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現代の地中海周囲・イスラムの暗黒時代と混迷
現代の地中海周縁と、イスラム社会の混乱とその周辺国・ヨーロッパ等への拡大。
★ http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2014/07/post-3349.php ボートピープル
想像を絶するアフリカ難民の死にざま Thousands of Refugees Fleeing North Africa
虐殺されたユダヤ人のように折り重なって冷凍庫に……2014年7月31日(木)14時57分
ジアンルカ・メッツォフィオレ
イタリア最南端のランペドゥーサ島の沖では、アフリカから来たボート難民をめぐる事故や事件が続発している。
先週、トラブルから難民60人を船上で刺殺し、遺体を海に捨てた容疑で5人が逮捕された。デンマークのタンカーが救助に当たった難民船には700〜750人が乗船していたが、助かったのは569人だけだった。
ランペドゥーサ島はアフリカ大陸に最も近いため、シリアのような紛争地域やエリトリアなどの独裁国家の亡命希望者を詰め込んだ船が押し寄せる。沿岸警備隊の目を盗んで上陸しようと待つうちに、周辺沖で転覆する事故が後を絶たない。
6月末には漁船の船内で難民40人以上の遺体が発見された。密輸業者に船の冷凍室に詰め込まれ、窒息死したとみられる。イタリア警察によれば、遺体はナチスが虐殺したユダヤ人のように折り重なっていたという。
今年になってイタリアに到着した難民は6万人を数える。これまでの最高記録は、「アラブの春」で難民が急増した11年の年間6万2000人だった。
紛争の増加とともに、記録は遠からず塗り替えられそうだ。
[2014年8月 5日号掲載]
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ヨーロッパ中世の暗黒時代。西ローマ帝国滅亡後と暗黒時代の到来。wikipediaから
1600年前前後の地中海、中世への移行と停滞の時代。
中世ヨーロッパ[編集]
ヨーロッパにおいては、
西ローマ帝国滅亡後、ルネサンスの前までの中世を指して暗黒時代とも言われる。ルネサンス初期の人文主義者・ペトラルカが古典古代の失われた時代を "tenebrae"(ラテン語で闇)と呼んだのが「暗黒時代」観の始まりとされ、ルネサンス期の見方では、古代ギリシア・古代ローマの偉大な文化が衰退し、蛮族(主に
ゲルマン人)の支配する停滞した時代とされていた。また、啓蒙主義の進歩史観のもとでも中世は停滞した時代と考えられてきた。「中世=暗黒時代」という概念は、プロテスタントの歴史家クリストフ・ケラリウスによって提唱された中世という時代区分に端を発し、イギリスの文学者ケア(William Paton Ker)が1904年に著した "The dark ages" によって一般に広められたものである。
だが、イタリア・ルネサンス以前の時代にも古代文化の復興運動(フランク王国9世紀の「カロリング朝ルネサンス」、東ローマ帝国10世紀の「マケドニア朝ルネサンス」、同帝国末期の「パレオロゴス朝ルネサンス」、西ヨーロッパの「12世紀ルネサンス」などが挙げられる。)が存在しており、今は「中世ヨーロッパ=暗黒時代(文化的に停滞した時代)」という見方は否定されている。
現在では、1000年頃までの中世初期を暗黒時代と呼ぶことが多いが、それもまた一面的であるとの批判もある
395年 ローマ、東西に分割。
410年 西ゴート王アラリック、ローマに侵入。西ローマ帝国、ラヴェンナに遷都。
413年 (キリスト教)アウスグティヌス、「神の国」を著す。
427年 (朝鮮) 高句麗、平壌に遷都。
449年 アングロ=サクソン族、ブリタニア(イングランド)に侵入。
452年 ローマ教皇レオ1世、ローマに侵入してきたフン族のアッティラを交渉で退去させる。
470年頃 (インド)ヒンドゥー教が成立。
476年 西ローマ帝国滅亡。
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古代の暗黒時代
3200年前(1600x2)の地中海周囲のカタストロフィーと暗黒時代。
古代ギリシアの暗黒時代は紀元前1200年ごろのトロイア戦争終結から数世紀間の、古代ギリシア文化の停滞期をいう。
★ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88 wikipediaから
レバント地方の乾燥化と王国の崩壊
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ヒッタイト古王国[編集]
紀元前1680年頃、クズルウルマック("赤い河"の意)周辺にヒッタイト古王国を建国し、後にメソポタミアなどを征服した。なお、ヒッタイト王の称号は、ラバルナであるが、これは古王国の初代王であるラバルナ1世、また、ラバルナの名を継承したハットゥシリ1世の個人名に由来し、後にヒッタイトの君主号として定着したものである。ヒッタイト王妃の称号はタワナアンナであるが、これも初代の王妃であるタワナアンナの名を継承したといわれている。 紀元前1595年頃、ムルシリ1世率いるヒッタイト古王国が、サムス・ディタナ(英語版)率いる古バビロニアを滅ぼし、メソポタミアにカッシート王朝が成立。
ヒッタイト中王国[編集]
紀元前1500年頃、ヒッタイト中王国の成立。タフルワイリやアルワムナによる王位簒奪が相次ぐ。70年間ほど記録が少ない時代が続いた。
ヒッタイト新王国[編集]
紀元前1430年頃、ヒッタイト新王国の成立。
紀元前1330年頃、シュッピルリウマ1世はミタンニを制圧する。この時、前線に出たのは、王の息子達(テレピヌとピヤシリ)であった。 紀元前1285年頃、古代エジプトとシリアのカデシュで衝突。ラムセス2世のエジプトを撃退する。ラムセス2世は、勝利の記録を戦いの様子と共にルクソールなどの神殿に刻んでいるが、実際にはシリアはヒッタイトが支配を続けた(カデシュの戦い)。エジプトのラムセス王の寺院の壁に、3人乗りの戦車でラムセス2世と戦うヒッタイト軍(ムワタリの軍)のレリーフが描かれている。この際に、世界最古の講和条約が結ばれた。ハットゥシリ3世の王妃プドゥヘパ(英 Puduhepa)作とされる宗教詩は、現在発見されている最古の女性の文芸作である。ヒッタイトの宗教は、強くフルリ人の宗教の影響を受けていることが分かっている。フリ文化の色彩強まる。
紀元前1190年頃、通説では、民族分類が不明の地中海諸地域の諸種族混成集団と見られる「海の民」によって滅ぼされたとされているが、最近の研究で王国の末期に起こった3代におよぶ内紛が深刻な食糧難などを招き、国を維持するだけの力自体が既に失われていたことが明らかになった(前1200年のカタストロフ)。
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★ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D1200%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%95
前1200年のカタストロフ[# 1]とは地中海東部を席巻した出来事のこと。この出来事の後、当時、ヒッタイトのみが所有していた鉄器の生産技術が地中海東部の各地や西アジアに広がることにより青銅器時代は終焉を迎える事になり鉄器時代が始まった。
そしてその原因は諸説あるが、この出来事の発生により、
分裂と経済衰退が東地中海を襲い、各地において新たな時代を生み出す[8]。
序[編集]
紀元前1200年頃、環東地中海を席巻する出来事が発生した。現在、「
前1200年のカタストロフ(破局とも)」と呼ばれるこの災厄は古代エジプト、西アジア、アナトリア半島、クレタ島、ギリシャ本土を襲った。この災厄は諸説存在しており、未だにその内容については結論を得ていない。
これらには諸説あり、
気候の変動により西アジア一帯で経済システムが崩壊、農産物が確保できなくなったとする説、エジプト、メソポタミア、ヒッタイトらが密接に関連していたが、ヒッタイトが崩壊したことでドミノ倒し的に諸国が衰退したとする説などが存在する。地震によって崩壊したとする説は環東地中海全体の崩壊ではなく、特定の国にのみ考えられており、少なくともミケーネ時代のティリンスではドイツ考古学研究所 (en) の調査によれば激しい地震活動が発生したことが確認されている[9]。
この災厄についてフェルナン・ブローデルの分析によれば
1.ヒッタイトの崩壊
2.エジプトにおける海の民の襲撃
3.ギリシャのミケーネ文明の崩壊
4.気候の変動
以上の4項目に分けることができる。また、このカタストロフを切っ掛けに東地中海に鉄が広がることになる[10]。
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古代ギリシャではミケーネ文化が繁栄していたが、『
前1200年のカタストロフ(前1200年の破局とも)』をきっかけに崩壊、それまで使用されていた線文字Bも使用されなくなり文字資料が乏しくなった。この状況はギリシャ人とフェニキア人が接触することによりアルファベットが成立してエーゲ海地帯に普及するまで続く。
このカタストロフの内容については各種異論が存在するが、このカタストロフが古代ギリシャ史における分水嶺と化しており、カタストロフ以前を研究する学者は考古学者、カタストロフ以後を研究する学者は歴史学者と分け隔てられていた。そのため、暗黒時代は考古学者、歴史学者の両者から敬遠される時代であった
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● 主にwikipediaの資料から検討。
暗黒時代は古代の暗黒時代と中世の暗黒時代があるようです。
暗黒時代という表現が適当でないというなら、断層の時代、またはカタストロフィーの
時代という事も出来ましょう。
●
村山節氏の1600年文明サイクル説に従い、見事に1600年のサイクルを作り、現代も2000年前後から
地中海周囲・イスラム周囲での劇的な紛争・内戦が繰り広げられています。
●
どの断層の時代でも、やはり気候が関係していることは最近の研究などから分かっています。
古代でも、レバント地方の乾燥化とヒッタイト国の崩壊やミケーネ文明の崩壊がみられ、
これと地球の気候の大変動、エルニューニョ現象などの関与も分かっています。
● ローマ帝国の崩壊の引き金である、
フン族の侵入とゲルマン民族の大移動も、気候大変動と
言われています。寒冷化と乾燥化である。
●
現在も世界の気候の大変動が言われています。特に北アフリカの乾燥化=砂漠化の進行は部族間や
イスラム系と他の黒人部族等との激しい戦いとなっています。又ご存知のように、
西欧の激しい侵入に会い、イスラム圏は全てが混乱の様相を呈しています。
● この様な
地中海とイスラム圏の環境の悪化はー自然環境悪化と戦争は、必然的に西欧への移民の増加と
不法移民の増加ももたらし、結果として、ゲルマン民族の大移動の結果として、ローマが
滅びたように、
西欧文明≒近代資本主義の崩壊を齎しつつあると言えます。
● 私の270年説とサーカー氏の社会循環サイクルを合わせた、エリオット波動分析は、
村山氏の1600年文明サイクルと気候変動にも、見事に合致します。
● これが歴史の法則という事になりましょう。つまり、今後は歴史の断層・カタストロフィー
を齎すような、気候変動と暗黒時代がやってくるという事です。
● 正に世界戦国時代・第三次内戦型大戦の幕開けにふさわしい予測と言えましょう。同時に
気候大変動が来ることを意味する人類の危機ですが、これは主に西欧・イスラムの
事であり、東アジア=特に日本は大繁栄の時代と言えましょう。
◇ この文明1600年サイクルの歴史、気候変動の歴史から言えば、日本と中韓朝の関係は、以前に読者からの
指摘のあった1600年前の関係とに似ているとも言えます。従ってその時代の関係を分析すれば、
現在にも応用できると思われます。
◇ 1600年をサイクルの単位とすれば、上昇波810年(270x3)、下降波810年となりますから、その一段上の
サイクルの期間は、1600x3=4800年となります。大よそ5000年前後のサイクルで、人類の
歴史の更なる、大断層=カタストロフィーがみられる可能性があるという事です。
◇ その歴史の巨大な断層は、下図の様に地球の乾燥化とその変動が、見事に一致している
のでしょう。人間も地球の自然の一部という事です。波動はそれを物語るのです。
□ 人類の歴史の波動のエネルギーは、乾燥化・寒冷化とその移動が、ポンプの様に人間の
大移動を齎し、大断層・カタストロフィーを作るのでしょう。
文明の気候変動説である。