賃貸業務が繁忙期に突入し、このところ写真を撮っているゆとりがない。
「あれもしなければ、これも・・・」と、雑事が山のように押し寄せる。
五十代のなかばころから、仕事の処理能力が目立って衰えはじめ、この数年、自分でも認めないわけにはいかなくなった(^^;)
物忘れやケアレスミスが、年々ひどくなる。
・・・こうして年を取っていくのだ。
若いころから理屈の上では百も承知の事柄であっても、人間は経験してみないと、ほんとうのところはわからない。
忙しいあいまに、すきまがある。
クルマで移動中や、公園のトイレに立ち寄ったり、タバコを一服したりしているとき。
わたしは外界に、遠い視線を送っている自分に気がつく。
皆さんにもそんな経験がおありだろう。
「なぜおれはいま、ここにいるのだろう? あそこじゃなく、向こうでもなく、ここに」
哲学的な問いではなく、身体的な、あるいは生理的な反応のようなものとして、わたしはわたしの外側にある現実に視線を送る。
それを写真にすると、こうなる。
・・・とかんがえながら、わたしはこれらの写真に見入る。
わたしがいま二十歳の青年だとしたら
男性ではなく、女性だとしたら
群馬に生まれず、沖縄に生まれていたとしたら
ふとそんなかんがえに取り憑かれると、外界は遠ざかる。
しかし、消えてしまうのではない。
「いまここにいる」ということのリアリティが、少し変質する。
撮った写真というよりも、わたしの無意識によって、撮れてしまった写真。
人びとは遠ざかっていくが、やっぱりそこにいる。
距離の問題だろうし、見え方の問題だろう。書類にうもれるような数時間をすごしたあと、ディスクからふと眼をあげて、窓の外を眺める。弱々しい冬の光が、あたり一面に満ちている。畑の向こうの冬木立、くっきりしたブロック塀の影、自転車で通りすぎていく人の後ろ姿。
それらと「わたし」との関係性は、いたって稀薄で、まるで白昼夢の中の情景だといえないこともない。
野鳥の囀りが聞こえる。
野鳥は決してわたしに近づいてはこない。
そのことと、わたしがさっきから書いていることのあいだにパラレルな要素がある。
だけど、そのことを「ことば」にすると、大事ななにかが、指のあいだをすり抜けて地上に落下してしまう。
わたしにはつかまえることができない。
つかまえることができないから見る。見るだけではもの足らず、撮影し、撮影した情景に見入る。これらの写真は、そういった一つのグループとして、その多様性の一端として、いま、わたしの眼に映っている。
「あれもしなければ、これも・・・」と、雑事が山のように押し寄せる。
五十代のなかばころから、仕事の処理能力が目立って衰えはじめ、この数年、自分でも認めないわけにはいかなくなった(^^;)
物忘れやケアレスミスが、年々ひどくなる。
・・・こうして年を取っていくのだ。
若いころから理屈の上では百も承知の事柄であっても、人間は経験してみないと、ほんとうのところはわからない。
忙しいあいまに、すきまがある。
クルマで移動中や、公園のトイレに立ち寄ったり、タバコを一服したりしているとき。
わたしは外界に、遠い視線を送っている自分に気がつく。
皆さんにもそんな経験がおありだろう。
「なぜおれはいま、ここにいるのだろう? あそこじゃなく、向こうでもなく、ここに」
哲学的な問いではなく、身体的な、あるいは生理的な反応のようなものとして、わたしはわたしの外側にある現実に視線を送る。
それを写真にすると、こうなる。
・・・とかんがえながら、わたしはこれらの写真に見入る。
わたしがいま二十歳の青年だとしたら
男性ではなく、女性だとしたら
群馬に生まれず、沖縄に生まれていたとしたら
ふとそんなかんがえに取り憑かれると、外界は遠ざかる。
しかし、消えてしまうのではない。
「いまここにいる」ということのリアリティが、少し変質する。
撮った写真というよりも、わたしの無意識によって、撮れてしまった写真。
人びとは遠ざかっていくが、やっぱりそこにいる。
距離の問題だろうし、見え方の問題だろう。書類にうもれるような数時間をすごしたあと、ディスクからふと眼をあげて、窓の外を眺める。弱々しい冬の光が、あたり一面に満ちている。畑の向こうの冬木立、くっきりしたブロック塀の影、自転車で通りすぎていく人の後ろ姿。
それらと「わたし」との関係性は、いたって稀薄で、まるで白昼夢の中の情景だといえないこともない。
野鳥の囀りが聞こえる。
野鳥は決してわたしに近づいてはこない。
そのことと、わたしがさっきから書いていることのあいだにパラレルな要素がある。
だけど、そのことを「ことば」にすると、大事ななにかが、指のあいだをすり抜けて地上に落下してしまう。
わたしにはつかまえることができない。
つかまえることができないから見る。見るだけではもの足らず、撮影し、撮影した情景に見入る。これらの写真は、そういった一つのグループとして、その多様性の一端として、いま、わたしの眼に映っている。