
時代は繰り返しますが、勿論まったく同じでない事は当然です。あらゆる法則から、時代も
螺旋を描きながら進むと考えられます。四次元では螺旋ですが、平面ではサイクルです。
この螺旋がローマ時代にも当てはまるのかどうかは、興味のあるところです。
我々の時代の過去・現代・未来は波動理論によれば、相互に関連し合っている事に成ります。
つまり過去や現代に、未来のヒントが有ると言う事です。逆も真なりでしょう。つまり
現代や未来に過去が隠されていると言う事です。地政学的には、古代ローマは
現代のローマと結びついていると言う事になります。
温故知新。従ってお隣さんとの関係も過去の歴史を参考にする必要が有りそうです。さて古代
ローマは今でもローマの地に有る事に成りますから、古代の旅は現代のイタリアから始めます。
1861年イタリアは近代資本主義国家=富者の時代として統一が宣言されました。

この富者の時代の開始1861年を起点にして、私のサイクル論を当てはめてみます。先ず
単純に270年づつ過去に遡ってみます。1861年―270年x3xx3=-569年=紀元前569年。
つまり、紀元前569年を富者の時代の開始とします。ー569年+270年=-299年。
すると紀元前299年からを武人の時代と予想できます。ー299+270=-29年。紀元前29年
からは、知恵者の時代と予測します。次の時代は必然的に、―29+270=紀元後241年
からは富者の時代と言えます。~511年まで。各々をwikipediaの情報を中心にして
検討してみます。単純に以下の様に分けられます。その区切りの時代の間に
その時代の特徴が現れていれば、その区分は正しいとも言えます。
機械的区分
○ 紀元前839年~前569年。 賢者・知恵者の時代。 英のチューダー朝、日本の江戸時代に相当。
○ 前569年~前299年。 富者の時代。 富の形成と維持の為に、平民が活躍する時代。
● 前299年~前29年。 武人の時代。 武力が主体の時代。内乱、戦争、下克上の時代。
○ 前29年~ 後241年。 賢者・知恵者の時代。
○ 241年~ 511年。 富者の時代。
●● ○ 紀元前839年~前569年。 賢者・知恵者の時代。 ●●
王政期[編集]詳細は「王政ローマ」を参照 wikipedia
紀元前753年(建国)から紀元前509年まで、ロムルスに始まる伝説上の七人の王が治めていた期間 (伝承による)。
以下の伝説は、正に賢者=知恵者の時代である事を意味します。従って伝承は正しいのでしょう。
・・・・・・ヌマ・ポンピリウス[編集]次の王が選ばれることになったが、ロームルスを誰かが暗殺したという噂が飛び交い、誰が王に当選しても疑惑を生みそうな状況となった。王には息子がいたが、彼を王にするという考えはローマ市民にはなかった。そこで市民たちは、何の利害関係もない市外の人物から王を選ぶことにした。市民が選んだのは賢者として知られるサビニ人のヌマ・ポンピリウスだった。ローマに住んでさえもいなかったヌマは当然、固辞したが、元老院の長老たちから何度も頼まれるとそれ以上は断れなかった。
ヌマは温和な人格者だったとされ、この王の時代にはローマに戦争は起こらなかった。ヌマは主に国内の改革を行った。ロームルスが定めたとされるローマ暦を改めたのもヌマである。農業を推奨し、その他、職業別の組合を作った。宗教改革を行い、神官も決めた。ローマ神話の骨格と、主な神の名が決まったのはヌマの時代である。これはヌマの祖先サビニ人の信仰が基になったといわれる。ヌマの死も、その治世と同じようにおだやかなものだった。
また、ヌマの治世に天から12枚のアンキーレー(聖盾)が降臨し、ローマの守護の象徴にされたという伝説がある。これは恐らく、南下してくるエトルリア人の脅威にローマ人が軍備を備えたことを神話にしたものだといわれている。
●● ○ 前569年~前299年。 富者の時代。 ●●
平民の発言が高まり活躍するときで、これは現代風に言えば、選挙権の獲得である。
共和政期 前半 wikipedia
BC44年カエサル統治下の共和制ローマの版図紀元前509年から紀元前27年まで、イタリア半島の一都市国家から地中海の全域に属州を持つ帝政になるまでの期間。政治は元老院と執政官ら政務官を中心として、民会などで一般ローマ市民の意思も反映されながら運営された。
共和政初期
ルキウス・ユニウス・ブルトゥスによる王政の打倒からイタリア半島の中南部を勢力に加えた頃まで。
● 政治的にはパトリキとプレープスの身分闘争とその決着が知られている。
相次ぐ戦争の中で、戦争の主体となった重装歩兵の政治的発言力が強まり、重装歩兵部隊を支えたプレブス(平民)が、当時政治を独占していたパトリキ(貴族)に対して、自分たちの政治参加を要求するに至った。いわゆる「身分闘争」の開始である。貴族は徐々に平民に譲歩し、平民の権利を擁護する護民官を設置し、十二表法で慣習法を明文化した。さらに、紀元前367年のリキニウス・セクスティウス法でコンスルの一人をプレブス(平民)から選出することが定められ、紀元前287年のホルテンシウス法によって、トリブス民会の決定が、元老院の承認を得ずにローマの国法になることが定められた。これにより、身分闘争は収束に向かった。
富者の時代は平民が富を創る階級として活躍するときです。中国でも、唐宋断絶と言われるように、宋の時代は平民の身分が劇的に良くなった時期です。つまり、時代で云えば江戸の絶対王朝の
様に貴族や武士が威張る時代から、庶民が活躍して、市場と富を創る現代の富者=
資本主義者の時代への転換と言えます。サイクル論で見れば簡単です。
●● ● 前299年~前29年。 武人の時代。 ●●
日本で云えば、戦国時代から絶対王朝の徳川家に移行する時期と言えます。
正に戦いに戦いが継ぐ時代である。
共和政中期
三次に及ぶカルタゴとのポエニ戦争の時期。
セレウコス朝やアンティゴノス朝といったヘレニズム諸国との戦争での勝利によって属州を獲得しその勢力圏を広げていった時期。
共和政末期
グラックス兄弟の改革と死、一世紀の内乱を経てアウグストゥスによる帝政の樹立までの期間。
ローマで最も史料の多い期間の一つである
●ポエニ戦争[編集]詳細は「ポエニ戦争」を参照
イタリア半島の統一を果たしたローマは、西地中海の商業覇権をめぐって、紀元前264年よりカルタゴとの百年以上の戦争へ突入した(ポエニ戦争)。第一次ポエニ戦争でシチリアを獲得し、この地を最初の属州とした。
紀元前218年より始まった第二次ポエニ戦争では、カルタゴの将軍ハンニバルにカンナエの戦いで敗れるものの戦況を巻き返し、スキピオ・アフリカヌスの指揮下で再びカルタゴに勝利する。この際、カルタゴ・ノヴァ(現在のカルタヘナ)などイベリア半島南部におけるカルタゴの拠点を奪い、西地中海の征服を果たした。また、カルタゴを味方したマケドニアにも遠征を行い、イリュリアやアカエア(ギリシア)を影響下に置いた。この第二次ポエニ戦争でカルタゴは多大な打撃を被ったが、ローマ内部では大カトを中心に対カルタゴ強硬派がカルタゴ殲滅を主張していた。紀元前149年より第三次ポエニ戦争が行われ、紀元前146年にカルタゴは破壊された。
東方への進出[編集]第二次ポエニ戦争に勝利してカルタゴの脅威が減少すると、イタリア半島外へ勢力を拡大させた。
第一次マケドニア戦争(英語版)(紀元前215年 - 紀元前205年):ピリッポス5世がハンニバルと同盟し戦う。
ローマ・シリア戦争(紀元前192年 - 紀元前188年):セレウコス朝シリアに勝利し小アジア諸国と同盟を結ぶ(アパメイアの和約(英語版))。
第二次マケドニア戦争(英語版)(紀元前200年 - 紀元前196年):フラミニヌスによりローマ勝利。
第三次マケドニア戦争(紀元前171年 - 紀元前168年):アンティゴノス朝が滅亡。
第四次マケドニア戦争(紀元前150年 - 紀元前148年):マケドニア属州が成立。
● 内乱の一世紀[編集]詳細は「内乱の一世紀」を参照
対極的に没落の運命をたどったのは、ローマ軍の中核をなしていた自由農民であった。連年の出征によって農地から引き離され、また属州より安価な穀物が流入したため次第に没落していく。この状況を打開するために、グラックス兄弟が、平民の支持を得て、土地分与の改革を実施しようとした。しかし紀元前133年に兄ティベリウス、紀元前123年に弟ガイウスが反対派によって命を落とし、改革は失敗に終わった。
第三次ポエニ戦争の後も対外征服戦争および反ローマの反乱などによりローマの軍事活動は止むことがなかった(ヌマンティア戦争、ユグルタ戦争、同盟市戦争、ミトリダテス戦争、クィントゥス・セルトリウス(英語版)の反乱(英語版)、3次の奴隷戦争など)。また、初めてゲルマン人がローマ領内へ侵入したのもこの時期であり(キンブリ・テウトニ戦争)、帝政ローマ期を通じローマを悩ませることとなった。
こうした状況では、優れた指揮能力を持つ者を執政官に選ぶ必要があった。その顕著な例が平民の兵士出身のガイウス・マリウスであった。彼は長期にわたる征服戦争への動員で没落した市民兵の代わりに、志願兵制を採用し大幅な軍制改革を実施した。この改革はローマの軍事的必要を満たし、かつ貧民を軍隊に吸収することでその対策ともなったが、同時に兵士が司令官の私兵となって、軍に対する統制が効かなくなる結果をもたらした。
はじめに軍の首領としてローマ政治に君臨したのはマリウスとルキウス・コルネリウス・スッラであった。彼らの死後、一時的に共和政が平常に復帰したが、やがて次の世代の軍閥が登場した。ポンペイウス、カエサル、クラッススの3人である。3人は元老院への対抗から第一回三頭政治を結成したが、クラッススの死後、残る2人の間で内戦が起きた。地中海世界を二分する大戦争は、紀元前48年にポンペイウスが死んだ後もしばらく余波を残した。
カエサルは紀元前45年に終身独裁官となったが、王になる野心を疑われて、紀元前44年3月15日に共和主義者によって暗殺された。この後、カエサル派のオクタウィアヌス、アントニウス、レピドゥスが第二回三頭政治を行なった。カエサルの遺言状で相続人に指名されたオクタウィアヌスは紀元前31年、アクティウムの海戦でアントニウスに勝利し、紀元前27年に「尊厳者(アウグストゥス)」、「第一の市民(プリンケプス)」の称号を得て、共和政の形式を残しながらプリンキパトゥス(事実上の帝政)が始まった。
●● ○ 前29年~ 後241年。 知恵者の時代。 ●●
実際の出来事 → 紀元前27年に共和制の復活と君主の支配。
狭義の帝政ローマ時代
wikipediaから
紀元前44年にカエサルが暗殺された後、共和主義者の打倒で協力したオクタウィアヌスとマルクス・アントニウスが覇権を争い、これに勝利を収めたオクタウィアヌスが紀元前27年に共和制の復活を声明し、元老院に権限の返還を申し出た。これに対して元老院はプリンケプス(元首)としてのオクタウィアヌスに多くの要職と、「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を与えた。一般的にこのときから帝政が開始したとされている。
以降、帝政初期のユリウス・クラウディウス朝の世襲皇帝たちは実質的には君主であったにもかかわらず、表面的には共和制を尊重してプリンケプス(元首)としてふるまった。これをプリンキパトゥス(元首政)と呼ぶ。彼らが即位する際には、まず軍隊が忠誠を宣言した後、元老院が形式的に新皇帝を元首に任命した。皇帝は代々次のような称号と権力を有した。
「アウグストゥス」と「カエサル」の称号。
「インペラトル」(凱旋将軍、軍最高司令官)の称号とそれに伴う全軍の最高指揮権(「エンペラー」の語源)。
「プリンケプス」(市民の中の第一人者)の称号。本来は元老院において、最初に発言する第一人者の意味。
「執政官命令権」を持っており、最高政務官である執政官職に就かずして、首都ローマとイタリアに対して政治的・軍事的権限を行使した。
「プロコンスル命令権」により皇帝属州の総督任命権と元老院属州の総督に対する上級命令権を有していた。また、エジプトは皇帝の直轄地として位置づけられた。
「護民官職権」を持っており、実際に護民官には就任していないにもかかわらず権限を行使した。これには身体の不可侵権に加え、元老院への議案提出権やその決議に対する拒否権などが含まれており、歴代皇帝はこの権限を利用して国政を自由に支配した。
「最高神祇官」の職。多神教が基本のローマ社会において、その祭事を主催する。
これらに加え、皇帝たちは必要な場合年次職の執政官やケンソル(監察官)などの共和政上の公職に就任することもあった。さらに、皇帝たちには「国家の父」などの尊称がよく送られた。また皇帝は死後、次の皇帝の請願を受けた元老院の承認によって、神格化されることも少なくなかった。例えばアウグストゥスはガリア属州に祭壇が設けられ、2世紀末まで公的に神として祀られ続けた・・・・・。
五賢帝の時代(ネルウァ=アントニヌス朝)
[編集]ドミティアヌスが暗殺されたのち、紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の時代にローマ帝国は最盛期を迎えた。この5人の皇帝を五賢帝という。
のちに若干の理想化も含めた歴史の叙述によれば、彼らは生存中に逸材を探して養子として帝位を継がせ、安定した帝位の継承を実現した。ユリウス・クラウディウス朝時代には建前であった元首政が、この時期には実質的に元首政として機能していたとも言える。またこの時代には、法律(ローマ法)、交通路、度量衡、幣制などの整備・統一が行われ、領内には軍事的安定状態が保たれていたと思われるが、地中海の海上流通は減退が見られ軍隊の移動も専ら陸路をとるようになる時期だった。また軍隊と繋がる大土地所有者が力を持ち、自由農民がローマ伝統の重税を避けて逃げ込むケースが増え、自給自足的な共同体が増加した時期でもある。五賢帝はすべて養子関係にあり、またマルクス・アウレリウス・アントニヌスの死後は実子のコンモドゥスが帝位を継いだことから、ネルウァからコンモドゥスまでの7人の皇帝の時代はネルウァ=アントニヌス朝とも呼ばれる。
96年 - 98年 ネルウァ
元老院から選出される。後継者にトラヤヌスを指名した。
98年 - 117年 トラヤヌス
「至高の皇帝」。最大領土を現出。ダキア、アラビア、アルメニア、メソポタミア、アッシリアを 占領して属州を置き、帝国領土は東はメソポタミア、西はイベリア半島、南はエジプト、北はブリ テン島にまでおよんだ。
117年 - 138年 ハドリアヌス
パルティアと和平してアルメニア、メソポタミア、アッシリアから撤退し、東方国境を安定させ る。全属州を視察。内政の整備と、ブリタンニアのハドリアヌスの長城に代表される防衛体制の確 立に努めた。
138年 - 161年 アントニヌス・ピウス
内政の改革や財政の健全化に努めた。
161年 - 180年 マルクス・アウレリウス・アントニヌス
「哲人皇帝」。ストア哲学を熱心に学んだ。晩年は各地の反乱や災害やゲルマン人ら異民族の侵入 に悩まされ、各地を転戦、陣中で没した。
161年 - 169年 ルキウス・ウェルス
マルクス・アウレリウスと共同皇帝、パルティア戦争に従事。その後の蛮族の侵攻の最中に食中毒 で病死。
180年 - 192年 コンモドゥス
マルクス・アウレリウスの嫡子、ローマ帝国で二例目の直系継承を果たしたが悪政の末に暗殺されネルウァ=アントニヌス朝は断絶した。
●● ○ 241年~ 511年。 富者の時代。 ●●
ゲルマン人の侵入と混乱、軍隊は傭兵の時代であり、最後はその傭兵に滅ぼされる運命です。
正に移民の増大と、その混乱と資本主義の末期と、西洋の黄昏が重なる、現代の英米仏資本主義の
崩壊過程にそっくりです。
12 西ローマ皇帝
12.1 ガリア帝国(260年-274年)
12.2 テトラルキア(四分治制) (293年-313年)
12.3 コンスタンティヌス朝 (313年-363年)
12.4 王朝無し (363年-364年)
12.5 ウァレンティニアヌス朝 (364年-392年)
12.6 王朝無し (392年-394年)
12.7 テオドシウス朝(394年-455年)
12.8 テオドシウス朝断絶後 (455年-480年)
西ローマ帝国(にしローマていこく)は一般的に、テオドシウス1世死後のローマ帝国の西半分を領有した国家を指す。なお、広義には286年のディオクレティアヌス帝によるローマ帝国のテトラルキア導入後のローマ帝国の西半分や、3世紀から5世紀までの間、テトラルキア以降の帝国の西半分に割拠した勢力を指す用例もある。
なお、「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国」は共に後世の人間による呼称で、両国とも当時の政府や住民は自らの国を単にローマ帝国と自称しており、複数の皇帝が帝国領土を分割統治するのも、単に広大な領土を有効に統治するための便宜にすぎないと考えていた。この観点からいうならば、西ローマ帝国・東ローマ帝国というふたつの国家は存在せず、それらは、ひとつのローマ帝国の西方領土(西の部分)と東方領土(東の部分)だったということになる。西ローマ帝国が滅亡した後、東ローマ帝国は(滅亡の1453年にいたるまで)自らの国家をローマ帝国と自称したのも、こうした認識によるものである(東ローマ帝国の項を参照)。
395年にテオドシウス1世が死去すると、その2人の息子アルカディウスとホノリウスをともに皇帝として、ローマ帝国は東西に分割された。滅亡年は一般に476年9月4日(ロムルス・アウグストゥルスがゲルマン人傭兵オドアケルの圧迫を受けて退位)というのが一般的な説であるが、480年(ユリウス・ネポス殺害)とする説もある。通常、この西ローマ帝国の滅亡をもって中世の始まりとする。


ローマと地中海。太平洋を地中海とする日本と中国。東西移行期の現在、どちらがローマで、どちらがカルタゴか?海のシルクロード支配を争う日中は基本的に、ローマとカルタゴの関係です。
私の一時代270年寿命説(30x3x3)とサーカー氏の循環説の合体
わずかな時代の差があるが、むしろ2000年前の時代区分が、サーカー師の言う三大支配階級と
その時代の雰囲気を現しているのには、驚かされます。私の270年寿命説とサーカーの説とを
合わせれば、すべての時代の性格が読めるようになるとも言えます。
紀元0年を挟んでのその前後略800年の時代は、西洋ローマの時代。その後800年、1200~1300年
までは東洋の時代、そして今2000~2100年は東西の文明の移行期。従ってこれから800年間は
東洋の世紀と言う事に成ります。やがて有色人種に非ずんば人に非ずと言う時代を予感させます。