
都市の無意識ほどおもしろいものは、そうめったに存在しない・・・と、町歩きをしながら、わたしはときどきニンマリと笑いたくなってしまう。
ことばは、写真に追いつかない。
わたしは読書モードのスイッチが入ると、4、5冊の本を並行して、月に何冊も読む自称“読書人”(活字中毒者ともいう)だけれど、そんなわたしが、町歩きを愉しむのは、
《ことばは、写真に追いつかない》
この一事に尽きるようにおもわれる。
mixi日記を拝見しながら、「この人は本をよく読む人かな? 他人にどの程度関心をしめす人かな?」というところが気になる。本をめったに読まない人は、語彙が乏しく、中学生の作文のような日記をお書きになっているので、すぐにそれと察することができる。
それが悪いというわけではないが、読み応えのある日記を書いている方は、少数派。
もっとも、読み応えがありすぎて、とてもWeb上では咀嚼できないようなハイレベルな日記を書いていらっしゃる方もいるけれど(^_^)/~
他人に関心のうすい人は、わたしが書き込みをしても、返事をくれなかったりする。
わたしがやっているmixiと、「一草庵摘録」のいちばん大きな違いは、mixiはSNSなので、
うっかり見落としていれば別だが、可能なかぎり、レスはお返ししている。ブログは一方通行。
訪問者数:228IP
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これが昨日(5月1日)のgoo「一草庵摘録」のアクセス記録だから、とても228人をお相手としてご返事は書けない(^^;)
写真熱がじてくると、ことばをあやつるのがもどかしくなる。

たとえば、トップにあげた写真や、このショーウインドウの写真を見て欲しい。
わたしの脳裏には、いくつものことばやイメージがうごめき、乱舞し、それらは、見返すたびに、刻々とすがた形を変える。
世界は記号に満ちている。

例として、昨日の写真を再掲載しよう。
わたしははじめ、この写真に「椅子のご夫婦」というタイトルをつけようかとおもった。
撮影するとき、わたしはこの二脚の椅子から、そんな記号性を看取していたから。
しかし・・・ピックアップするとき、考え直した。
写っているのは、あくまで二脚の椅子、その他の椅子なのである。
わたしの主観を、見て下さる方に押しつけるようなタイトルは避けるべきだろう、と。
多義性を尊重しなければ、写真がつまらないものになってしまう。
写真とは、イメージの集積として、あるいは断片として“そこに”存在する。
流動的で、多分に曖昧である。そして、そこからあぶり出されてくるのは、人間が長いあいだかかって作り出した、あるいは、作り出さざるを得なかった「都市の無意識」なのである。
撮影するとき、その光景や被写体を、たしかにわたしの眼は見ている。
写真を撮って眺めるとは、それを“もう一度”あるいは、なんべんでも見るということである。そこには意識のゆらぎがある。そのゆらぎの向こうに、“わたし”(ここでは撮る人ではなく見る人)の過去が映じている。
ことばは写真に追いつかない。
なぜなら、写真はつなぎ止めようとすることばより、はるかにはやく、自在に、過去と現在、未来をゆききしているからである。