森田沙伊の絵の前で里依子は、この絵は前に送った絵ハガキの画家だということを私に伝えた。私はそれをよく覚えていた。
里依子から送られてきた絵ハガキの中の1枚が、森田沙伊の絵で赤い服を着せられた人形を描いたものであった。
その絵ハガキを見た瞬間、内側からうごめくような生々しい生命力を感じたのであったが、今目にしている絵もまた、絵柄や色調は全く違っていたにもかかわらず同じ感覚を私に呼び起こさせた . . . 本文を読む
何人かで美術館に行くと、たいてい私は気に入った作品の前で動かなくなる。相手のことを忘れて絵に没頭してしまう悪い癖があった。気付くと私一人が取り残されていることが常だったのだが、この日も私は片岡球子の富士の前で自分を失っていたのだった。それがどれ程の時間だったのか分からなかったが、ふと我に帰ったとき、里依子は私の横に立って熱心に絵を眺めていたのだ。
それをどのように表現しても、その時の里依子 . . . 本文を読む
いつになったら私にこんな絵が描けるのだろうか。片岡球子の絵を前にして私はため息を漏らした。
私はこのような大胆な表現をいつも夢見ながら、それを実現しようとする前に崩れてしまう脆弱さを持っている。片岡球子の絵には私には越えることのできない精神の峻厳さを感じるのだ。その迫力を私はただ羨ましいと思うばかりだった。
私は富士から眼を放すことができず長い間立ち尽くしていた。本物の絵に出合うと、反発す . . . 本文を読む
美術館は合掌造りを模した近代的は建物で、まだ新しかった。それを里依子に言うと、この美術館が出来てまだ4.5年だと彼女は答えた。
館内は人がまばらで、ゆったりとしていた。大きすぎず小さすぎず、ちょうど心にぴったりくるスペースの1階フロアがあって、常設展示室が見えた。
自然に私たちは展示室に入って行った。するとすぐに激しい色彩が私の目に飛び込んできた。300号はありそうなキャンバスに描かれた富 . . . 本文を読む
西18丁目という駅から再び地上に出て、しばらく歩くとそこはもう道立近代美術館である。そしてこのあたりは、西の方に山並が近かった。
のんびりとして横に広がる山々は、広い広い平原の向こうに雪をかぶっていた。
「あれが大倉山です」里依子が山を指差して教えた。
その山は一番手前にあって丸くこんもりとしていて、中央から長い鼻のように白い直線が垂直に伸びていた。札幌冬季オリンピック会場としてテレビ . . . 本文を読む
「どうしたの?」私が突然笑ったので、里依子が不思議そうに私を見た。
私は昨夜の居酒屋の話をし、札幌の地下鉄の車輪のことを説明した。ここでは普通なんですけどねと、里依子が笑顔で還した。
そうすると、夏、この地下鉄には風鈴が付けられるのだという板前の信じられない話も、本当のことなのかも知れない。思いだして私は里依子にそのことを聞いてみた。すると彼女は頷き、車両の天井を指差した。そこには大きな通 . . . 本文を読む
無理をしている。そう思うと私は里依子が健気なもののように思えてならなかった。考えてみれば、千歳に発つ前日に突然電話をし、会いたいという私に田舎に帰る予定だった里依子がそれを取りやめて会ってくれたのだ。
しかも明日、大切な仕事を控えていてどうしても休むわけにはいかない体を、風邪気味であるにもかかわらずこうしてやって来てくれた。それは私にとって言い知れぬ喜びだった。
同時に私のためにこうまでし . . . 本文を読む
心配が不安になる。そして私を苦しめ始める。これはいったい何だろう。はたしてそれは現実なのか幻か。
不安の目が改札口に里依子の姿を認めたとき、重苦しい気分は一瞬に消えた。始めからそんなものはなかったかのように、私は微笑み手を揚げて里依子に合図を送った。里依子もそれに応え、やがて私たちは間近で互いを見やり、里依子は遅れたことを詫びた。私も今来たばかりだと笑って応えた。
里依子は濃紺のコートを . . . 本文を読む
焦って小走りになりながら札幌駅に着いた。駅の時計は約束の時間を10分ほど過ぎていた。あわてて辺りを見回したが里依子はまだ来ていなかった。
列車の都合で遅れているのだろう。ホッとして心にゆとりが出来ると急に絵を描きたくなった。私はスケッチブックを開いて駅舎に行きかう人々の姿を描きはじめた。そして里依子がやってくるだろう改札口の方をちらちら眺めやるのだった。
日曜日の駅の構内は若者たちの姿で . . . 本文を読む
浅い眠りから目を覚ました。夢を見たようだった。なにやら奇妙な感じだけが残っていて、どんな夢であったのか思い返して見てもついに思い出すことはできなかった。
まだ早い時間で眠ろうとしたが、想いがさまざまに働いてどうすることもできずやがて諦めて起きだした。
里依子との約束の時間まで特にすることもなかったので、私はホテルを少し早めに出て、昨夜の北大をせめて主屋だけでも明るい日の中で見ておこうと考 . . . 本文を読む