンボロのクラシック喫茶で待ち合わせであった。
われわれよりさきにきていらして、うす暗い一隅で本を読んでいた。
いま、なんの本だったか、思い出そうとするのだが、はっきりしないのは残念。
でもそれが、かなりぼろぼろの古い岩波文庫であったのは、うっすら記憶にある。たぶん、米川正夫訳ドストエフスキーの長編のどれかではなかったか?
秋山さんが、「内部の人間」(南北社)「対談・私の文学」(講談社)「無用の告発」(河出書房)などの著作をつぎつぎ上梓して、気鋭の評論家として脚光をあびていたころ。
「はじめて買った本を持ち歩いて、何度となく読んでいる」
そういったスタイルが身についている感じで、やや俯いて、くぐもるような声で訥々と話された姿が印象的であった。
本はそういうふうに読まれるべきもの。
ショーペンハウエルも「多読の弊害」について、書いている。
街を歩いたり、旅に出たり、仕事をしたり、家族と遊園地にいったりして、
また鞄から一冊の本を取り出す。読んでから、あれこれと考える。
「うん、あれは、こういうことかもしれない」
ふと思いあたったりする。あるいは、記憶の奥底にしまいこまれていたものが、
むくむくと頭をもたげ、胸をしめつけてきたりする。
本を読むとは、自分との、あるいは作者との、そこに刻み込まれた文字との、
ある意味ではてしない対話である、と思う。
大抵はひとりで読むものなのだが、わたしは、
年に数回、読書会に参加して、意見交換をしあう、な~んてことも、いまだ続けている。
さて、今日は近所にあるBOOK OFFの本の半額セールであった。
仕事を抜け出して、午前中に出かけたが、レジにいったらすでに長~い行列。
わたしが話したので友人も来店していた。ほかにも顔見知りがひとり。
近所に群馬大学(医学部、教育学部、情報学部など)があり、ちょっとした学生街だから、
置いてある商品の回転率がすこぶるいい、いわば優良店。
ちなみに<お買いあげ品目>はつぎの11冊。
「東京タワー」リリー・フランキー(扶桑社)
「散歩者の夢想」埴谷雄高(角川春樹事務所)
「ウィーン」森本哲郎(文春文庫)
「夜のミッキー・マウス」谷川俊太郎(新潮文庫)
「表徴の帝国」ロラン・バルト(ちくま学芸文庫)
「生きて死ぬ私」茂木健一郎(ちくま文庫)
「脂肪のかたまり」モーッパッサン(岩波文庫)
「ラオコオン」レッシング(岩波文庫)
「マダム・エドワルダ」バタイユ(角川文庫)
「伊勢物語」石田穣二訳注(角川文庫)
「嵐が丘」エミリー・ブロンテ(新潮文庫)
このうち3冊はすでに本箱にある。
「脂肪のかたまり」「嵐が丘」は新訳でなければ買わなかったろう。
「伊勢」も手許にあるが、重たく仰々しい本なので、
通読したためしがない。
つい、買ってしまった。
4,060円が、半額の2,030円。
ぼろぼろになるまで、繰り返しくりかえし読むような本と、一冊でもめぐりあえるなら、やすい買物である。
・・・本箱をひとつ、ふたつふやして、蔵書の整理もしなければならないな~